第四十六話 港に集まる箱
今日もまた変わらない。
朝の光が天窓から落ち、常夜紫煙堂のガラス戸の四角がゆっくり移動した。
湿度計は五十六%。
瓶の列は口を結び、秤は皿を閉じ、針は零。
カウンターには今日の道具が並ぶ。ICレコーダー、指向性マイク、コンタクトマイク、非接触温度計、振動センサー、UVライト、封印シール、薄い磁石、綿棒、そしてNo.18“31”の小瓶。
「おはよう、天田」
「おはようございます、紫郎さん」
天田芽衣子は制服。
胸ポケットのペンは二本、向きがそろっている。
手には今日の計画表と、港の見取り図。
「目的は港の仮設倉庫B。昨日の軽バン“・・31”が午前に搬入予定です」
「入退場ゲートはRFIDで秒まで記録。駐車券のバーコードも時刻が残ります」
「秒で動きをつなぐ。音が消えても、揺れと粉と温度は残る」
「役割です。北条さんはゲートのログ。島倉さんは喫煙所。杉谷さんは保管台帳の写し。私は鍵袋の封印と薄い目印」
「俺はコンタクトマイクと匂いを見る」
「ああ。No.18“31”はごく薄く。触れたら分かる程度でいい」
鈴を鳴らし、ふたりはアーケードを抜けた。
ーーー
港は朝から忙しい。
フォークリフトのビープ音。
潮と油の匂い。
仮設のフェンスには立入禁止の札。
その向こうに仮設倉庫Bと白い喫煙所ボックス。
地面は金属の目地が多く、振動がよく伝わる。
門にはRFIDゲートと駐車券発券機。
壁時計の秒針は09:58:00。
北条が走ってきた。
「ゲートPC、秒まで同期した。監視カメラのオーバーレイ時刻も合わせた」
「助かる」
天田は鍵袋を一つずつ封印シールで閉じ、袋の内側にUVインクで短い線を引いた。
No.18“31”を綿棒でごく薄く置く。
袋は一本ずつ。
触れれば匂いが、開ければ線の乱れが出る。
「準備室B-2に入る鍵は三本。戻りの薄い目印で、触った鍵が分かります」
杉谷が台帳の写しを持ってくる。
紙には『BVT/OR/LO(葉落)』の記載。
BVTは加熱乾燥の明るい葉、ORは天日乾燥の香味葉。
混ぜ方が味の骨格になる。
欄外に鉛筆で『K-12/31』。
同じ手の記号がいくつも残る。
「“31”がまた出る」
「数字は目印にも合図にもなる。在った数字として記録だ」
10:06:20。
白い軽バンが現れた。
ナンバーは“つくば 480 そ ・・31”。
窓はやや濃いスモーク。
停車位置は喫煙所の斜め向かい、準備室B-2の窓のすぐ下。
左後輪が白線にかかる癖。
ガードレールの肩の高さに古い擦り傷。
「位置も癖も同じだ」
天田は準備室B-2の扉枠に振動センサー。
窓の外のガードレールにコンタクトマイク。
指向性マイクは喫煙所方向へ。
非接触温度計をラッチ金具へ向け、前後の温度を読む。
「同期。手拍子三回」
三回、短く。
壁時計は10:07:00。
軽バンの助手席側扉が少し開いた。
黒いケースが見える。
可搬キーマシンの箱の形。
ドライバーはフードにマスク。
腕時計は右手首。
左手のテンションレンチが黒く光る。
左利きの動き。
同時に喫煙所。
黒い作業着が入る。
Zippoが一度だけ火花を散らす。
フリント粉が左手前に落ちる。
Zippoは綿芯とチムニーの穴で風に強い構造で、常温でも揮発するナフサ燃料を使う。
ブタンの使い捨てより寒さに強いが、燃料臭は薄く残りやすい。
島倉がすぐに回収。
磁石で粉がわずかに寄る。
吸い殻のフィルターは活性炭入り。
一部の揮発成分を吸着して刺激を和らげるが、匂いの並び自体は変わらない。
紙には薄いリング。
低出火性のバンド紙の跡だ。
幾つもの国で義務化され、放置火災を減らすための帯が燃え移りを止める。
