第三十八話 港風の一分
午前の光が今日もアーケードの天窓で四角に切れて、常夜紫煙堂のガラス戸にゆっくり移った。
壁の湿度計は五十六%。
瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには封のない白い封筒と、昨夜のメモと、綿棒の入った小さな袋。
「おはようございます、紫郎さん」
「おはよう、天田」
天田芽衣子はいつもどおり制服で、胸ポケットのペンは二本、向きが揃っている。
手には名刺ホルダー。
「まず報告です」
「昨日、黄瀬さんが『焦るな』と言われた件はスポンサーの進行担当の指示でした」
「代理店の名刺、これです」
名刺には代理店ロゴと「進行ディレクター/青柳」の文字がある。
メールの写しも添えられている。
“焦らず丁寧に進めてください”――言い回しは似ていても、佐伯課長の言葉ではない。
「もう一つです」
「北条さんが通行ログを出しました」
「展示棟と本館を結ぶ扉で秒単位の出入り時刻が取れてます」
「よし。時刻はアリバイになる。全部、記録して残す」
「それから課長のアリバイです」
「昨日の指示タイミングは午後一時半前後です」
「課長はその時間、防犯広報の生放送に出演していました」
「タイムコード入り録画と出演者リストも確認済みです」
「ならこの件は課長じゃない。ここは切る。次へ行く」
天田は息を吐いて頷いた。
机の上の封筒には、昨夜ポストに入っていた短いメモが挟まっている。
『札を替えろ。明日は“返却”じゃなく“廃棄”。――K』。
「“返却箱”じゃなく“廃棄箱”に見せるということですね」
「そうだ。札を替えれば箱の見た目だけ元に戻した状態にできる。箱そのものは同じでもな」
「取手裏の二センチの薄い匂いマーカーは今日も入れていいですか」
「ああ。ごく薄くでいい。触れた今が分かれば十分だ」
紫郎は小瓶の蓋を緩め、綿棒で一度、空気を撫でるだけの濃さにした。
見えないが、触れれば分かる。
指の腹だけが覚える。
「もう一つです」
「喫煙所からフリント粉が出ました」
「着火石の粉だな。フェロセリウム(ライターの着火石)をこすった時に落ちる黒い粉だ」
「磁石にわずかに反応する」
「左利きなら落ちる場所が偏る」
「そうです。通路の左側手前にだけ多かったそうです」
「左が濃い。これも同じ動作の癖だ。置いておく」
短い段取りだけで、店の空気はすぐ“出る”温度になった。
鈴を鳴らし、ふたりはアーケードへ歩を出した。
―――
展示棟の裏通路は、人の流れがいつもより早かった。
今日で見学ルートの最終調整が終わる。
鳳章インテリアのブース裏には、ラベルの違う箱が三つ並ぶ。
『返却』『資料』『廃棄』。
箱は同じ堅木で、脚の高さは“四”。
二重底の薄底。
取手裏の二センチ。
いつもの顔だ。
「杉谷さん、保管室の鍵は取れてますか」
「はい。管理室から借りました」
「返却時間は十五分後厳守です」
「北条」
「外周はOKだ」
「黒いバンが一台。昨日と同じ場所でエンジンを切っては入れるを繰り返す」
「運転手は左利きの癖だ」
「缶コーヒーは左手で持つ」
「島倉さんは動線」
「了解。台車で“偶然”の目隠しはやっときます」
舞台側のアナウンスが遠くに薄く響く。
通路の目が一瞬だけ正面へ向き、裏が緩む。
一分。
そこへひとり、作業着の男が滑り込んだ。
顔は下、手の動きは早い。
左手で蝶番の隙間を探り、右手で角を支え、二重底を一息で浮かせる。
黒い封筒を抜き、同じ厚みの封筒を差す。
戻す。
座らせる。
三十秒。
天田は追わない。
取手裏を視線だけで確認する。
薄い匂いマーカーはわずかに触られた痕で生きている。
「今のが廃棄の箱です」
「札だけ変えられてます」
「分かった。中身はすぐに要らなくなるものだ。燃やすつもりかもしれん」
