第四十話 港の遅い火
変わらず、午前の光が常夜紫煙堂のガラス戸に四角い模様を作る。
湿度は五十六%。
瓶の口は静かで、秤の針は零。
カウンターにはメモ、薄い名札、綿棒、磁石、そして小瓶がある。
ラベルは「18-31」。
「おはよう、天田」
「おはようございます、紫郎さん。まずは報告です。昨夜、南条は違法焼却未遂で押さえられました。ですが処理は“通報と注意”に留まり、現場から退けられる事にはならなかったです。ですので今日も、黒いバンと共に動ける……」
「むしろそれがいい。泳がせておけば、“誰が指示しているのか”がもっとはっきり見える」
「ですね……という事で今日の段取り、確認します、港の仮設倉庫B、北回りの伝票(N印)がそこへ入ります」
「箱は『返却』『資料』『廃棄』の三種。外見は同じ。二重底。取手の裏、二センチに薄い匂いマーカーを入れておきます」
「はい。ごく薄い香りで、触れば分かる程度に置きます」
「それでいい。言い方も今日から直す。必ず『時刻(秒まで)』で記録する」
「了解。記録は時刻(秒まで)で統一します」
「現場の時計は標準電波JJYで合わせる。ズレは許さない」
『展示棟の出入りログ、今日も時刻(秒まで)取得できる。設備系の反応時刻も押さえる』
「助かる。時刻(秒まで)はアリバイになる。全部、記録して残す」
『黒いバン、一台。昨日と同じ。運転手、左利きの癖。缶コーヒーとZippoは左』
「フリント粉=フェロセリウム(ライターの着火石)が床に落ちる。磁石にわずかに寄る。拾え」
「香りの壁も置きますか」
「ああ。18-31を入口の風に極薄で。甘い→辛い→薄いオイルの順番を鼻に覚えさせておけ。昨日までと同じなら線がつながる」
「甘い(蜂蜜系)→辛い(丁子=クローブ)→オイル(ナフサ)ですね」
「そうだ。行こう」
ーーー
港の仮設倉庫B。
潮の匂いが鉄骨の間を行き来し、フォークリフトがゆっくり動く。
鳳章インテリアのスペースに、堅木の箱が三つ。
ラベルは『返却』『資料』『廃棄』。
脚は四。
二重底。
外見は変わらない。
「杉谷。鍵は」
「借りました。返却は十五分後厳守です」
「島倉。台車の“目隠し運搬”を頼む。人の視線が揃った瞬間だけ通す」
「天田。取手裏二センチに匂いマーカーを」
「入れました。触れた指が分かります」
紫郎は空気の流れを指で確かめ、小瓶の蓋を一瞬だけ開けた。
甘さが最初に薄く立ち、すぐ消える。
場の温度は動かさない。
『風は東から西。喫煙所は北角。人は廃棄箱の前で足を止めやすい。一分あれば足りる』
「止めやすい一分を狙ってくる。通路の視線が前へ向いた瞬間に入る」
係員の目が舞台側へ向いた。
作業着の男が通路の陰から滑り込む。
顔は下。
左手が先に動き、右手は添えるだけ。
箱の角を押さえ、二重底を持ち上げずに滑らせ、黒い封筒を抜いて同じ厚みの封筒を差し戻す。
三十秒もかからない。
天田は追わない。
取手裏の二センチへ視線を置く。
薄い匂いマーカーは、触られたあとのわずかなにじみで生きている。
「今のが“廃棄”の箱。札だけ替えて箱は同じ」
「中身はすぐ燃やすつもりだ。壊す証拠は自分たちで作れる。『廃棄』の言い訳が立つ」
喫煙所で、作業着の男はZippoを左手で弾いた。
火打ち車が削れ、黒い粉が床へ落ちる。
取り出したのはクレテック(丁子入り紙巻)。
丁子の主成分オイゲノールは甘辛く、歯科で鎮静に使われてきた精油成分だ。
フィルターは活性炭入りで口当たりを丸めるが、煙の順番(甘い→辛い→オイル)までは消えない。
「声はかけない。時刻(秒まで)と粉で十分だ」
Zippoのナフサ系オイルの匂いに、丁子の辛さが重なり、薄いオイルが遅れてくる。
