第四十二話 鍵の匂い
明け方の色はまだ薄い。
アーケードの天窓は灰を含んだ水色で、常夜紫煙堂のガラス戸にゆっくり落ちてきた。
壁の湿度計は五十六%。
瓶の列は口を結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには、昨夜そろえた道具――薄い磁石、綿棒、活性炭フィルター、そして“鍵用”の小瓶。
「おはようございます、紫郎さん」
「おはよう、天田」
天田芽衣子は制服。
胸ポケットのペンは二本、向きが揃っている。
手には鍵の写し表と、通行ログの控え。
「段取り、確認します。『分室』と『保管室』の鍵に薄い匂いマーカーを入れました。金具の内側に、ごく少量。触れば分かります。匂いはNo.18の試作“31”を薄く」
「ああ。それでいい。匂いの薄い目印は“誰が触ったか”を覚えてくれる。次に時刻。港の第三ヤード、RFID(非接触IC)ゲートのログは秒単位で出る。北条が押さえる」
「喫煙所の位置は、風下に一つ。海風は今朝、南西です」
「なら灰は通路の角へ寄る。粉も同じ場所へ集まる。フリント粉(ライターの着火石の粉)は磁石でわずかに寄る。拾う順番は“粉→吸い殻→写真→時刻”」
「了解。声はかけない。時刻と粉と鍵の匂いで十分にします」
「その調子だ」
紫郎は小瓶の蓋をほんの少し緩め、綿棒で空気に薄く触れさせた。
蜂蜜の影みたいな、甘くて短い匂いがひとすじ残る。
鈴を鳴らし、ふたりは店を出た。
ーーー
港区・第三ヤード。
まだ朝の音が立ち上がる前。
コンテナの壁が風を切り、地面の鉄板は夜露で鈍く光る。
遠くのクレーンが腕を止めている。
空気は塩を含み、冷たい。
北条が先に来ていた。
手にはRFIDゲートの申請票とタイムサーバーの同期証明。
「風は南西。喫煙所はゲート手前の角。通路の視界は島倉が台車で切る。杉谷は鍵の受け渡しと写し。黒いバン、一台。運転はいつもの男。左利き。動画まわす」
「助かる」
「今日は“北回り(N)”の紙がここへ来る。弦月サービスのトラックだ。動きは一分で終わる。止める気配を出さずに、見るだけでいい」
「了解」
「箱は三つ。『返却』『資料』『廃棄』。脚は四。内部は二重底。取手裏“二センチ”の薄い匂いマーカー、入れてある」
六時を過ぎると、ヤードの中の時計がいっせいに歩き始めた。
ゲートの赤が緑に変わり、弦月サービスの白いトラックが入る。
運転席の肩は細い。
助手席なし。
停車ラインに正確に入った。
「来た」
荷台から降りたのは作業着の男。
名札は南条。
顔は下、歩幅は一定。
左手が先に動く。
協会の分室の社員が持ってきた束の鍵を、代理店スーツの男が受け取り、軽く笑う。
「青柳さん、鍵はまとめて預かるんですか」
「押してる。ここは俺がやる。焦るな」
名札が光る。
代理店・青柳。
昨日と同じ声。
同じ言い方。
天田は視線だけで合図を返す。
紫郎は肩を少し下げた。
声はかけない。
目に残す。
南条は『廃棄』の札の箱の前にしゃがみ、左手で取手裏を探る。
二重底は持ち上げない。
右手で角を支え、指先だけで滑らせる。
黒い封筒を抜き、同じ厚みの封筒を差し戻す。
戻しも早い。
箱は座る。
三十秒。
南条は立ち、脚の影に小さな銀色を落とした。
フリントホイールの予備だ。
指の腹に粉。
床の隅に黒い粒がわずかに散る。
島倉の台車が通路をかすめ、視界が一瞬だけ切れた。
次の瞬間、脚元から白い煙が細く立つ。
甘い匂いが先に来る。
ナフサ(オイル燃料)。
少し遅れて丁子油の辛い香り。
さらに遅れてオイルの鈍い匂い。
甘→辛→オイルの並び。
火災ベルが鳴り、ヤードのスプリンクラーが開いた。
「離れて。通路、開けて」
紫郎は濡れた紙には触れない。
床の黒い粒だけ、綿棒で軽く拾う。
