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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第三十七話 甘い煙、短い一分

 午前の光が常夜紫煙堂のガラス戸にゆっくり移った。

 壁の湿度計は五十六%。

 瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 カウンターには封のない白い封筒と、昨夜のメモと、綿棒の入った小さな袋。


「おはようございます、紫郎さん」


「おはよう、天田」


 天田芽衣子はいつもどおり制服で、胸ポケットのペンは二本、向きが揃っている。

 手には名刺ホルダー。


「まず報告です」


「前に、黄瀬さんが『焦るな』と言われた件はスポンサーの進行担当の指示でした」


「代理店の名刺、これです」


 名刺には代理店ロゴと「進行ディレクター/青柳」の文字がある。

 メールの写しも添えられている。

 “焦らず丁寧に進めてください”――言い回しは似ていても、佐伯課長の言葉ではない。


「もう一つです」


「北条さんが通行ログを出しました」


「展示棟と本館を結ぶ扉で秒単位の出入り時刻が取れてます」


「よし。時刻はアリバイになる。全部、記録して残す」


「それから課長のアリバイです」


「昨日の指示タイミングは午後一時半前後です」


「課長はその時間、防犯広報の生放送に出演していました」


「タイムコード入り録画と出演者リストも確認済みです」


「ならこの件は課長じゃない。ここは切る。次へ行く」


 天田は息を吐いて頷いた。

 机の上の封筒には、昨夜ポストに入っていた短いメモが挟まっている。


『札を替えろ。明日は“返却”じゃなく“廃棄”。――K』。


「“返却箱”じゃなく“廃棄箱”に見せるという事ですね」


「そうだ。札を替えれば箱の見た目だけ元に戻した状態に出来る。箱そのものは同じでもな」


「取手裏の二センチの薄い匂いマーカーは今日も入れていいですか」


「ああ。ごく薄くでいい。触れた時が分かれば十分だ」


 紫郎は小瓶の蓋を緩め、綿棒で一度、空気を撫でるだけの濃さにした。

 見えないが、触れれば分かる。

 指の腹だけが覚える。


「もう一つです」


「喫煙所からフリント粉が出ました」


「着火石の粉だな。フェロセリウム(ライターの着火石)をこすった時に落ちる黒い粉だ」


「磁石にわずかに反応する」


「左利きなら落ちる場所が偏る」


「そうです。通路の左側手前にだけ多かったそうです」


「左が濃い。これも同じ動作の癖だ。置いておく」


 短い段取りだけで、店の空気はすぐ“出る”温度になった。

 鈴を鳴らし、ふたりはアーケードへ歩を出した。


ーーー


 展示棟の裏通路は、人の流れがいつもより早かった。

 今日で見学ルートの最終調整が終わる。

 鳳章インテリアのブース裏には、ラベルの違う箱が三つ並ぶ。

 『返却』『資料』『廃棄』。

 箱は同じ堅木で、脚の高さは“四”。

 二重底の薄底。

 取手裏の二センチ。

 いつもの顔だ。


「杉谷さん、保管室の鍵は取れてますか」


「はい。管理室から借りました」


「返却時間は十五分後厳守です」


「北条」


「外周はOKだ」


「黒いバンが一台。昨日と同じ場所でエンジンを切っては入れるを繰り返す」


「運転手は左利きの癖だ」


「缶コーヒーは左手で持つ」


「島倉さんは動線」


「了解。台車で“偶然”の目隠しはやっときます」


 舞台側のアナウンスが遠くに薄く響く。

 通路の目が一瞬だけ正面へ向き、裏が緩む。

 一分。

 そこへひとり、作業着の男が滑り込んだ。

 顔は下、手の動きは早い。

 左手で蝶番の隙間を探り、右手で角を支え、二重底を一息で浮かせる。

 黒い封筒を抜き、同じ厚みの封筒を差す。

 戻す。

 座らせる。

 三十秒。


 天田は追わない。

 取手裏を視線だけで確認する。

 薄い匂いマーカーはわずかに触られた痕で生きている。


「今のが廃棄の箱です」