天田は回収の順番をメモに残した。
――粉→吸い殻→写真→時刻。
10:07:19。
コンタクトマイクの波形に細い振動が立つ。
一定のモーター。
ときどき高周波の擦れ。
「キーマシンの切削。車内で回してる」
10:07:48。
波形が一瞬だけ太くなる。
「ブランクをクランプした瞬間だ。真鍮粉が出る」
天田は非接触温度計をラッチへ向けた。
入室前が23.1℃、今が23.7℃。
上昇は0.6℃。
扉は重く動いていない。
金具だけが擦れた温度だ。
10:08:11。
北条が無線で告げる。
「RFIDゲート、軽バン入場10:06:21。準備室B-2の入室ログ10:07:10。カードIDは“設備主任”。退室10:08:02」
「秒がつながった。車内で作業、同時に入室ログでアリバイ」
10:08:33。
コンタクトマイクの波形が落ち、10:08:41に止まる。
軽バンは助手席扉を閉め、静かに前進。
そのままB倉庫の搬入口へ回り込んだ。
「追わない。在った事実を残す」
「はい」
搬入口では、舞台用の連絡箱に似た堅木の箱が二つ下ろされた。
脚の高さは四。
内部は二重底。
取手の裏に二センチの平面。
ラベルは『資料』『廃棄』。
鳳章インテリアのステッカーに、文化連絡協会の貼り紙が重なる。
杉谷が低く言う。
「札の順、昨日と同じ。“廃棄”が怪しい」
天田は人波が切れた十秒で近づき、取手裏のUVの線を視線だけで確認した。
指でこすられた乱れ。
No.18“31”の匂いもごく薄く乱れている。
「触られてます。入れ替えた」
「二重底は持ち上げない。滑らせて見るだけでいい」
紫郎は箱の呼吸を乱さず、底板を数ミリだけ滑らせた。
糊は薄い。
封筒が一つ。
封の見た目だけ元に戻した状態にするため、封は切らない。
中身だけ抜く。
代わりに同じ重さの空白紙を戻す。
座らせる。
音は短い。
「退く」
天田は封筒を防水袋に入れる。
目に入った記号は二つ。
『K-12/31』と『北回り/N』。
「“K-12/31”。北回り。同じ手です」
「在った」
軽バンが戻る。
喫煙所前に再び寄る。
今度は使い捨てライターを空押しした。
フリント粉は落ちない。
癖を隠しにきている。
だが左後輪の寄せと肩の擦り傷は同じ。
「癖は直らない」
北条が駆け寄る。
「駐車券10:06:21発券。ゲート退場10:19:04。準備室入退室10:07:10→10:08:02。波形停止10:08:41。秒が線になった」
「良いぞ」
ーーー
午後、港の監視室。
駐車帯カメラの静止画で、軽バンのナンバーが鮮明に出る。
運転席の影はフードとマスク。
喫煙所のカメラは左手のクセを捉えた。
吸い殻は活性炭フィルター。
紙のリングは低出火性の帯。
島倉が回収済み。
設備主任が来た。
額に汗、手にタブレット。
「入退室ログのカードID、本物の私です。でもその時間、私は東棟で配電盤にいました」
「監視映像で秒が出ています。カードは胸ポケットでしたね」
「はい」
「スキミングの可能性が高い。人混みで密着された時に複製されたかもしれません」
「最近、エレベーターで肩がぶつかったことが」
「その時刻も情報担当に回します」
紫郎は拾えたものを短く並べた。
一つ。コンタクトマイクでキーマシンの振動。10:07:19→10:08:41。車内作業。
二つ。ラッチ金具の0.6℃上昇。扉は重く動かず、内部で軽い摩擦。
三つ。喫煙所のフリント粉は左手前。左利き。
四つ。箱は二重底。“廃棄”は偽装。取手裏二センチの薄い目印に触跡。
五つ。封筒に『K-12/31』『北回り』。
六つ。ゲート、カメラ、駐車券の秒が一致。
「在った事実として記録します。名前は書きません。積むだけ」
