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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第三十六話 灰の手、指の手

 午前の光は、常夜紫煙堂のガラス戸に長い帯をつくり、瓶の口を順に撫でていった。

 黄銅の秤は皿を閉じ、針は零。

 壁の湿度計は五十六%で止まり、昨夜から動いていない。

 乾き寄りで、火の足取りが素直になる空気だ。


「おはようございます、紫郎さん」


 鈴が澄み、天田芽衣子が入ってきた。

 襟は正しく、胸ポケットのペンは二本で向きが揃っている。

 靴底の砂は払われ、目の下の陰は薄い。


「おはよう、天田」


「今朝、監察から通告です。北条先輩が午後に事情聴取です。任意ですが実質の呼び出しです」


「匿名が早くなるのは、大抵悪い」


「昨夜、内部郵便で匿名の封筒が動いたそうです。証拠物の所在を指示する内容でした」


 天田は封筒の写しを卓上に置いた。

 『保管室棚B−3/脚高4/左蝶番/裏取手二センチ/封筒K−12/31』。

 角に薄い油跡が染み、甘い辛い薬の影が浅く残る。

 丁子の匂いだ。


「足し香だな」


「はい。昨夜から香りの上書きが続いています。見せたい匂いで帳尻を合わせています」


「箱は見た目だけ元に戻した状態のまま、手だけが匂いを残す」


 紫郎は瓶の唇をひとつ緩め、店の中央にごく薄い匂いマーカーの層を置いた。

 空気の底がわずかに柔らぐ。

 指の腹で触ると、触った者だけが分かる厚さだ。


「今日は追い詰める時じゃない。追わない。置くを崩すな」


「了解です」


「北条は疑わしさで包まれている。だが、煙は嘘を吐かない」


 秤の針は動かず、鏡も曇らなかった。


ーーー


 警視庁の監察の部屋は冷たく均一な照明で白かった。

 壁の時計は分の目盛りだけを強く主張し、秒針は音を立てない。

 机の向こうで書類を捌く男が言う。


「任意です。北条さん、ロッカーの鍵を」


 北条隆司は短くため息を吐き、胸ポケットから鍵束を出した。

 眠りの浅い目つきで、無精髭は無造作に伸びている。

 人相は昨日までと変わらない。

 だが部屋の空気が彼の周りだけ濃く見えた。


「夜村さん、立会いをしますか」


「俺は見ているだけだ」


 ロッカールームの金属扉は同じ音で、同じ高さで開く。

 B列三段目で鍵が回り、扉が口を開ける。

 中に小さな丸缶がひとつ。

 黒いフェルト袋に入ったライターがひとつ。

 書類の束がひとつ。

 どれも新しい乾きを纏っていた。


「缶からいきます」


 透明袋に移され、ふたが開く。

 甘い辛いわずかに薬の影。

 丁子、すなわちクローブの匂いだ。

 缶の底に薄くシャグが残る。

 刻みは幅が揃いすぎ、指で触ると粉から先に崩れた。


「クレテック系の刻みですか」


 監察の男が首を傾げる。

 紫郎は黙って指先の感触を確かめた。

 刻みの幅は均一すぎ、乾きすぎている。

 缶の内側には薄い膜があり、縁だけ厚い。

 丁子油が酸化してできた皮膜が、足し香の層として浮いていた。


「ライターは」


 フェルト袋から出される。

 ナフサの影が鋭く立ち上がる。

 芯は白く、外側だけがうっすら黄ばんでいる。

 使われた記憶の色が足りない。

 ウィック式の燃料は軽質ナフサで、揮発が速い。

 空の容器でも蒸気に注意が要る。


「書類を」


 最上の束は鳳章インテリアの出荷伝票のコピーだ。

 展示棟の香盤表箱の搬出入が並び、B−3、脚高4、左蝶番混入とある。

 角に『K−12/31』の手書きがある。

 昨夜見た筆致と同じだ。


「これで充分では」


 監察官が言い、天田は唇を噛んだ。

 机の上では充分に見える。


「充分すぎる」


 紫郎は目を一度閉じ、静かに言った。


「どういう意味ですか」


「揃いすぎている。缶のシャグは乾きすぎだ。実際に吸う者の缶は指の汗や空気の水分で縁と底が違う乾き方を見せる。これは全体が同じ乾きで、粉の崩れ方まで均一だ」


「保存環境が良ければ、そうなるのでは」


「なら缶の内側の膜は均一になるはずだが、ふちだけが厚い。開けてから足し香をした跡だ」


 天田が小さく頷く。

 監察官は眉を動かさない。


「ライターは新品の匂いだ。芯の黄ばみは外側だけだ。使った風に見せたい時の誤りだ」


「書類はどうです」


「紙の目が港のものと違う。縦を切る癖の紙に横が混じる。何より——」


 紫郎は透明袋の“吸い殻”の写真を指さした。

 匿名封筒に同封されていた現場の一本だ。