鼻に覚えた順番は、昨日までと同じだった。
その瞬間、廃棄箱の脚元から白い煙が細く立ち、ふわりと厚くなる。
「離れて。通路、確保」
スプリンクラーが開き、泡の消火剤が噴き出す。
紙はパルプ状に崩れ、印字は流れる。
紫郎は箱に触れず、床を流れる水を見た。
角で小さな渦ができ、黒い粒が集まる。
指で軽くすくい、磁石へ寄せる。
粉がわずかに動いた。
「フリント粉(着火石の粉)だ。現場で火が入った」
「二重底は準備、着火は外。短い時間でできる」
「天田。匂いの順番、もう一度」
「甘い→辛い→オイル。同じです」
「良い。在った事実だ。北条、スプリンクラーの反応時刻(秒まで)を押さえろ。通行ログと合わせる」
「島倉、喫煙所。フリント粉と吸い殻。清掃前に回収」
ーーー
保管室。
金属の棚。
乾いた空気。
『返却』『資料』『廃棄』が番号順に眠る。
「写真、四隅。印字と傷も。――開ける」
紫郎は二重底の隙間を呼吸させずに滑らせた。
封筒が一つ。
糊は薄い。
封の見た目だけ元に戻した状態にするため、封は切らない。
中身だけ抜き、同じ重さの白紙を戻す。
音は短い。
「見ます」
紙は四枚。
通関番号の走り書き。
北回りのN。
加工指示――『BVT乾/OR微/LO(葉落)混合/水分値九→六』『ロット統合/港外/箱経由』『辻褄合わせ:鳳章』。
右下に小さく『K-12/31』。
「繰り返し、同じ手だ。名は札。手は同じ動作の癖がある」
「『K』は記号として置きます」
天田はノートに短く置いた。
――匂いの順番=同じ。
――フリント粉=足元/磁石にわずかに寄る。
――着火=外。
――箱=道具。
――K=記号。
結論は書かない。
在った事実だけ積む。
「焦るな」
佐伯が立っていた。
ネクタイは緩い。
歩き方は一定。
粉は踏まない。
「小火で済んだか」
「はい。怪我人なし」
「ならいい。設備と警備に任せろ。お前らは時刻(秒まで)と物証を固めろ」
「了解」
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
湿度は五十六%。
瓶の口は静かで、秤の針は零。
カウンターには、吸い殻、フリント粉、紙、活性炭フィルターが並ぶ。
「見ろ、天田。バンド紙(低燃焼帯入りの紙)だ。燃焼を抑える帯で火の歩きを遅くできる」
「止めやすい一分を作る道具……だから短時間で入れ替えが可能」
「そうだ」
「この吸い殻、ベンチレーションホールが三列。測定機械では“低タール”に見えるが、指や唇で孔をふさぐと実際の取り込みは上がる」
「活性炭は気体成分の一部を吸着して刺激を和らげることがあるが、順番そのものは隠せない」
「Zippoの匂いはナフサ系の軽質石油。子どもの手の届かない場所に、火気厳禁。安全データでも強い可燃性が出ている」
「今日の時刻(秒まで)、まとめます。Zippo 14:01:47。入室 14:01:38/退室 14:02:05。スプリンクラー 14:02:11。差は小さく、着火は退室直後」
「合う。喫煙所の左利き、床のフリント粉、廃棄札。線になった」
「新人名札の“南条”はZippoの扱いが古い。工具の擦り傷も左側に偏る。Kの下の“使い”の可能性」
「結論は急がない。在った事実で押す」
「はい」
「明日は黒いバンの“待ち位置”と鍵の履歴だ。管理室の台帳、サブキーの回し。時刻(秒まで)で合わせる」
「了解。風向も取ります。匂いは逃げるから」
「最後に。匂いで感じにくくなる(嗅覚疲労)を狙って丁子で“甘い”を先に置かれても、並び順はごまかせない」
「順番は指紋みたいですね」
「ああ。だから――」
「煙は、嘘を吐かない」