「札だけ変えられてます」


「分かった。中身はすぐに要らなくなるものだ。燃やすつもりかもしれん」


「燃やす……」


「ナフサ(ライター用オイル)を少量、紙に含ませる」


丁子油クローブを上から薄くかける」


「甘い→辛い→薄いオイルの順に匂いが動く」


「匂いで匂いに慣れて感じにくくなる(嗅覚疲労)を誘い、遅い火で時間を稼ぐ」


「昨日の遅い火の実験、三枚目ですね」


「そうだ」


 ちょうどその時だった。

 通路の先、廃棄箱の足元から白い煙が立った。

 瞬間ではない。

 最初は細く、次にふわりと厚くなる。

 甘い匂いが先に来て、少し遅れて辛さ、さらに遅れて薄いオイルだ。

 同時に火災報知器が鳴り、天井のスプリンクラーが開いた。


「離れて」


「通路を開けて」


 警備員の声が飛ぶ。

 泡の消火器が噴き、箱の上に白が広がる。

 紙は一気にパルプになり、角の印字は流れる。

 証拠が溶ける音だ。


「紫郎さん、どうします」


「触るな。濡れた紙は脆い。いまは匂いを取る」


「天田、鼻で順番だけ覚えろ」


「甘い→辛い→オイルだ。同じかどうかだ」


「同じです。先日の遅い火と順番が同じです」


「良い。在った事実だ」


「北条、スプリンクラーのログを押さえろ」


「何時何分何秒に反応したかだ」


「時刻がアリバイになる」


「了解。設備業者に当たる」


「島倉、喫煙所だ」


「床のフリント粉と吸い殻を掃除前に回収してくれ」


「任せろ」


 騒ぎの中、紫郎は濡れた箱に触れない。

 かわりに床を流れる水の流れを見る。

 角で一度だけ渦を作り、取手の下を通過して細く二方向に分かれる。

 そこに黒い粒が集まっていた。

 指先で軽くすくい、磁石に近づける。

 粉がほんの少し寄る。


「フリント粉だ。現場で火を起こした」


「箱の中じゃなく足元でですか」


「そうだ。二重底は準備だ。着火は外。だから一分で足りる」


 天田は短く頷き、綿棒で粉を取った。

 手の震えはない。

目は落ち着いている。

 成長が見えた。


「杉谷、保管室へ行く。十五分でいい」


「廃棄に流す前に中身を確認する」


「行きましょう」


 保管室は金属の棚が並び、空気は乾いている。

 『返却』『資料』『廃棄』の札を付けた箱が番号順に眠っている。

 脚高“四”。

 二重底。

 取手裏の二センチ。


「写真、四隅だ。印字と傷もだ」


「撮りました。開けます」


 紫郎はいつもの手順で、二重底を呼吸させずに滑らせた。

 封筒が一つ、顔を出す。

 糊は薄い。

 封は切らない。

 中身だけ抜く。

 代わりに同じ重さの空白紙を滑らせる。

 戻す。

 座らせる。

 音は短い。


「見ます」


 紙は四枚。

 通関番号の走り書き。

 “北回り”のN。

 加工指示――『BVTブライト・ヴァージニア乾/ORオリエント微/LO(葉落)混合/水分値九→六』『ロット統合/港外/箱経由』『帳尻:鳳章』。

 右下に小さく『K-12/31』。


「変わらない。同じ手だ」


「K……」


「名前じゃない。今は記号だ。置いておけ」


 天田は頷き、ノートに短く置く。

 『匂いの順番=同じ』『フリント粉=足元』『着火=外』『箱=道具』『K=記号』。

 結論は書かない。

 積むだけだ。


 そこへ通路の向こうから佐伯が歩いてきた。

 眠たげな目、緩いネクタイ。

 粉を踏まない歩き方だ。


「お前ら、大丈夫か」


「ええ。小火で済みました」


「ならいい。焦るな。後は設備と警備に任せろ」


 天田が一瞬だけ視線を揺らす。

 紫郎が軽く顎を引いた。

 だいじょうぶの合図だ。

 さっきの時間、佐伯は生放送にいた。

 ここではない。


「課長、設備ログは北条が押さえました」


「通行ログも映像もあります」


「頼もしいな。じゃあ俺は広報と対応に行く。現場は任せる」


 佐伯は粉を踏まず、角で消えた。

 残ったのは水音と薄い丁子の匂いだけだ。


「天田」


「はい」


「今日は拾えた。匂いの順番、フリント粉、ログの秒だ」


「三つ揃えば語れる」


