第四十三話 鍵は道を描く
朝の光がアーケードの天窓を四角く切って、常夜紫煙堂のガラス戸に移っていく。
壁の湿度計は五十六%。
瓶の列は口を結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには、小さな紫外線ライト、薄い磁石、綿棒、ルーペ、No.18の試作“31”の小瓶、そして“鍵袋”の束が並ぶ。
「おはようございます、紫郎さん」
「おはよう、天田」
天田芽衣子は制服。
胸ポケットのペンは二本、向きがそろっている。
片手には新しい管理表、もう片手には透明の鍵袋の束。
「段取りです。鍵は一本ずつ袋で管理します。袋の内側にNo.18“31”を極薄で置きました。さらにUVインクで短い線を引いてあります。触れば匂いが残り、開ければ線が乱れます」
「いい。匂いが“触れた証拠”、線が“開けた証拠”になる」
「時刻はRFIDゲートと出入室ログで秒まで取ります。北条さんが同期を押さえました」
「喫煙所の位置は」
「分室の廊下の角です。風は南西。灰と粉は“左手前”に寄ります」
「ならフリント粉も同じ所に溜まる。磁石でわずかに寄る。拾う順番は粉→吸い殻→写真→時刻だ」
「了解しました」
紫郎は小瓶の蓋をほんの少し緩め、綿棒で空気に触れさせた。
蜂蜜の影のような甘い匂いが一筋だけ残る。
鈴が短く鳴り、ふたりは店を出た。
ーーー
午前。文化連絡協会・月乃台分室の廊下は、紙とインクと金属の匂い。
プレハブの事務室の机には鍵の束。
札は『保管室』『資料庫』『準備室A-3』。
どれも真鍮の金具で光る。
「杉谷さん、鍵の扱いを袋式に変えます。一本ずつ入れて、時刻と名前を書いてください」
「はい。管理表も新しくします」
杉谷が透明袋に一本ずつ鍵を入れ、袋の口を軽く閉じる。
天田は袋の内側にUVインクで短い線を入れ、No.18“31”をごく薄く置いていく。
「代理店の青柳さんが来ました」
ネクタイの男が入る。
名札は代理店・青柳。
「今日の運用、押してます。鍵はまとめて俺が預かる。焦るな。あとで一括で書く」
「すみません。袋式に変わりました。一本ずつ、です」
「じゃあ一本ずつだ。焦らず丁寧に、な」
北条が廊下の端で小さく手を上げる。
「ゲートは同期済み。出入室ログは秒まで取れる。喫煙所は角で固定。島倉が通路の目隠しを回す」
「助かる」
青柳は鍵袋を持って“準備室A-3”へ。
扉のガラス越しに、作業台と電動工具。
ミニルーター、万力、接着剤、潤滑剤。
棚の下には掃除が甘い黄色い粉。
色は金に近い――真鍮の切削粉だ。
「紫郎さん、合鍵カッターの粉ですね」
「そうだ。キーマシンの粉は真鍮色になる。切削油の匂いも薄い」
準備室の中で、青柳は袋から出した鍵を作業台に置き、刻みを確認している。
南条が遅れて入る。
左腰の工具ポーチから覗くのはテンションレンチと細いピック。
鍵穴にテンションをかける道具だ。
天田は視線で問い、紫郎は首を小さく横に振った。
呼び止めない。
物で積む。
「準備室A-3。ICカード入室10:41:52青柳。10:42:15南条。退室10:46:03青柳、10:47:10南条。秒まで取れてる」
「よし。戻ってくる鍵袋の匂いと線を見る」
数分後、青柳が鍵袋を持って廊下へ。
「二本先に返します。残りはあとで」
「ありがとうございます。確認します」
杉谷が袋を受け取り、机に置く。
天田は手元でUVライトを当てる。
袋の口の内側に引いた短い線は乱れている。
指でこすった跡。
No.18“31”の甘い影も、袋の内側で濃淡が揃っていない。
「開けて触って、また閉められました」
「ああ。袋式で分かる。次は鍵そのものだ。金具の内側に置いた匂いの残りで順番が見える」
