第三十九話 外ヤードの火種
午前の光がガラス戸を斜めに渡り、常夜紫煙堂の壁の湿度計はきっちり五十六%を指した。
瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには、昨日の封筒、綿棒、磁石、薄い布テープ、そして小瓶のNo.18“試作31”が並ぶ。
「おはよう、天田」
「おはようございます、紫郎さん」
天田芽衣子は制服で、胸ポケットのペンは二本、向きが揃っている。
手には許可証の束と、地図の写し。
「結論から。今日は港外のB−外ヤードで“廃棄に見せた運び出し”を押さえます。理由は、昨日の港内と同じラインに黒いバンの停車跡があるから」
「いい。秒で縛る。記録して残す」
「北条さんが港湾外の管理会社と調整済み。通行ログと監視カメラ、秒で出ます。JJYで端末の時刻同期も取れます」
「標準電波での同期なら秒が揃う。日本ではJJYが運用されている」
「ただしスプリンクラーは無い。もし火が出たら、消火器だけ」
「分かった。匂いの薄い目印は最小でいく。No.18を“触れれば分かる”くらいに」
「取手裏の二センチに、布テープ。二重底は“持ち上げない”。滑らせて見る」
「その調子だ」
「もう一つ。違法焼却の可能性。ヤードの端に青いドラム缶が三本。ライター用オイルの空き缶も近くにありました」
「ウィック式ライターの燃料は一般に軽質ナフサ系の石油留分だ」
「はい。行きましょう」
鈴を鳴らし、二人は店を出た。
ーーー
港の外ヤードは高いフェンスに囲まれ、地面は砂利とコンクリートが混ざる。
冷蔵コンテナから低い唸り。
フォークリフトが黄色いビープを鳴らし、風は海から緩く押してくる。
ヤードの奥、コンテナ二本で作った陰に青いドラム缶。
脇に金属の火起こし台。
鼻の奥にナフサと油の混ざったにおいが薄く刺さる。
「……甘いが先に来る。置いてあるな」
紫郎は磁石で地面の黒い粉をすくった。
粉がわずかに寄る。
着火石の粉だ。
フェロセリウムの削り粉は火花とともに落ちる性質を持ち、オーストリアのヴェルスバッハが発明した“フリント合金”が今もライターに使われている。
北条がヘルメットで現れ、短く頷く。
管理会社からの許可は通っている。
端末の秒がJJYでそろい、14:00:00に合う。
「島倉」
「おう」
島倉は作業服。
台車を押し、名札は“応援”。
目は笑っているが、動きは締まっている。
「今日も“偶然の目隠し”だな?」
「頼む。14:02の一分。見通しを切ってほしい」
「任された」
「杉谷、目録の写し。箱を動かす前に、札と四隅と印字を秒で撮る」
「了解」
「天田、薄い目印」
「やります」
天田は手袋をはめ、取手の裏の二センチに布テープを小さく貼る。
見えない。
触ればわかる。
次にNo.18の瓶の蓋をほんの少し開け、空気を撫でるだけの濃さで“香りの糸”を置く。
蜂蜜の影の匂いが、潮の匂いにうすく混じった。
「入れました。紫郎さん、狙われる箱は?」
「“廃棄”の札。木は堅木。脚は四。二重底。舞台用の連絡箱の仕様と同じ」
「昨日と同じ顔」
「ああ」
ヤードの出入口から、白いヘルメットの男が歩いてくる。
名札は“南条”。
左のポケットにZippo。
左手で無意識に触れる癖。
「来た」
北条が無線を肩に寄せる。
「黒いバン、外のライン。今は止まってる。運転手は左利きの男。顔は昨日の映像と一致」
「よし。秒で行こう」
フォークリフトが二台、中央通路に入って視線を集める。
管理者の点呼で目が前へ向く。
14:02:00。
「――いま」
南条が滑るように入り、顔は下。
速度は出ないのに動きは早い。
左手で蝶番の隙間を探り、右手で角を支え、二重底を持ち上げずに“浮かせる”。
黒い封筒を抜き、同じ厚みの封筒を差す。