喫煙所からは小さな破裂音がかすかに届く。
クレテックの紙巻が弾ける音だ。
クローブが燃えると微かなパチパチが出る。
その音が語源で、インドネシアでは“kretek”と呼ばれる。
音は癖を隠せない。
いつもの眠たげな声が落ちた。
「どうだ。港の空気は固いだろう」
「秒は取れています。車内作業です。鍵はカード複製の可能性が高い。箱は廃棄偽装。『K-12/31』『北回り』の記載も出ました」
「焦るな。港湾管理と情報担当で固めろ。現場は在った事実だけ積め」
佐伯は短く言って去った。
紫郎は背中を一度だけ見送り、資料に戻る。
ーーー
夕方。
常夜紫煙堂。
湿度は五十六%のまま。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
カウンターに今日の回収物とログを広げる。
真鍮粉、フリント粉、活性炭フィルターの吸い殻、封筒のコピー、コンタクトマイクの波形、RFIDと駐車券の時刻、監視カメラの静止画。
天田が封筒のコピーを読み上げる。
「『BVT乾/OR微/LO混合/水分九→六』『ロット統合/港外/箱経由』『帳尻:鳳章』。右下に『K-12/31』」
「鳳章、協会、弦月サービス、K-12/31、・・31。港で箱が交わる」
「青柳さんの『焦らず丁寧に』のメール言い回しは課長の口癖に似ています。でも今日の時間、課長は広報席で別。時刻で切れます」
「言い回しだけで決めない。在った事実を積む」
北条からメッセージが入る。
軽バンの所有者は弦月サービスの協力会社。
担当者“朝比奈”。
登録住所は鳳章インテリアの旧倉庫と同じ地番。
「名前が重なりました」
「名札は表。手を見る」
紫郎は吸い殻を指で崩した。
活性炭フィルターの黒い帯。
紙のリング。
放置で燃え進みにくい紙。
昨日の“遅い火”と相性がいい。
習慣として一致する。
「在った」
紫郎はボードに線を引く。
協会分室(鍵)――鳳章(札/帳尻)――弦月+協力会社(車/運搬)――港(ロット統合)――“K-12/31”(記号/合図)。
線の途中に“31”がいくつも刺さる。
No.18の試作“31”。
記号“12/31”。
ナンバー“・・31”。
「結論はまだ置かない。線だけ描く。明日はブランクの仕入れを追う。ロットが取れれば、車内の真鍮粉と照合できる」
「島倉さんは喫煙所。粉と吸い殻の時刻を秒でそろえる」
「杉谷は目録の写しを先に回す運用に。原本はあと」
「北条は港湾管理とゲートの原データ。秒のズレがあれば補正。映像の時刻も上書きで確認」
「了解しました」
天田はノートを閉じ、胸に軽く当てた。
「“北回り”のNは便利な記号。合図にも使える。でも匂いの順番はごまかせません。甘い→辛い→薄いオイル。今日も同じでした」
「並びは指紋に似てる。だから残る。煙は嘘を吐かない」
看板の紫が夜に向かって深くなる。
鈴が短く揺れた。
在った事実は十分に集まった。
線はほぼ描けた。
残るのは、誰が線を引かせているかだ。
「明日、ブランクとロット。それから“K-12/31”の書き手の癖を拾う。鉛筆の圧と消し跡。手は隠せない」
「記録して残します」
ふたりは道具を片付け、段取りをもう一度だけ交わした。
秒、粉、温度、匂い、札、数字。
消せないものだけを積む。
港で動いた箱は、必ず同じところへ戻ってくる。
その場所はもう見えている。
あとは、合図が出る瞬間を押さえるだけだ。
「行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
鈴が鳴り、扉が開く。
明日に向けて、短い言葉がいつもの位置に落ちた。
「煙は、嘘を吐かない」