「燃やす……」
「ナフサ(ライター用オイル)を少量、紙に含ませる」
「丁子油を上から薄くかける」
「甘い→辛い→薄いオイルの順に匂いが動く」
「匂いで匂いに慣れて感じにくくなる(嗅覚疲労)を誘い、遅い火で時間を稼ぐ」
「昨日の遅い火の実験、三枚目ですね」
「そうだ」
ちょうどその時だった。
通路の先、廃棄箱の足元から白い煙が立った。
瞬間ではない。
最初は細く、次にふわりと厚くなる。
甘い匂いが先に来て、少し遅れて辛さ、さらに遅れて薄いオイルだ。
同時に火災報知器が鳴り、天井のスプリンクラーが開いた。
「離れて」
「通路を開けて」
警備員の声が飛ぶ。
泡の消火器が噴き、箱の上に白が広がる。
紙は一気にパルプになり、角の印字は流れる。
証拠が溶ける音だ。
「紫郎さん、どうします」
「触るな。濡れた紙は脆い。いまは匂いを取る」
「天田、鼻で順番だけ覚えろ」
「甘い→辛い→オイルだ。同じかどうかだ」
「同じです。昨日の遅い火と順番が同じです」
「良い。在った事実だ」
「北条、スプリンクラーのログを押さえろ」
「何時何分何秒に反応したかだ」
「時刻がアリバイになる」
「了解。設備業者に当たる」
「島倉、喫煙所だ」
「床のフリント粉と吸い殻を掃除前に回収してくれ」
「任せろ」
騒ぎの中、紫郎は濡れた箱に触れない。
かわりに床を流れる水の流れを見る。
角で一度だけ渦を作り、取手の下を通過して細く二方向に分かれる。
そこに黒い粒が集まっていた。
指先で軽くすくい、磁石に近づける。
粉がほんの少し寄る。
「フリント粉だ。現場で火を起こした」
「箱の中じゃなく足元でですか」
「そうだ。二重底は準備だ。着火は外。だから一分で足りる」
天田は短く頷き、綿棒で粉を取った。
手の震えはない。
目は落ち着いている。
成長が見えた。
「杉谷、保管室へ行く。十五分でいい」
「廃棄に流す前に中身を確認する」
「行きましょう」
保管室は金属の棚が並び、空気は乾いている。
『返却』『資料』『廃棄』の札を付けた箱が番号順に眠っている。
脚高“四”。
二重底。
取手裏の二センチ。
「写真、四隅だ。印字と傷もだ」
「撮りました。開けます」
紫郎はいつもの手順で、二重底を呼吸させずに滑らせた。
封筒が一つ、顔を出す。
糊は薄い。
封は切らない。
中身だけ抜く。
代わりに同じ重さの空白紙を滑らせる。
戻す。
座らせる。
音は短い。
「見ます」
紙は四枚。
通関番号の走り書き。
“北回り”のN。
加工指示――『BVT乾/OR微/LO(葉落)混合/水分値九→六』『ロット統合/港外/箱経由』『帳尻:鳳章』。
右下に小さく『K-12/31』。
「変わらない。同じ手だ」
「K……」
「名前じゃない。今は記号だ。置いておけ」
天田は頷き、ノートに短く置く。
『匂いの順番=同じ』『フリント粉=足元』『着火=外』『箱=道具』『K=記号』。
結論は書かない。
積むだけだ。
そこへ通路の向こうから佐伯が歩いてきた。
眠たげな目、緩いネクタイ。
粉を踏まない歩き方だ。
「お前ら、大丈夫か」
「ええ。小火で済みました」
「ならいい。焦るな。後は設備と警備に任せろ」
天田が一瞬だけ視線を揺らす。
紫郎が軽く顎を引いた。
だいじょうぶの合図だ。
さっきの時間、佐伯は生放送にいた。
ここではない。
「課長、設備ログは北条が押さえました」
「通行ログも映像もあります」
「頼もしいな。じゃあ俺は広報と対応に行く。現場は任せる」
佐伯は粉を踏まず、角で消えた。
残ったのは水音と薄い丁子の匂いだけだ。
「天田」
「はい」
「今日は拾えた。匂いの順番、フリント粉、ログの秒だ」
「三つ揃えば語れる」
「煙は嘘を吐かない、ですね」
「ああ」
―――
夕方、常夜紫煙堂。