戻す。
座らせる。
28秒。
止まった瞬間、左手の人差し指が取手裏の二センチに触れ、布テープの端がわずかに毛羽立つ。
「触りました。テープの角、爪で一回」
「見た。追わない。時刻がアリバイになる。秒で押さえた。北条」
「ログ、取った。14:02:04入室、14:02:32退室。喫煙所のZippoは14:01:47。秒は揃う」
「次の動きはドラム缶だ。ナフサで遅い火の準備が出る」
南条は台車で“廃棄”の箱を引き、コンテナの陰へ。
青いドラム缶のふたを足でずらし、キッチンペーパーを細く裂いて束ね、ナフサを少量垂らす。
ポケットから小瓶。
丁子油だ。
クローブの主成分オイゲノールは油性で木に移りやすく、歯科では鎮痛・鎮静の材料(酸化亜鉛ユージノールなど)として古くから用いられてきた。
紙巻に混ぜる“クレテック(丁子入り紙巻)”の甘い痺れも、ここに由来する。
Zippoを左手で弾き、火を近づける。
「――待て」
天田が一歩出た。
声は落ち着いている。
「警察です。その火はだめ。証拠が失われる」
南条の手が止まる。
目だけがこちらを見る。
逃げない。
逃げる必要がないと思っている目。
「作業です。指示書、あります」
「見せてください」
南条はZippoを閉じる。
左手の親指の腹に、薄い粘着が残っている。
布テープの糊だ。
天田の目がそこを捉えた。
「その手、ちょっと見せて。粘着が付いてます」
「作業で」
「取手裏の二センチに触れないと、その粘着は付かない」
紫郎はキッチンペーパーを指差した。
「結論。それは匂いの順番を偽装するための橋だ。理由。丁子油で甘いを先に出し、ナフサのオイルを後に回す。昨日と同じ」
「何の話だ」
「匂いは順番で覚える。甘い→辛い→オイル。君のやり方はそれだ」
北条が管理会社の警備員を呼ぶ。
消火器が二本、近くへ置かれる。
「南条さん。ここの焼却許可は無い。違法になる。ここで火は出せない」
「じゃあ、持って帰ります」
「どこへ」
「それは」
言葉が切れる。
秒針の音は聞こえないのに、秒が進んでいる感じがある。
「封筒を確認します。封は見た目だけ元に戻した状態にする。中身だけ見る。重さは同じで戻す」
島倉が台車を軽く動かして目隠しを作る。
紫郎は二重底の滑りを指で読む。
封筒をすべらせて取る。
代わりに同じ重さの白紙を戻す。
音は短い。
南条の目がわずかに揺れた。
「――抜いた。天田」
「はい」
封は切らない。
中身だけ抜く。
紙は四枚。
走り書き。
『BVT乾/OR微/LO(葉落)混合/水分値九→六』『ロット統合/港外/箱経由』『帳尻:鳳章』『N=北回り』『K-12/31』。
小袋が一つ。
中は薄茶の粉。
鼻に近づけ、すぐ離す。
「加湿剤。グリセリンとプロピレングリコール。重さを動かす為」
「市販紙巻の葉はしばしばこれらの保湿剤で水分と喫味を安定させる」
「結論。港外で重さ合わせ。理由。水分値の指示と加湿剤。“帳尻(辻褄合わせ)”の書き方が現場の言葉だ」
天田はノートへ短く置く。
――『南条=左利き』『取手二センチ=粘着』『Zippo 14:01:47』『入室 14:02:04/退室 14:02:32』『加湿→減量』『K-12/31=記号』。
結論は書かない。
積むだけ。
「南条さん。誰の指示です」
「進行です。代理店の」
「名前」
「青柳」
天田が名刺ホルダーを開く。
昨日、店で見た名刺と一致。
だが青柳は現場に来ていない。
秒の位置でアリバイが分かれる。
「メールは?」
「消しました」
「復元する。北条」
「管理会社の監視サーバに退避がある。秒で出す」
南条は口を固くする。
Zippoを左手でいじる。
ホイールの摩耗は左側が深い。
癖は隠せない。
「Kって、何です」