「フィルターの噛み跡が左寄りだ。親指の爪の欠けが刻む小さな凹みがある。北条は右利きで、癖は右寄りだ」


 監察の空気がかすかに揺れる。

 北条は無言だ。


「利き手は意識で隠せても、噛み跡の位置は変えにくい。点火の前後に無意識で咥えた角度が、指の位置で決まる」


「偶然もあり得ます」


「何度も起こる偶然は、習慣だ」


 天田が写真を次々と出した。

 展示棟、小ホール、搬入口で拾った吸い殻だ。

 いずれも噛み跡は左寄りで、フィルター縁の歪みが似る。

 指が左から入る癖の列だ。

 一方、北条が普段吸う吸い殻は咥え癖が右寄りで、噛み跡は浅い。

 指の腹で軽く押さえる置き煙草の痕も出ている。


「それから紙だ」


 紫郎は拡大写真にルーペを当てた。

 巻紙の表面に微細な穴が均一に並ぶ。

 レーザーで穿つベンチレーションで、三列が規則正しい。

 ロッカーの缶に入っていた巻紙は二列だ。

 メーカーが違い、癖が違う。

 紙の鞘が別の顔を持っている。


「揃えた手が、手前でつまずいた」


 監察官は黙っていた。

 北条がやっと息を吐いた。


「俺は昨日の晩、港の外周で張り込みだった。タイムカードも通した。カメラの死角で抜けたと言われれば、それまでだがな」


「押印時刻は拾えるはずです」


 天田が言い、監察官が小さく頷く。


「拾います。ただ、匿名封筒が所在を言い当てている点は無視できません」


「所在を知っている者がいるという事実だけだ。持ち込んだ者とは限らない」


 空気が硬くなり、監察官の目が細くなる。

 音のない秒針が進んだ。


「午後の聴取は予定通り行います。北条さん、ご足労を」


「ああ」


 廊下に出ると、角に人影が立っていた。

 眠たげな目で、緩いネクタイだ。

 白線を踏まない足取りだ。


「焦るな」


 佐伯課長は天田へだけ視線を落とし、すぐ外した。

 言葉はやわらかく、歩幅は一定だ。


「課長」


 天田が呼び止めかけ、紫郎が首だけ振った。


「焦るなは向こうの言葉だ。今は置け」


 置く。

 追わない。

 呼吸だけを揃える。


ーーー


 午後の聴取が終わる頃、空は薄い鉛色に寄っていた。

 監察の判断は一旦保留になった。

 だが保留という言葉は外に出ると緩む。

 廊下で刑事課の何人かが一歩だけ距離を置き、視線だけで北条を測った。


「北条さん」


 天田が隣に並んだ。

 北条は肩をすくめた。


「お前まで距離を取るな」


「取りません」


「そうか」


「吸いますか」


「やめてる」


 北条は口の端をわずかに上げ、喫煙スペースを一瞬だけ見てから外を見た。


「やめてる人はクレテックをロッカーに入れない。監察にそう言ってほしかったな」


「言いました」


「お前が言うと余計に怪しまれる」


「どうしてですか」


「夜村が隣にいるからだ」


 半分冗談で半分本気の声だ。

 紫郎は笑わず、北条の親指の爪を見た。

角は右に欠けている。

 噛み跡の位置は右寄りの人間だ。


「北条。お前はクレテックは吸わないな」


「歯に甘さが残る。旨いが現場で残る」


「残るものは、嘘を吐かない」


「ああ」


 玄関の外は薄い風に花粉の匂いが混じっていた。

 匂いはすぐに鼻に馴染み、境目が甘くなる。

 嗅上皮は早く匂いに慣れ、脳は変化だけを拾う。

 だから甘い匂いを先に置かれると、後ろの薄い石油の影を拾い損なう。

 見せ香は順応に寄り添って働く。


「今日の匿名はKです」


 天田が小さく言った。

 封筒の端に細いKがあり、左の手で布を巻く癖が出ている。

 丁子の薄い皮膜が乗る。

 港と展示で交互に顔を出す左だ。


「Kは手の名前だ。名札は別にある」


「はい」


「北条。今夜はどこにも行くな」


「どこにも行けと言うな、って意味か」


「そうだ」


「分かったよ」


 北条は肩を落とし、歩幅を変えずに去った。

 背中に貼り付く視線があっても、歩き方を変えない人間だった。


ーーー


 常夜紫煙堂では夕方の光が看板の紫を一段濃くした。

 瓶の影は細く、針は零、湿度は五十六だ。

 カウンターにはルーペ、綿棒、小型の顕微鏡が並ぶ。


「吸い殻を比較します」


 天田が封筒を三つ開いた。

 展示棟で拾った一本だ。

 搬入口で拾った一本だ。

 匿名封筒に同封の一本だ。

 いずれも噛み跡は左だ。

 いずれもベンチレーションが三列で揃う。

 焼け縁の階段の角度が似る。

 灰の砕け方も似る。


「灰の崩れが同じです」


「ヴァージニア比率が高い配合だと灰は軽く薄く崩れて積もる。バーレーが強いと粒が粗く、崩れがざらつく。オリエントは香りの尾が長く、灰の密度は軽い。ここは軽く薄い。選び手が同じ顔だ」


