第三十五話 灰に残る穴
午前の光は常夜紫煙堂のガラス戸の内側で白く鈍った。
瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
壁際の湿度計は五十六%。
昨夜から変わらず、店の空気は乾き寄りの素直さを保っていた。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴り、天田芽衣子が入ってきた。
制服の襟は正しく、胸ポケットの二本のペンは差し込み向きが揃い、靴の踵のゴムは昨日と同じ固さを保っている。
「おはよう、天田」
「展示棟の返却箱は午後に共用倉庫へ移送。午前は見学ルート調整で裏に人が流れます」
「札だけ替えて箱は同じ、の運用が続くな」
「昨夜、電源盤のそばで吸い殻を一本。口付けは薄い。フィルターの根本に黒い粒が混じっていました」
「活性炭入りのフィルターだ。煙の気体成分の一部を吸着して口当たりを丸めるが、匂いの並び――甘い→辛い→薄い石油――までは消せない」
「角は削れても、歩幅は同じ。在った事実として置きます」
「吸い殻のフィルター紙に小さな穴は」
「あります。脇に丸い穴が列になって……昨日言われてたフィルター・ベンチレーションですよね?」
「だな。測定機械では空気が混ざって低い数字に見える。人は指や唇で穴を塞ぎがちで、実際の摂取は上がる。数字は札にすぎない」
「穴を塞ぐ癖があれば、列に擦りが残る」
「名は要らない。手だけ見ろ」
秤は揺れず、針は零で止まる。
段取りは短く、音が少ない。
「俺は倉庫口の影。天田は展示裏の返却箱。杉谷は鍵。北条は外周。島倉は電源盤と消火栓だ」
「追わない。置く。ですね」
「そうだ」
「課長には」
「言わなくていい。言うのは匂いだ」
天田は頷き、軍手の下に薄手の手袋を忍ばせた。
二人は扉の札を準備中に返し、商店街の細い風の中へ出た。
――――
展示棟の裏通路は、昼前の空気で少し軽かった。
見学ルートを調整するスタッフが前後に流れ、倉庫口の前に台車の列が短く伸びる。
鳳章インテリアのブース裏では、堅木の返却箱が二つ、脚高四で並び、蝶番は一方だけ左寄せ。
取手の裏には二センチの空間。
昨日と同じ見た目で今日の光を受けている。
「取手の裏、置きます」
天田は匂いマーカーを極薄く置いた。
色も形もなく、触れた指だけがそっと覚える薄い丁子の影だ。
クレテックに使うクローブの主成分オイゲノールは油性で木に移りやすく、舌が痺れるような感覚を残す。
匂いで帳尻を合わせる者ほど、木箱に選ぶ香りでもある。
「昨日より新しい丁子だ」
「上書きだろう。札を替える前に、匂いを替える」
紫郎は蓋に触れず、蝶番の抜けの位置を指で探り、薄底を呼吸させずに滑らせた。
封筒の縁だけを目で確かめる。
昨夜中身だけ入れ替えた封筒の紙目は横。
港の走り書きは縦。
同じ手が場所を跨いで動いている。
「外周、黒いバン。ステッカー無し。停車ライン、昨日と同じ。運転手は左を使う癖。喫煙は無し」
北条の声が無線に落ちる。
短く、乾いている。
「保管室、鍵はこちら」
杉谷が許可票を胸に忍ばせ、眼鏡を押し上げた。
「杉谷、無理はするな」
「はい」
天田は箱の座りと床材の遊びを目で覚えた。
三分の止まり。
視線が表へ寄り、裏が薄くなる。
黒の作業着の男が影の縁だけを使って箱へ入る。
左の手。
一歩。
半歩。
浮かす、差す、戻す。
一息。
男は目を上げずに去る。
「今」
天田の声は低く短い。
紫郎は薄底を呼吸させずに滑らせ、封筒の封に触れず中の紙だけを抜き、用意した同重量の空白紙に差し替える。
戻す。
座らせる。
薄底の戻る音は短く、箱は返却箱の見た目を保った。
「回収、保管室」
杉谷が鍵を示し、二人は人影に紛れて移動した。
金属棚は乾いた匂いを返し、紙と油の薄い影が混じる。
脚高四の二つは仲良く並び、蝶番左寄せが片方だけ混じる。
「写真、四隅」
「はい」
封筒を抜き、鋼板の机にこちら側の紙を置く。
通関番号の走り書き、北回りのN。
加工指示――『BVT乾/OR微/LO(葉落)混合/水分値九→六』『ロット統合/港外/箱経由』『帳尻:鳳章』。
右下に小さく『K-12/31』。
「水分九→六」
「火の歩きが速くなる指示だ。市販の紙巻は保湿剤――プロピレングリコールやグリセリン――で乾きすぎを避ける。味は丸まり燃えは安定するが、入れ過ぎれば重い。九→六は乾かし側に倒す数字だ」
「なるほど。だから甘い香りで上から蓋をする」
「匂いで帳尻を合わせる、だ」
紙を封筒に戻し、薄底を呼吸させずに閉じる。
棚の金属が短く音を吸う。
廊下の角、眠たげな目と緩いネクタイが通り過ぎる。
白線を踏まない足。
佐伯がどこにも寄らず、胸ポケットへ視線をひと撫でし、言葉は一つだけ。
「焦るな」
「はい」
返事は短い。
佐伯の歩幅は変わらず、角で消えた。
空気には何も残らない。
残らないこと自体が、紙の片隅に一行だけ残る。
ーーー
午後、共用倉庫の搬入口。
台車の列は短く、フォークリフトの唸りが低い。