天田があえて真っ直ぐ聞く。
南条の喉が動く。
「刃の番手です。紙の。欠けがあるから、十四で穴が甘い。……そう言われました」
「誰に」
「名前は知らない……だけどよく」
「焦るなって、いつも言う人です」
短い言葉。
焦るな。
店の空気がほんの少し冷える。
紫郎は天田を見た。
秒は進むが、結論は早くない。
在った事実だけを並べる。
「管理会社と話す。今日は違法焼却の未遂。証拠は保全。火は出していないが、準備は記録した」
「警備と設備に渡す。通報と書類は俺がやる」
北条が短く言い、南条は頷いた。
逃げない。
逃げても無駄な秒だと分かっているから。
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
湿度は五十六%。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
カウンターに並ぶのは、吸い殻、フリント粉、加湿剤、紙、そして布テープの端。
「島倉から。喫煙所の吸い殻、追加」
「ありがとう」
灰を崩す。
黒点。
紙の帯の焼け跡。
これは“バンド紙”(Reduced Ignition Propensity)で、紙にリング状の帯を入れて燃え広がりを抑える仕組みだ。
フィルターは活性炭入りが多い。
活性炭は煙の気相成分の一部を吸着し、刺激の角を和らげることがある。
だが、匂いの順番までは消えない。
甘い→辛い→オイルは残る。
「それと、このフィルター紙の点列は“ベンチレーションホール”。測定機械に入る煙を薄めて“低タール”に見せる。指や唇で塞げば数字は跳ね上がる」
「そのからくりは業界史に残っている。穴が塞がれると機械測定の値は当てにならない」
布テープの端をピンセットで持ち上げる。
爪の薄い跡。
左の角が削れている。
「左利きの指の動きだ。Zippoのホイールも左が減っていた」
「秒を並べます。Zippo 14:01:47。入室 14:02:04。退室 14:02:32。その28秒で入れ替え。点呼の一分の中」
「だから止めやすいのは“その一分”。理由は視線が前に集まるから」
「南条の“焦るな”の言葉は誰かのコピー。青柳の名刺は指示の受け皿。でも現場を動かす言い回しは別です」
「言葉は道具。誰の言葉かは時刻と場所と一緒に並べる。感情はあとでいい」
「はい」
北条から無線が入る。
監視サーバの通知メールが復元された。
“作業予定”に『K-12/31/焦らず/廃棄札』。
発信は協会回線、13:41:22。
14:02まで二十数分。
段取りは単純だ。
「最後に、鼻の話。匂いは順番で覚える。嗅上皮からの信号は嗅球でパターンになる。だから一度掴んだ並びは嘘をつけない」
「匂いの並びは指紋みたいなもの、ですね」
「そう。だから、煙は嘘を吐かない」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、店の空気を整えた。
紫の看板が夜に向かって濃くなる。
鈴が一度、短く揺れた。
「明日、港の仮設倉庫B。“北回り”の紙がそこへ行く。黒いバンの停車ラインも同じだろう。活性炭、ベンチレーション、そして遅い火――全部を並べて、秒で縛る」
「私は映像と鍵。島倉さんは搬入線。杉谷さんは目録を“早くする道具”に。写しを先に回す。北条さんは風向。喫煙所と通路の流れを地図に描く」
「いい。行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
鈴が鳴り、扉が開いた。
一分を狙う手と、一分を潰す手。
どちらが速いかは、次の現場が教えてくれる。
歩幅は静かで、早すぎず、遅すぎない。
そしてその真ん中に、いつもの言葉が落ちた。
「煙は、嘘を吐かない」