南条は準備室を出て、喫煙所へ向かう。
左手でZippoを弾き、短く火花を散らす。
灰皿の左手前に灰が落ちる。
活性炭フィルターの吸い殻。
紙には薄いリング――燃焼抑制帯の跡。
天田は粉→吸い殻→写真→時刻の順に記録して残す。
磁石を当てると黒い粒がわずかに寄る。
フリント粉だ。
「青柳さんは喫煙所に寄りません。まっすぐ通用口へ」
「なら匂いは鍵だけで追える。準備室A-3をもう一度見る」
島倉の台車が通路を塞いだ一瞬。
扉を軽く開け、足だけ入れる。
床の隅に真鍮粉。
作業台にミニルーター。
クロスに切削油の染み。
ゴミ箱の底に短く切られた鍵ブランクの先端。
刻印は『D5』。
ディンプルキー用の型番に似る。
「ここで合鍵を作った。袋の線が乱れ、匂いが動き、粉がある。時刻も残った」
「袋は一本ずつでした。勝手に開けて、作業して、戻した。線の乱れがそれを示します」
「杉谷、返却された鍵は番号ごとに袋を分けろ。袋の内側にNo.18“31”をもう一度ごく薄く。順番が見える」
「了解です」
青柳は「焦るな」とだけ残して別棟へ。
南条は喫煙所から港へ戻る。
歩幅は一定。
左手の親指が自然にホイールを撫でる。
粉は落とさない。
慣れた動きだ。
ーーー
正午。保管室の前。
協会職員が鍵を受け取り扉を開ける。
棚には『返却』『資料』『廃棄』の箱。
脚は“四”。
二重底。
取手裏“二センチ”には昨日と同じ薄い目印。
No.18“31”の甘い影。
「写真、四隅。印字、傷」
職員が去ったあと、紫郎は二重底を持ち上げずに滑らせた。
封筒は一つ。
糊は薄い。
封の見た目だけ元に戻した状態にするため、封は切らない。
中身だけ抜き、同じ重さの白紙を戻す。
音は短い。
「確認します」
紙は三枚。
『北回り(N)』『ロット統合/港外』『帳尻:鳳章』。
右下に『K-12/31』。
記法は昨日と同じ。
数字の癖も同じ。
消しかけの線も同じ。
「紙の道は今日もここに来た。鍵の道は準備室A-3を通った。二つは重なる」
「重なりました。在った事実として、置きます」
天田はノートに短く積む。
――準備室A-3=真鍮粉。
――袋の線=乱れ。
――鍵金具=匂い。
――喫煙所=左。
――RFID=秒。
「どうだ。片付いたか」
佐伯課長が通路に現れた。
「小さな作業痕が出ました。準備室A-3で鍵の扱いがありました」
「設備と管理に回しておけ。焦るな。鍵は一括管理にして、記録を固めろ」
「はい」
佐伯は粉を踏まずに去る。
焦るなの音が、少し硬い。
紫郎は「鍵の一括」を心に置いた。
今日、鍵は代理店側が実質まとめた。
次もか。
覚えておく。
ーーー
午後。港の第三ヤード。
RFIDゲートの赤が緑に変わり、弦月サービスの白いトラックが入る。
運転席は一人。
停車ラインに正確に入った。
「風は南西。喫煙所はゲート手前の角。視界は島倉が台車で切る。ログは秒までいける」
「了解」
南条が『廃棄』札の箱にしゃがみ、左手で取手裏を探る。
二重底は持ち上げない。
右手で角を支え、指先だけで滑らせる。
黒い封筒を抜き、同じ厚みの封筒を差し戻す。
戻しも早い。
箱は座る。
動きは三十秒。
南条は箱を離れ、脚の影に小さな銀色を落とした。
フリントホイールの予備だ。
指の腹に粉。
床の隅に黒い粒がわずかに散る。
島倉の台車が通路をかすめ、視界が一瞬切れる。
次の瞬間、脚元から白い煙が細く立つ。
甘い匂いが先に来て、すぐに辛さが追い、遅れてオイルが残る。
火災ベルが鳴り、ヤードのスプリンクラーが開いた。
「離れて。通路、確保」
紫郎は濡れた紙に触れない。
床の黒い粒だけ綿棒で拾い、磁石に寄せる。
粉がほんの少し動く。
「フリント粉、回収。写真」
