第四十四話 音が鍵を指す
朝の光が天窓から落ちて、常夜紫煙堂のガラス戸を四角く移動していく。
壁の湿度計は五十六%。
瓶の列は口を結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには今日の道具が並んだ。小型のICレコーダー、スマホ、指向性マイク、薄い磁石、綿棒、UVライト、No.18“31”の小瓶、そして透明の鍵袋束。
「おはようございます、紫郎さん」
「おはよう、天田」
天田芽衣子は制服。
胸ポケットのペンは二本で、向きがそろっている。
手には紙の管理表と小さな吸音パッド。
「段取りです。準備室A-3の換気口の枠にICレコーダーを仕込みます。壁の時計が同じ画角に入る位置で同期を取ります。廊下側は指向性マイクで拾います。スマホのスペクトラムアプリでピークの時刻を残します」
「キーマシンは高い連続音とモーターの低い唸りが重なる。音の形で分かる。秒も出る」
「今回も鍵袋は一本ずつ。内側にUVインクで短い線。No.18“31”はごく薄く。触れば匂い、開ければ線が乱れるよう仕掛けます」
「喫煙所は廊下の角。フリント粉を拾う。磁石で少し寄る。活性炭フィルターの吸い殻は別袋に」
「了解しました」
紫郎はNo.18“31”の蓋をほんの少し緩め、綿棒で空気を撫でるだけの量を作った。
甘い影がうすく残る。
鈴を鳴らし、ふたりはアーケードへ出た。
ーーー
文化連絡協会・月乃台分室。
プレハブの事務室は紙とインクと金属の匂い。
机の上には鍵の束。
札には『保管室』『資料庫』『準備室A-3』。
真鍮の金具が光る。
「杉谷さん、鍵は昨日と同じで袋式で徹底します。一本ずつ入れて、時刻と名前を必ず」
「はい。管理表もこの新しいものに」
杉谷が透明袋へ鍵を入れ、口を軽く閉じる。
天田は袋の内側にUVインクで短い線を引き、No.18“31”を極薄で置いていく。
廊下の向こうから、代理店の青柳が入ってきた。
名刺の肩書は進行ディレクター。
北条がRFIDゲートの同期票を持って現れる。
「出入室ログ、秒まで同期完了。準備室A-3のドアはICカードで開閉。喫煙所は角で固定。島倉は通路の目隠しを回す」
「助かる」
青柳が鍵袋を二つ持って準備室A-3へ。
扉のガラス越しに作業台。
ミニルーター、万力、切削油。
棚の下に真鍮色の粉がうっすら。
昨日と同じ。
「設置します」
天田が吸音パッドを換気口の枠へ貼り、ICレコーダーを固定した。
扉側の壁に指向性マイクを向ける。
スマホは胸ポケットでスペクトラムを走らせる。
「同期の合図、三つ数えます」
三つ数えて、壁の時計が10:21:00を示す。
廊下は静かで、紙の擦れと空調だけ。
南条が入ってくる。
左腰の工具ポーチ。
テンションレンチと細いピックの黒い柄。
白い軍手は片方だけ。
腕時計は右手首。
左手は空けてある。
「北条、ログ」
「10:31:42青柳入室。10:32:05南条入室。扉閉。現在10:32:20」
スマホの画面に、細い線が立った。
2kHz台の連続音。
同時に100Hz台の唸り。
色が濃くなる。
天田が目だけで合図を送る。
「来た。録れてる」
音は三十秒ほど続き、一度止まり、また二十秒。
止まる。
さらに十五秒。
合間に金属を当てる音。
クロスで拭う布擦れ。
切削油の薄い匂いが扉の隙間からにじむ。
「北条」
「10:33:11青柳退室。10:33:40南条退室。秒で残った」
「喫煙所へ」
南条は角の喫煙所へ行き、左手でZippoを弾いた。
火花が短く散る。
フリント粉が左手前に落ちる。
吸い殻は活性炭フィルター。
紙には薄いリング――出火性低減のバンド紙の跡。
天田は粉→吸い殻→写真→時刻の順に記録して残す。
磁石で粉がわずかに寄る。
「青柳は喫煙所を素通り。通用口へ」
「鍵袋の戻りを見る」
事務室。
青柳が鍵袋を杉谷に返す。
「二本戻した。残りはあとで」
「確認します」
天田が手元でUVライトを当てた。
袋の口の線が乱れている。
No.18“31”の薄い匂いは、袋の内側で濃淡がずれている。
「開けて、触って、閉めた」
「ああ。次は鍵そのものだ。金具の内側に置いた薄い目印で順番を見る」
戻った鍵の真鍮金具を綿棒で内側だけ軽くなぞる。
うすい甘さが乗る。
準備室A-3を通った鍵は匂いが濃い。
通らない鍵は薄い。
差が出た。
「順番が分かりました」
「いい。扉の方も拾う。鍵穴の摩耗粉だ」
準備室A-3の敷居の角に、きらっと光る細かい金色。
綿棒でやさしく取る。
真鍮粉がわずかに付いた。
抜き差しの直後に出る粉だ。
「粉、袋、鍵の匂い、秒。そろった」
「在った事実として、置きます」
その時、案内放送で人波が動いた。
