第四十一話 左手の火花
変わらないいつもの朝。
アーケードの天窓を四角く切り取り、常夜紫煙堂のガラス戸の内側へゆっくり滑ってきた。
壁の湿度計はきょうも五十六%。
瓶の列は口を結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには昨夜のメモ、薄い活性炭フィルター、綿棒、そして小さな磁石。
「おはようございます、紫郎さん」
「おはよう、天田」
天田芽衣子は制服。
胸ポケットのペンは二本、向きが揃っている。
手にはメモと通行ログの写し。
「まず報告です。港の仮設倉庫B、入退室の通行ログが秒単位で出ました。昨日、箱に触った時間は14:01:38入室、14:02:05退室。スプリンクラーは14:02:11に反応」
「二十七秒の差。箱の中で火をつけたんじゃない。外で着火して、離れている」
「喫煙所からフリント粉(ライターの着火石の粉)も回収できました。磁石に少しだけ反応」
「よし。きょうは“誰が”を決める側へ進む」
紫郎は小瓶の蓋を少しだけ緩め、綿棒で香りを空気に薄く置いた。
蜂蜜の影の匂い。
No.18の試作“31”。
店の空気が一段やわらぐ。
「確認する。候補は三人。搬入応援の南条。協会の設備主任。代理店の青柳」
「はい。三人とも箱に触れる資格あり。けど“左利き”は南条さんだけ。喫煙所で缶コーヒーをいつも左手で持つそうです」
「じゃあ狙いは南条でいこう。呼び止めずに証拠で固める。証拠は二つ。時刻(秒まで)と粉だ。匂いの並び――甘い→辛い→オイル――が同じかどうかも見る」
「了解。言葉は短く。結論から」
「その調子だ」
鈴を鳴らし、ふたりはアーケードを出た。
ーーー
港の仮設倉庫B。
海風は弱く、風見は南西を指している。
今日は見学ルートの最終調整日。
人の流れは表へ向いて、裏通路が短く緩む。
鳳章インテリアの裏、同じ堅木の箱が三つ並ぶ。
札は『返却』『資料』『廃棄』。
脚の高さは“四”。
内部は二重底。
取手の裏に二センチの薄い匂いマーカー。
いつもの顔だ。
「島倉、位置は」
「通路の角に台車。視界は切れる。もし南条が来たら、台車の動きで三十秒稼げる」
「杉谷、鍵の管理」
「保管室の鍵は私が持ちます。貸出は記録。返却は十五分厳守」
「北条は」
「外周OK。黒いバンはきょうも来てる。運転手、左手でZippo。動画も押さえた」
舞台側のアナウンスが一度大きく鳴り、通路の目が正面へ向く。
その短い隙に、作業着の男が滑り込んだ。
名札は南条。
顔は下向き。
歩幅は一定。
左手で取手の裏を探り、右手で角を支え、二重底を浮かせずに滑らせる。
黒い封筒を抜き、同じ厚みの封筒を差し戻す。
箱を座らせる。
三十秒。
天田は追わない。
取手裏を目で確認。
薄い匂いマーカーは、触られたあとのごく浅いズレで生きている。
南条は箱から離れ、廊下の喫煙所へ吸い寄せられるように向かった。
壁の陰で紫郎が顎を引く。
止めない。
今度は見るだけだ。
喫煙所。
南条は左手でZippoを弾く。
黒い火花。
フェロセリウム(着火石)をねじる音。
炎は短い。
右手には白い紙巻。
フィルターは活性炭帯で、口当たりを丸めるタイプ。
南条は一口だけ吸い、火を消す。
灰皿に灰を落とす位置は左側手前。
天田が目で位置を記録する。
「今、拾う」
「拾わない。ここでは見た事実を覚える。あとで順番どおり回収だ」
南条は灰皿の縁を軽く叩き、通路の角へ戻る。
足は白い粉の固まりを自然に避ける。
視線は落とさない。
避け方に迷いがない。
練習の跡だ。
「島倉、台車」
「了解」
島倉の台車が無言で通路を横切り、数秒だけ視界を遮る。
南条はその影を使って、廃棄箱の脚元に小さな銀色の物を置いた。
ライターのフリントホイールの予備だ。
指の腹に粉。
粉は床へ白い水流に沿って広がり、角で一度だけ渦を巻く。
「……やった」
紫郎は低く言い、天田の目とだけ合図を交わす。
時計を見る。
14:01:36。
南条は箱から離れ、14:02:05に退室。
次の瞬間、角の下で白い煙が細く立ち、甘い匂いが先に来た。
ナフサ(オイル燃料)の薄い蒸気。
少し遅れて丁子油の辛い香り。
さらに遅れてオイルの鈍い匂い。
昨日と同じ並びだ。
天井のベルが鳴り、スプリンクラーが開いた。
警備員の声。
泡の白。
通路がざわつく。
紫郎は濡れた紙に触れない。
代わりに床の黒い粒だけを綿棒で拾い、磁石に近づける。
粉がほんの少し寄る。
「フリント粉、回収」
「写真、撮りました。時刻も」
「よし。ここまで見た。次は持ち場を変える。南条がどこへ戻るかを見る」
南条は混乱の外側を滑るように離れ、港の外周へ。
黒いバンの運転席へは向かわない。
倉庫の裏手、資材ヤードのさらに奥。
協会の分室と表示されたプレハブへ。
紫郎と天田は距離を保つ。
声はかけない。
建物の影に体を寄せ、風下に立つ。
プレハブの中から笑い声。
扉が開き、二人が出る。
ひとりは南条。
もうひとりはスーツの男。
名札は胸ポケットの内側。
肩のラインと持ち方で外の人間だと分かる。