湿度は五十六%のまま。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零だ。
カウンターに吸い殻、フリント粉、紙、そして薄い活性炭フィルターが並ぶ。
「島倉からです」
「喫煙所の吸い殻は活性炭入りが多いです」
「口当たりが丸くなるタイプです」
「角を隠せるが順番は隠せない。甘い→辛い→オイルは残る」
紫郎は吸い殻の灰を指で崩し、紙に落とした。
灰は細かく、ところどころに黒点がある。
巻紙の焼け線はリング状に薄い帯――燃焼速度を落とす帯が見える。
「この紙はバンド紙だ。燃えすぎを抑える帯が入っている」
「遅い火の歩幅と相性がいい」
「だから一分で足りる。止めやすい」
「そうだ」
天田はフリント粉の袋に磁石を当て、わずかに寄るのを見て写真を撮った。
嗅ぎ、見る、触る。
動きが無駄なく流れる。
「北条からです」
「スプリンクラーは14:02:11に反応です」
「通行ログでは箱に触った男が14:01:38に入室、14:02:05に退室です」
「二十七秒差です」
「着火は退室後すぐです」
「足元でフリントを一息でこすって離れた。計算通りだ」
「アリバイができた人もいます」
「14:02:11の時点で別棟にいた担当者が二名です」
「青柳さんと協会の設備主任です」
「どちらも秒単位でログが出ました」
「よし。候補を絞る。左利き。箱に触れる資格。鍵の動き。喫煙所だ」
「この四つで重なる者だ」
「該当は三谷さんと朝比奈さん、そしてもう一人です」
「搬入請負の応援で来ていた南条さんです」
「南条さんは今日が初日です」
「左利きです」
「工具の擦り傷は左の側に集中です」
「初日で癖が出ている。匂いの順番を知らないはずが、順番どおりに動いた」
「つまり手口を知っている。新人ではない」
「名札は新人でも手は古い。Kの下にいる使いかもしれん」
天田はメモに置く。
『南条=名札』『手=古い』『左利き』『一分』。
結論は書かない。
積むだけだ。
「最後に鼻の話だ」
「匂いは順番で覚えると強い」
「嗅上皮で受けた信号は嗅球でパターンに変わる」
「だから『甘い→辛い→オイル』の並びは一回掴むと嘘がつけない」
「匂いの並びは指紋みたいなものですね」
「そうだ。だから、煙は嘘を吐かない」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、店の空気を整えた。
看板の紫が夕方で少し濃くなる。
鈴が一度、短く揺れた。
「明日は港の仮設倉庫Bだ」
「北回りのNを書いた紙がそこへ行く」
「黒いバンの停車ラインも同じだろう」
「私は映像と鍵です」
「島倉さんは搬入線です」
「杉谷さんは目録を早くする道具にします」
「写しを先に回します」
「北条は風向だ」
「煙の流れと喫煙所の位置だ」
「一分で動ける影を地図に描く」
「了解しました」
ふたりは短く頷き、段取りを確認した。
言葉は少なく、具体的で、短い。
「天田」
「はい」
「今日の小火は向こうの焦りだ」
「札を廃棄に替えたのは燃やす口実を作るためだ」
「でも匂いの順番も、秒も、粉も、残った」
「はい。在った事実として置きました」
「それでいい」
看板の紫が夜に向かって深くなる。
店の湿度は五十六%のまま。
瓶の唇は静かに囁き、秤の針は零だ。
外の風が一度だけ通り、紙の端をめくった。
『K-12/31』の小さな文字が机の光で薄く光る。
「行こうか」
「行きましょう、紫郎さん」
鈴が鳴り、扉が開く。
一分を狙う手と、一分を潰す手。
どちらが速いかは次の現場が教えてくれる。
ふたりの歩幅は静かで、早すぎず、遅すぎない。
そしてその真ん中に、いつもと同じ言葉が落ちた。
「煙は、嘘を吐かない」