「ロッカーの缶の粉は軽さじゃない」


「砕けだ。乾かしすぎた期限切れの見せ物だ。吸っていない手の刻みだ」


 天田が顕微鏡でフィルター繊維を覗く。

 繊維の間に黒い微粒が規則正しく刺さっている。

 活性炭の粒だ。

 フェルトの微細な毛も混じる。

 ライターの袋と同じ素材だ。

 缶と袋が一緒に動いた痕跡が殻の内側に残っていた。


「ロッカーには、まとめて置かれた」


「置く者は手数を減らしたがる。だから揃う」


 紫郎は壁の湿度計を見た。

 五十六で変わらない。

 店の空気は遅い火をよく見せる高さで落ち着く。


「在った事実を置く」


「はい」


 天田は淡々とノートに積む。

 B−3、脚高4、左蝶番。

 取手裏二センチに匂いマーカー。

 丁子の足し香。

 匿名封筒のK。

 ベンチレーション三列と噛み跡左。

 ロッカー缶は均一乾きで粉。

 ライターは外だけ黄ばみ芯は白。

 書類の紙の目は混在。

 どれも揃いすぎる方向に寄っている。


「揃いすぎは、手の焦りですか」


「時間が狭くなると手は荒れる。Kは一分を一息でやる手だ。荒らさず揃える癖と、急いで揃えすぎる癖が同居している」


「誰のために時間を稼いでいるのでしょう」


 紫郎は答えず、灰皿を中央に寄せた。

 昼間の実験の薄い粉が残る。

 鏡は曇らない。


 鈴が鳴り、島倉誠一が帽子を握って入る。


「展示棟のガードからだ。昨日の喫煙所は三列の灰が多かったそうだ。三列は海外紙巻の定番のやつで、業者の外人がよく吸うらしい」


「誰かの輪郭が紙で太る」


「搬入口のキーで、予備番号がひとつだけ書き換えられてた。新しい朱で」


「朱は早くも遅くもする。使い手次第だ」


 島倉を見送ると、ガラス戸の向こうの光が薄く滲んだ。

 湿度計の針は五十六のまま、店の空気だけがわずかに深くなる。


「私、今日、先輩が捕まるのを覚悟していました」


「……」


「でも煙が違うと言ってくれた。揃いすぎは手の焦りで、均一の乾きは吸っていない証拠。噛み跡の位置は指の無意識。手が人を守った」


「煙は、嘘を吐かない」


「はい」


「人は、帳尻を合わせる」


「はい」


 外を夕方の風が一度だけ通り過ぎた。

 ポストに薄い音が落ちる。

 天田が封筒を拾う。

 白で、封はない。

 中には一行だけだ。


『十五分は舞台、三分は運搬、一分は扉。お前等の時間は誰のものだ? K』


 胡桃油の甘い影が薄く乗る。

 左で布を巻く癖が、油の段差でわずかに触れる。


「挑発に見える」


「挑発は自信の裏返しだ。時間を握っている者の文句だ」


「私達の時間は私達のものです」


「そう言えるように置く」


 紫郎は瓶の唇を静かに閉じ、灰皿の灰をそっと崩した。

 崩れ方は今日何度も見た軽く薄い配合の顔だ。

 同じ手がここまで届いている。


「明日は紙の目を追う。港の縦、展示の横、外人の三列だ。紙の筋は名前より正直だ」


「はい」


「北条を外に出すな。捕まえるのは、こちらだ」


「了解です」


 鏡は曇らず、秤は皿を閉じ、針は零だ。

 湿度計は五十六。

 看板の紫が夜の手前で息を潜めた。


「焦るな、か」


 紫郎が独り言のように呟く。

 言葉は木と金属と硝子の間から短く滞り、すぐ消えた。


「焦らない。ただし、急ぐ」


 天田が札を準備中に返す。

 鈴が小さく鳴り、店の空気が一つの調子でそろった。

 外で誰かの足音が一度止まり、また動き出す。

 時間は、こちらで刻む。


「煙は、嘘を吐かない」


「はい、紫郎さん」


 声は小さいが確かに届いた。

 夜の一歩手前で、二人は置く準備を整えた。

 次に崩れる灰、次に浮く蓋、次に滑る紙を迎え撃つために。

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