島倉が台車で自然に目隠しを作る。
天田はICレコーダーを回収。
スマホのスペクトラムは10:32台のピークを保存したまま。
「課長が来ます」
眠たげな声が近づく。
「どうだ。大人しく回ってるか」
「準備室A-3の音を録音できました。時刻はログと一致です」
「設備に回せ。焦るな。音は環境に混ざる。決めすぎるな。記録を固めろ」
「はい」
佐伯は壁の時計を一度だけ見て、広報へ消えた。
紫郎は、その仕草を短く記録して残す。
ーーー
午後。保管室。
『返却』『資料』『廃棄』の箱は番号順。
脚は“四”。
二重底。
取手裏“二センチ”には今日も薄い目印。
No.18“31”の甘い影。
「写真、四隅。印字、傷」
二重底は持ち上げず、滑らせて見る。
封筒は一つ。
糊は薄い。
封の見た目だけ元に戻した状態にするため、封は切らない。
中身だけ抜く。
同じ重さの白紙を戻す。
音は短い。
「見ます」
紙は三枚。
『北回り(N)』『ロット統合/港外』『帳尻:鳳章』。
右下に『K-12/31』。
消しかけの線、濃さ、同じ。
「紙の道は今日もここ。鍵の道は準備室A-3。二つは重なる」
「重なりました。在った事実として、置きます」
廊下へ出ると、南条がメッセージを打っていた。
親指は右、左手で支える。
工具ポーチのピックが布の影から少し伸びる。
彼はふっと笑って、喫煙所へ消えた。
ーーー
夕方。常夜紫煙堂。
湿度五十六%。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
カウンターに今日の回収物が並ぶ。
真鍮粉、フリント粉、吸い殻、鍵袋の写真、RFIDログ、スペクトラム画像、準備室A-3の摩耗粉。
「順にいこう。まず音だ」
「10:32:05〜10:33:35に三度、2kHz台の連続音と100Hz台の唸りが出ました。キーマシンの音と一致します。壁時計の針も映っていて秒が見えます」
「次、粉」
「準備室A-3は真鍮粉。磁石に反応しません。喫煙所はフリント粉。磁石にわずかに寄ります。別物です」
「次、袋」
「UVインクの線が乱れ。No.18“31”の濃淡のズレも出ました。開けて触った証拠です」
「次、鍵」
「金具の内側の薄い匂い。準備室A-3へ持ち込まれた鍵が濃い。順番が分かりました」
「最後、紙」
「『北回り(N)』『帳尻:鳳章』『K-12/31』。記法と消しかけ、一致です」
紫郎は頷く。
「今日の結論。合鍵か刻み直しが準備室A-3で行われた。証拠は音、粉、袋、時刻。さらに鍵の匂いと扉の摩耗粉で裏が取れた。在った事実だ」
「記録して残しました」
「次の手。音の比較対照を取る。正規の業者で公認のカットを録らせてもらう。音の形を並べる」
「喫煙所は明日も同じ位置。粉→吸い殻→写真→時刻で拾います。左手前に粉が寄るか、もう一日確認します」
「鍵袋は封印シールを追加だ。剥がすと『開封済』が残るタイプ。袋の口はUVインク+封印にする」
「了解しました」
天田は安堵の息を一つついた。
紫郎は小瓶の蓋を閉め、灰皿を中央に寄せる。
Zippoは綿芯にナフサを含ませて燃える。
使い捨てはブタン。
残り香の質は違う。
活性炭フィルターは気相成分の一部を吸着して刺激を和らげるが、吸い方の癖までは隠せない。
紙巻のベンチレーションホールは機械測定を低く出すが、孔を指で塞げば取り込みは上がる。
バンド紙のリングは各国で義務化された低出火性の仕様で、燃え足を鈍らせる。
どれも“時間を作る道具”だ。
郵便口から白い封筒が滑り込む。
中はカードが一枚。
印字は少ない。
『音は消せる。焦るな。――K』
「挑発ですね」
「ああ。音を消すなら、吸音材か可搬機。車内でやる手もある」
「対策は」
「音を一つ増やす。振動センサーを床梁に貼る。音を消しても振動は残る。温度も取る。切削直後は金具がわずかに温かい。非接触温度計で測る。最後に匂い。No.18“31”を薄く重ねる」
「分かりました」
「北条にはゲートログの保存延長。島倉は目隠しの位置を自然に変える。杉谷は封印シールの運用。天田は音と時刻の突き合わせだ」
「はい」
看板の紫が夜に向かって濃くなる。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
外の風が一度だけ通り、紙の端がわずかにめくれ、『K-12/31』が薄く光った。
「行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
扉が開く。
一日の秒が、粉と音と匂いで一本につながる。
ふたりの足音は静かで、早すぎず、遅すぎない。
その真ん中に、今日も置く。
「煙は、嘘を吐かない」