磁石に近づける。
粉がほんの少し寄る。
「フリント粉、回収」
「RFIDゲート、06:12:31 入場、06:13:02 退場。スプリンクラー06:13:08。差は三十秒弱。昨日と似ています」
「よし。箱の外で火を入れている。鍵の返却は」
「分室の鍵、代理店の青柳さんが“まとめて預かり”のままです。返却は後ほどと言われました」
「触った鍵は匂いが残っている。薄い匂いマーカーだ。戻りを待つ」
火は早く止まった。
濡れた箱は警備の手でシートに包まれ、写真だけが残る。
南条は喫煙所へ流れ、左手でZippoを弾いた。
芯は白く、バッティングに染みたナフサがすぐ立ち上がる。
火花は短い。
灰皿の左手前に灰を落とす。
吸い殻のフィルターには活性炭の帯。
紙の焼け跡にはバンド紙(燃焼抑制帯)の薄いリング。
天田は手順どおりに拾う。
粉→吸い殻→写真→時刻。
表情は崩さない。
「弦月サービスのトラック、退場ログ取りました。運転、南条本人。同時刻にゲート通過。秒まで一致」
「在った事実が揃った。鍵の返却を待つ」
騒ぎがひと段落すると、代理店の青柳が束の鍵を持って現れた。
汗はない。
笑顔は薄い。
仕事の声。
「杉谷さん、鍵。二本、先に返します。残りはあとで」
「ありがとうございます。……少し確認を」
鍵は金具の内側で光った。
杉谷が書類上の確認をしている間に、天田は金具の縁を“見るだけ”。
紫郎は鼻だけで“嗅ぐだけ”。
No.18の試作“31”の甘い影が、ごく薄く線を引いていた。
指で拭われた痕もある。
けれど、消えない。
残る。
「紫郎さん」
「ああ。触っている。誰かが。――青柳か、その前の手だ」
青柳は短く会釈し、通路へ消えた。
歩き方は速いが、乱れはない。
喫煙所には寄らない。
南条は別のラインへ移動。
左手のZippoをポケットに落とすとき、親指が自然にホイールを撫でる。
粉は指には残らない。
慣れている動きだ。
「杉谷、返却済みの鍵は袋へ。番号ごとに袋を分ける。袋の内側にNo.18“31”を薄く、もう一度」
「分かりました」
「北条、RFIDのログとスプリンクラーの時刻、今朝の全員の出入り。秒のまま一枚に並べる。時刻がアリバイになる」
「了解」
ヤードの朝が本格的に動き出す。
クレーンが腕を上げ、トレーラーの列が増える。
騒音が大きくなる前に、ふたりは一度引いた。
ーーー
昼前。分室の事務棟。
プレハブの通路は紙とダンボールの匂い。
書棚の上段に貸出簿。
杉谷が鍵の返却を受け、控えを取る。
青柳は“まとめて”の姿勢を崩さない。
「後で一括で書きます。焦ると間違えるので」
同じ言い方。
焦るな。
天田は笑顔だけ返して引く。
口を開かない。
開く必要がない。
廊下の角の喫煙所は静かだった。
吸い殻は交換前。
灰皿の底には、左手前に新しい灰。
フィルターは活性炭帯。
紙のリングは薄い。
ベンチレーションホールは三列。
測定機械では“低タール”に見えやすいが、指で孔をふさげば実際の取り込みは上がる。
天田は磁石を袋の外から当てる。
回収した粉がわずかに寄る。
写真を撮り、時刻をメモ。
何も足さない。
何も引かない。
「分室の台帳、少し見えました」杉谷が戻ってきた。
「『K-12/31』のメモが“伝票箱”に鉛筆で残ってます。消しゴムで消しかけの跡」
「“K”はロット記号。人の頭文字じゃない」
「そこに“北回り(N)”の印。今日の紙と一致」
「一致を二つ、三つ、積む」
「粉=左」「匂いの並び=甘→辛→オイル」「鍵=匂い」
天田はノートに置いた。
「いい。結論は急がない。物と時刻で道を作る」
自動ドアが開き、眠たげな声が落ちた。
「大丈夫か。今朝は厄介だったな」
佐伯課長が来た。
眠たげな目。
緩いネクタイ。
粉を踏まない足。
天田は姿勢を正す。