「煙は嘘を吐かない、ですね」


「ああ」


ーーー


 夕方、常夜紫煙堂。

 湿度は五十六%のまま。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零だ。

 カウンターに吸い殻、フリント粉、紙、そして薄い活性炭フィルターが並ぶ。


「島倉からです」


「喫煙所の吸い殻は活性炭入りが多いです」


「口当たりが丸くなるタイプです」


「角を隠せるが順番は隠せない。甘い→辛い→オイルは残る」


 紫郎は吸い殻の灰を指で崩し、紙に落とした。

 灰は細かく、ところどころに黒点がある。

 巻紙の焼け線はリング状に薄い帯――燃焼速度を落とす帯が見える。


「この紙はバンド紙だ。燃えすぎを抑える帯が入っている」


「遅い火の歩幅と相性がいい」


「だから一分で足りる。止めやすい」


「そうだ」


 天田はフリント粉の袋に磁石を当て、わずかに寄るのを見て写真を撮った。

 嗅ぎ、見る、触る。

 動きが無駄なく流れる。


「北条からです」


「スプリンクラーは14:02:11に反応です」


「通行ログでは箱に触った男が14:01:38に入室、14:02:05に退室です」


「二十七秒差です」


「着火は退室後すぐです」


「足元でフリントを一息でこすって離れた。計算通りだ」


「アリバイができた人もいます」


「14:02:11の時点で別棟にいた担当者が二名です」


「青柳さんと協会の設備主任です」


「どちらも秒単位でログが出ました」


「よし。候補を絞る。左利き。箱に触れる資格。鍵の動き。喫煙所だ」


「この四つで重なる者だ」


「該当は三谷さんと朝比奈さん、そしてもう一人です」


「搬入請負の応援で来ていた南条さんです」


「南条さんは今日が初日です」


「左利きです」


「工具の擦り傷は左の側に集中です」


「初日で癖が出ている。匂いの順番を知らないはずが、順番どおりに動いた」


「つまり手口を知っている。新人ではない」


「名札は新人でも手は古い。Kの下にいる使いかもしれん」


 天田はメモに置く。

 『南条=名札』『手=古い』『左利き』『一分』。

 結論は書かない。

 積むだけだ。


「最後に鼻の話だ」


「匂いは順番で覚えると強い」


「嗅上皮で受けた信号は嗅球でパターンに変わる」


「だから『甘い→辛い→オイル』の並びは一回掴むと嘘がつけない」


「匂いの並びは指紋みたいなものですね」


「そうだ。だから、煙は嘘を吐かない」


 紫郎は灰皿を中央に寄せ、店の空気を整えた。

 看板の紫が夕方で少し濃くなる。

 鈴が一度、短く揺れた。


「明日は港の仮設倉庫Bだ」


「北回りのNを書いた紙がそこへ行く」


「黒いバンの停車ラインも同じだろう」


「私は映像と鍵です」


「島倉さんは搬入線です」


「杉谷さんは目録を早くする道具にします」


「写しを先に回します」


「北条は風向だ」


「煙の流れと喫煙所の位置だ」


「一分で動ける影を地図に描く」


「了解しました」


 ふたりは短く頷き、段取りを確認した。

 言葉は少なく、具体的で、短い。


「天田」


「はい」


「今日の小火は向こうの焦りだ」


「札を廃棄に替えたのは燃やす口実を作るためだ」


「でも匂いの順番も、秒も、粉も、残った」


「はい。在った事実として置きました」


「それでいい」


 看板の紫が夜に向かって深くなる。

 店の湿度は五十六%のまま。

 瓶の唇は静かに囁き、秤の針は零だ。

 外の風が一度だけ通り、紙の端をめくった。

 『K-12/31』の小さな文字が机の光で薄く光る。


「行こうか」


「行きましょう、紫郎さん」


 鈴が鳴り、扉が開く。

 一分を狙う手と、一分を潰す手。

 どちらが速いかは次の現場が教えてくれる。

 ふたりの歩幅は静かで、早すぎず、遅すぎない。

 そしてその真ん中に、いつもと同じ言葉が落ちた。


「煙は、嘘を吐かない」

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