「撮りました。RFIDは06:12:31入場、06:13:02退場。スプリンクラー06:13:08。差は三十秒弱です」
「箱の外で火を入れている。鍵の返却を待つ」
騒ぎが収まると、青柳が鍵袋を持って現れた。
「二本先に返す。残りはあとで」
「確認します」
UVライトで袋の線は乱れ、No.18“31”の匂いは濃淡がずれる。
金具の内側に置いた匂いは、ある鍵で濃い。
準備室A-3へ行った鍵だ。
ーーー
夕方。常夜紫煙堂。
湿度は五十六%。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
カウンターに、今日の回収物が並ぶ。
真鍮粉の小袋。
フリント粉の小袋。
活性炭フィルターの吸い殻。
袋の写真。
RFIDログの写し。
準備室A-3の出入室ログ。
「順にいこう。まず粉だ」
「準備室A-3の床から真鍮粉。磁石に反応しません。キーマシンの切削粉と一致。喫煙所の黒い粉はフリント粉。磁石にわずかに寄ります。別物です」
「次、袋」
「UVライトで線の乱れを確認。袋内のNo.18“31”は濃淡がズレています。開けて触って閉じた、です」
「次、鍵」
「返却済みの鍵の金具内側にNo.18“31”の匂い。付着順が違います。準備室A-3に持ち込まれた鍵は濃い。机で何度か触られたはずです」
「次、時刻」
「10:41:52青柳入室→10:46:03青柳退室。10:42:15南条入室→10:47:10南条退室。RFIDは06:12台。午後の小火はなし。箱の中身は無傷で回収できました」
「最後、紙」
「『北回り(N)』『帳尻:鳳章』『K-12/31』。記法と消しかけの跡は一致しています」
紫郎は短く頷く。
「今日の結論。鍵は準備室A-3を通っていた。そこで合鍵か刻み直し。証拠は四つ。真鍮粉、袋の線、鍵の匂い、時刻。在った事実だ」
「記録して残しました」
「明日は“音”を取る。キーマシンは独特の音が出る。周波数が狭い。スマホで十分録れる。音も証拠だ」
「喫煙所は今日と同じ位置で押さえます。左手前の灰。活性炭フィルター。ベンチレーションホールの擦れも見ます。指や唇で孔を塞ぐと実際の取り込みは上がるので、癖の証拠になります」
「良い。Zippoの匂いはナフサ系、使い捨てはブタン。残り香の違いも併記しておけ」
「はい。巻紙の透かしも見ます。同じ銘柄でもロットで水印が違うことがあります」
「それから一つ覚えておけ。多くの地域で使われる低着火性の“バンド紙”は、見えづらいリングが燃え足を鈍らせる。今日のリング痕は、その帯で説明出来る」
「止めやすい“一分”を作る道具、という事ですね」
「ああ。だから一分で足りる。こちらは一分を潰す段取りを足す」
天田はふっと息を吐き、目を上げた。
「鍵は道。鍵の道と紙の道が重なる所に、今日の人が立っている」
「そうだ。道は交差する。そこで匂いと時刻が揃う。だから言える」
「煙は嘘を吐かない、ですね」
「ああ。匂いの順番はごまかせない。粉も嘘をつかない。秒もごまかせない」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、店の空気を一度だけ整えた。
看板の紫が夜で少し濃くなる。
鈴が短く揺れる。
「明日は、音と鍵袋の“戻り”を袋ごとに追う。誰が長く持つかを見る」
「私はカメラを二台。音と同時に時刻を映します。秒で並べます」
「行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
扉が開く。
鍵を削る音、火花の粉、甘い匂い。
全部が一本の線になる準備は整った。
ふたりの足音は静かで、早すぎず、遅すぎない。
その真ん中に、いつもの言葉が落ちた。
「煙は、嘘を吐かない」