「今回も小火で済みました。設備が早かったです」
「ならよし。焦るな。鍵は一括管理にして、現場は記録を固めろ。広報はこちらでやる」
「はい」
佐伯は短く頷き、消えた。
言い方はいつも通り。
紫郎は“鍵の一括”という言葉だけを、心の棚に置く。
今日、鍵は代理店側がまとめた。
次もそうか。
覚えておく。
ーーー
夕刻。常夜紫煙堂。
湿度は五十六%のまま。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
カウンターに、今日の回収物が並ぶ。
フリント粉の小袋。
活性炭フィルター。
紙のリング。
鍵の袋。
RFIDログの写し。
「天田。順にいこう。まず粉」
「喫煙所“左手前”の床から回収。磁石に反応。フリント粉。Zippoのホイール由来で一致」
「次、吸い殻」
「フィルターは活性炭入り。紙はバンド紙のリングあり。燃え方は遅い。『一分で』止めやすい紙。多くの地域で義務化された“低燃焼紙”の仕様に近い」
「次、匂いの並び」
「甘→辛→オイル。ナフサ→丁子→オイル。昨日と同じ並び。嗅いだ順序で記録済み。――丁子の主成分オイゲノールは、昔から歯痛の鎮静に使われた香りです。クレテック(丁子入り紙巻)はその甘辛で知られます」
「次、時刻」
「06:12:31 入場/06:13:02 退場。スプリンクラー06:13:08。差は三十秒弱。南条は“退場済み”。時刻がアリバイになっている」
「最後、鍵」
「返却された鍵の金具に、No.18“31”の薄い匂いが残ってました。目印です。触った順で濃さが違いました」
「濃い鍵は“分室→保管室”。青柳の手に長くあった鍵は“消そうとして”指で拭われている。それでも残った」
「はい。写真と嗅いだ時間を並べました。秒で一致します」
紫郎は短く頷く。
声は低いが、はっきりしている。
「今日の結論だ。呼び止めない。物で積む。左の火花。匂いの順番。鍵の匂い。RFIDの秒。――全部、在った事実だ」
「書いて残しました」
「次は“鍵の経路”をもう一段、細かくする。袋ごとにナンバー。返却の順序。袋の内側にも薄い匂いマーカー。誰がどの袋を長く持ったか分かる」
「私は台帳の“書き癖”を見ます。『K-12/31』の筆圧。消しゴムの跡。書いた人の同じ動作の癖があるはずです」
「北条はゲートとスプリンクラーの“時刻同期”をもう一度。秒のズレがないか確認」
「島倉は動線。通路の“目隠し”を自然に作る道具を増やす。今日は台車。明日は段ボールの積み替え」
「杉谷は鍵。署の“証拠袋”式で扱えるように管理表を変える。焦らず、順番」
作戦を一巡させると、店の空気が落ち着いた。
看板の紫が夜で少し濃くなる。
外の風が一度だけ通り、紙の端をめくった。
『K-12/31』の小さな印字が光る。
「紫郎さん。今日の決め手は、秒と粉と鍵の匂い。この三つです」
「ああ。秒は動きの長さ。粉は手の癖。鍵の匂いは触った証拠。三つが揃えば、言える」
「煙は嘘を吐かない、ですね」
「そうだ。煙は順番で語る。鼻は順番で覚える。だから、嘘がつけない」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、店の空気を一度だけ整えた。
鈴が短く揺れる。
「明日、“分室の鍵”から入る。鍵が道だ。鍵の道が紙の道と重なれば、線になる」
「準備します」
「行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
扉が開く。
一分で動く手と、一分を見抜く手。
どちらが先かは、次の現場が教えてくれる。
ふたりの足音は静かで、早すぎず、遅すぎない。
その真ん中に、いつもの言葉が落ちた。
「煙は、嘘を吐かない」