島倉は電源盤の前で腰を落とし、周囲の床に残る粉と擦れを指で拾っては嗅ぎ、鼻の下に線を引く。
「昨夜の遅い火、ここを通ってる。ナフサの影が薄い。空の容器でも蒸気に注意ってやつだ」
「空でも危ないは、犯人に都合がいい。残り方が薄いのに鋭い」
「上から丁子を被せると、鼻が慣れて後ろの影に気づきにくい」
「順番は変えられない、だ」
紫郎は踵を返し、倉庫口の陰へ身を納めた。
ここは扉の影。
名前で開かない所だ。
三分前、通路の流れが緩み、一分で手が入る。
仕掛けは同じ。
違うのは、こちらが置く準備を済ませていることだけ。
「来た」
天田の声が低く落ちる。
左の手が取手裏の二センチへ触れ、右で薄底を息だけ動かす。
浮かす、差す、戻す――一息。
踵が返る。
「置け」
紫郎はごく短い声を落とし、踵の方向とは逆の死角へ回った。
そこに、吸い殻が一本転がっている。
白の紙巻、薄い口付け。
フィルターの根本、茶色い変色の境目に黒い粒。
活性炭。
さらに、フィルター紙には微細な孔の列――ベンチレーション。
孔の外側に、脂の薄い擦れ。
指か、唇のバームか。
穴を塞いで吸う癖だ。
低タールを低くないに戻す吸い方。
「左の入れ、です」
天田は袋を開け、吸い殻をトングで収めた。
その時だった。
「すみません、証拠物、こちらでお預かりします」
後ろから、抑えた声。
北条隆司が警察用の封筒を差し出している。
汗はない。
目は静かだ。
だが、早い。
「北条さん、そっちは写しです。現物は科捜研に直行で」
「……そうか。頼んだ」
北条は一歩引き、通路の影に溶けた。
天田がこちらを見る。
瞳に、わずかな戸惑いが射す。
「早いな」
「はい。内部に裏切り者がいる時は、こういう速さの歪みが出るんですね」
「早すぎるは、不自然だ。置いておけ」
二人は倉庫の奥へ回った。
脚高四が揃う列。
薄底の戻しは短く、香りの上書きは新しい。
帳尻の丁子。
港の北回り。
札は鳳章。
指示は『K-12/31』。
在った事実が紙の上で薄く繋がる。
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
看板の紫は風で少し揺れ、ガラス戸の内側に長い影を作っていた。
瓶の唇は同じ高さで囁き、湿度計は五十六%。
秤の針は零。
鏡は曇らない。
カウンターには今日持ち帰った紙と吸い殻の写真が並ぶ。
「まとめよう」
「はい」
天田はノートを開き、箇条書きで淡々と積む。
返却箱=堅木/脚高四/蝶番左寄せ混入/取手裏二センチ。
取手裏=丁子(オイゲノールは油性で木に移る)。
港の紙=縦、展示の紙=横、どちらも左の入れ。
活性炭フィルター=気体成分の一部を吸着、匂いの並びは残る。
ベンチレーションホール=塞げば低い数字は崩れる。
ナフサ=空でも可燃蒸気に注意。
名は出さない。札にすぎないからだ。
「北条は」
「早かった。……ですが、まだ置く段階です。疑いを増やすより、在った事実を増やす」
「そうだ」
紫郎は紙巻を一本、カットして見せた。
フィルター紙の外周、微細孔の列。
爪でなぞると、指の腹に引っ掛かりが残る。
「穴は数字を飾る。だが、灰は飾れない。穴を塞げば火の歩幅は変わる」
「穴で帳尻、香りで帳尻。……帳尻を合わせているのは人間」
「それでいい」
鈴が短く鳴った。
島倉が帽子を握って入ってくる。
肩に薄い埃。
靴に緩い砂。
「倉庫の見学ルート、柵の鍵がもう一本、無くなった。電源盤に、小さな擦れ。指の腹で押す癖の跡だ」
「左の癖は、鍵にも出る」
「北条さんの方で、科捜研行きの封筒が一つ行方不明になったって」
天田の手が止まり、ゆっくり顔を上げた。
「消えるが続く時は、内部の風が動いている。焦るな」
「……はい」
「明日は穴を見る。展示でも港でもない。手の穴だ」
「手の穴」
「ベンチレーションの列に触れた脂の擦れと、活性炭の欠け。吸い殻の切り口を並べる」
「吸い殻を並べる」
「煙筋は灰にも残る」
天田は頷き、封筒を証拠袋に入れた。
指先に残った薄い香りを嗅ぎ、息を整える。
甘さの影、薬の痺れ、薄い石油の尾。
順番は変えられない。
順番は習慣だ。
「紫郎さん」
「なんだ」
「今日、倉庫で少し怖かったです。北条さんが早く来た時、疑いが喉まで出かかった」
「早さは美徳に見える。だが、証拠は適切な遅さで運ぶ」
「はい」
「俺達は置く側だ。追えば、相手の時間に乗る」
「はい」
紫郎は灰皿を一つ中央に寄せ、店の空気を静かに整えた。
瓶の唇は同じ高さで囁き、湿度計は五十六%。
秤の針は零。
鏡は曇らない。
「天田」
「はい」
「煙は、嘘を吐かない」
言葉は大きくない。
木と金属と硝子の間で、その長さだけ確かに止まる。
外で橋脚の風が一度だけ低く鳴り、提灯の赤がわずかに揺れた。
夜の手前。
遅い火の歩幅が、こちらへ向かってくる。
「扉の札を準備中に」
「はい、紫郎さん」
札が返り、鈴が短く震えた。
看板の紫は深く、店の空気は乾き寄りのまま静かに強く、夜を迎え入れた。