男は封筒を南条から受け取り、厚みを指で測る。
封の見た目だけ元に戻した状態を崩さず、封は切らない。
名刺入れを触り、しまった。
顔を見せない距離感。
けれど、声は聞こえる。
「時間押してる。焦るな」
その言い方に、天田の肩がわずかに固くなる。
紫郎は短く首を振った。
落ち着け、の合図。
「青柳さん、鍵の返却は」
「あとでまとめてやる。ここのは俺が預かる」
名札が一瞬だけ見えた。
代理店のロゴ。
青柳。
今日ここにいること自体は問題ない。
けれど鍵を預かる立場にいるのは、覚えておくべき事実だ。
南条が頭を下げ、プレハブの陰で煙草をもう一度つけた。
左手。
Zippo。
火花は短い。
紫郎は天田のメモに目だけを落とす。
左利き/Zippo/灰の落下位置=左手前/フィルター=活性炭帯あり/匂い=甘→辛→オイル/時刻=ログ一致。
「十分だ。戻ろう。拾うのは順番どおり。喫煙所の吸い殻、床の粉、通行ログ、鍵の記録。全部、記録して残す」
「はい」
ーーー
保管室。
金属棚の列。
乾いた空気。
『返却』『資料』『廃棄』の札を付けた箱が番号順に眠っている。
杉谷が鍵を開けた。
紫郎は二重底を持ち上げない。
息を止めずに、指先だけで滑らせる。
封筒は一つ。
糊は薄い。
封は切らずに中身だけ抜く。
代わりに同じ重さの空白紙を滑らせる。
戻す。
座らせる。
音は短い。
「見ます」
紙は三枚。
印字は粗いが要点は読むに足る。
『BVT乾/OR微』『水分値 九→六』『ロット統合/港外』『箱経由』『辻褄合わせ:鳳章』。
右下に小さく『K-12/31』。
「またK。やっぱり名前じゃない。ロット記号として使ってる」
「はい。Kと12/31が、道を結びます」
「こうなる。演出道具の箱で紙を入れ替える。廃棄の札をつけて燃やす口実を作る。クレテック(丁子入り紙巻)の匂いで匂いに慣れて感じにくくなる(嗅覚疲労)を誘い、遅い火を遅らせる。足元ではフリント粉で着火。通行ログは秒で残る。鍵は誰かがまとめて預かる。全部、辻褄が合う」
「紙は写しを取りました。港の北回り(N)の記号も」
「北条、スプリンクラーの時刻と通行ログ、鍵の貸出。三つを一枚に重ねてくれ」
「了解。時刻軸で並べる。南条のZippo動画は別フォルダで」
「助かる」
そこへ、通路の向こうから足音。
眠たげな声。
「大丈夫か。怪我人は出ていないか」
佐伯課長が来た。
眠たげな目。
緩いネクタイ。
粉を踏まない歩き方。
天田は姿勢を正す。
「今回も小火で済みました。設備の反応が早かったです」
「ならよし。焦るな。今日の事は設備と広報に任せる。現場は記録を固めろ」
「はい」
ーーー
夕方。
常夜紫煙堂。
湿度は五十六%のまま。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
カウンターに、喫煙所で回収した吸い殻。
フィルターは活性炭帯。
灰は細かい。
ところどころに黒点。
紙の燃え跡はリング状――バンド紙(燃焼抑制の帯)の跡。
「この紙だと遅い火が歩きやすい。だから一分で足りる」
「はい。今日の並びも同じでした。甘い→辛い→オイル。ナフサの後に丁子。その後にオイル」
「順番が“指紋”だ。鼻で覚える。変えられない」
天田はフリント粉の袋に磁石を当て、わずかに寄るのを見て写真を撮った。
動きは流れる。
無駄がない。
「次は鍵。誰が持ち出し、誰がまとめたか。杉谷、貸出表の写し」
「はい。連絡協会分室の欄は『代理店・青柳』が記入してます。時間は14時以降、二本まとめて。戻しは未記入」
「まとめる癖がある。次もやる。なら、鍵に薄い匂いマーカーを入れよう。金具の内側にごく少量。触れば分かる」
「分かりました。私がやります」
「南条は左手の火花で固める。動画、粉、灰の落ち位置。三点セット」
「青柳さんは鍵。時刻と連絡のライン」
「それでいい。名前で断定しない。指示系統はまだ上にいる。上を狙うには、時刻と物で重ねる」
「……クレテックはインドネシア由来で、丁子のオイゲノールが昔は歯痛にも使われたって聞きました。甘辛い匂いで嗅覚が慣れやすい」
「歴史は道具にもなる。だが順番はごまかせない」
「港の北回りの紙は第三ヤードで動くそうです。弦月サービスのトラックが夜間に入るルート」
「明け方だな。風が弱くて音が遠い時間。行こう。島倉は搬入線。北条は通行ログの同期。杉谷は鍵の写し。俺は匂いマーカー。天田は全部の時刻を一本に並べる」
「了解です、紫郎さん」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、店の空気を一度だけ整えた。
看板の紫が夜に向かって深くなる。
鈴が短く鳴る。
「最後に、今日のまとめ。呼び止めない。時刻と粉で固める。匂いの並びは甘→辛→オイル。箱は道具。紙は証拠。鍵は道」
「はい。全部、記録して残しました」
「よし」
外の風が一度だけ通り、紙の端をめくった。
『K-12/31』の小さな印字が、机の光で薄く光る。
紫郎はその小さな光に目を置き、言葉をひとつだけ落とした。
「煙は、嘘を吐かない」




