第三十四話 偽札の指
午前の光が、常夜紫煙堂のガラス戸に四角く貼りついていた。
瓶の列は口を結び、黄銅の秤は皿を閉じて針を零に置く。
店の奥、作業台の上には昨夜のままの丸缶――白いラベルに小さく「遅い火」と書いてある。
薄く乾いた丁子の影が、木目の谷にだけ残っていた。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴って、天田芽衣子が入ってくる。
制服の襟はきっちり、胸ポケットの二本のペンは差し込み向きまで揃っている。
靴底は磨かれ、砂は少ない。
「おはよう、天田」
「今朝の報告です。展示棟倉庫の返却箱が未明の点検で『正常』と記録。写真では蝶番の位置が左右とも中央寄り。昨日あった『左寄せ一本』が消えてます」
「入れ替えたな」
「はい。それと搬出ゲートの映像、二十二時から二十三時の一時間だけ『データ不良』です」
「消すのに慣れた手だ」
紫郎はカウンターの紙束をめくった。
港の走り書きと、展示で拾った横目の紙。
どちらにも、左で布を巻く癖が薄く残っている。
『K』の頭文字だけが、胡桃油の影みたいに視界の端に立ち続けていた。
「もう一つ。北条さんが昨夜の黒いバンを職質。運転席からライト系3mgの紙巻。フィルター根元に小さな孔が並んでました」
「フィルター・ベンチレーションだ。測定の煙を薄めて『軽い』と見せる穴だが、人が吸うときは指や唇でふさいでしまう事がある」
「数字は札。吸い方は癖、ですね」
「ああ。活性炭入りのフィルターもある。気体側の一部成分を吸着して口当たりを丸めるが、匂いの順番――甘い、辛い、薄い油の影――までは消せない」
「角は削れても、歩幅は隠せない」
「煙は嘘を吐かない」
短い言葉が、木と金属と硝子の間で止まった。
天田は顎を引き、小さく息を整える。
「杉谷さんは港の“朝比奈”を追う予定でしたが、今朝は『監査対応』で動けません。朱が増えています」
「向こうは紙で遅くする。こちらは現場で早くする」
「合図ください」
「喫煙所の手すりを拾う。昨日、三谷が手袋を外した瞬間があった。指の腹にヤニの薄い帯が残っていれば、穴をふさぐ持ち方の可能性が高い」
「指の汚れ方で吸い方の癖を見る、ですね」
「それと、匂いに慣れて感じにくくなる現象がある。だから濃い煙を求める癖は深まりやすい」
「慣れも、証拠になる」
「行こう」
紫郎は前掛けを外し、ガラス戸に『外出中』の札を返した。
ーーー
展示棟の喫煙所は、昼前で人影が薄い。
灰皿の縁には白い輪が幾重にも重なり、手すりのステンレスには細い擦れ跡が斜めに走っている。
風が一度だけ抜け、セルロースの灰をふわりと揺らした。
「ここだ」
紫郎は手すりの高さを天田の肩口に合わせて目で測り、綿棒で一点だけをそっと撫でた。
薄茶の帯が、綿の先にごく薄く移る。
「帯の中心が、内側に寄ってます」
「穴をふさぐ人間は、フィルターの根本をつまむ。指の腹の中心が内側に寄る」
天田は写真を撮り、綿棒を小袋に入れた。
レンズ越しの紫郎の横顔は相変わらず掴みどころがない。
だが、目の奥は動いている。
「北条さんから折り返し。『今から所に戻る。例の箱と紙巻は俺が責任を持つ』だそうです」
「俺が、か」
言いながら、紫郎は喫煙所の隅、電源盤の前でしゃがんだ。
蝶番の脇に微細な銀粉と、油の細い筋。
丁子の甘い影が、風の底でかすかに動いた。
「香りの上書きは、ここでも続いている」
「見せたい匂いに帳尻を合わせる……」
「匂いは飾れる。だから飾りを剥がす」
通路の先から足音。
反射ベストの背中が二つ。
先頭の短髪――北条隆司だ。
眠たげな目。
歩幅は一定。
白線を踏まない。
「お疲れさん。……夜村、現場で勝手はやめてくれよ」
「勝手はしない。置くだけだ」
「課長に似てきたな」
皮肉とも冗談ともつかない声。
次の瞬間、北条のポケットの膨らみが目に入る。
紙巻の箱。
親指で軽く叩く癖。
紫郎は視線だけでそれを追い、何も言わなかった。
「バンは下請けの更に下。実体が薄い。紙巻は科捜研に回した。手続きは済みだ」
「映像の不良は?」
「更新と重なったらしい。監視の会社が調査中。――焦るな」
最後の一言だけ、どこかで聞いた調子だった。
北条は踵を返し、通路の角で煙草に火をつけた。
フィルター根本を指の腹でつまむ。
穴は完全にふさがっている。
風が一度だけ抜け、灰皿の輪がひとつ増えた。
ーーー
午後、捜査一課。
雑然とした事務机の列に、朱のファイルが小山を作っている。
コピー機のうなり。
電話のベル。
どれもが“急いでいるのに遅い”音だ。
「夜村さん、天田くん。鳳章の仕入先証明の正式コピーが届いた」
「ありがとう。……朱は増えたか」
「増えた。『外部持ち出し禁止』も押された。だから、ここで見よう」
紙面に並ぶのは産地名とロット番号、通関のスタンプ、加工指示――『BVT乾/OR微/LO混合』。
端に小さく『K-12/31』。
紫郎は紙の端を指で押さえ、目を細めた。
紙の目は横。
港の走り書きは縦。
同じ癖が、場所を跨いで動いている。
「ところで北条さんから電話。『紙巻は科捜研へ。結果が出るまで夜村に勝手はさせるな』と」
「勝手はしないさ」
紫郎は窓際に小さなトレーを広げた。
吸水紙、綿棒、薄めた丁子油、無水エタノール。
怪しい薬品ではない。
法に触れない、ただの香りだ。
「紙の端を二種類の溶媒でごく薄く撫でる。移る匂いの順番を比べる。港の縦、展示の横、そして証明の紙。――同じ上書きがあるかを鼻で拾う」
「そんな事が」
「鼻は鈍いが、順番には敏感だ」
ドアが開き、佐伯課長が顔を出す。
眠たげな目、緩いネクタイ。
白線を踏まない歩き方。
「おや、化学実験か」
「香りの写しです。法には触れません」
「触れないならいい。だが焦るな。北条の報告では紙巻は科捜研に渡した。結果を待て」
「はい、課長」
佐伯が去ると、部屋の音が少し戻った。
紫郎は吸水紙で紙の端を撫で、順番を聞く。
「港の縦――甘い、辛い、薄い油」
「展示の横――甘さが先行、辛さが浅い。見せ香だ」
「証明――甘さが少し古い。下に薄い油の尾」
「証明は見た目どおりでも、匂いは矛盾してます」
「名は札。手は癖。――Kは紙にも木にも香りを置く」
その時、天田の携帯が震えた。
表示は“匿名”。
耳に当てると、くぐもった声。
「三分前。喫煙所。孔を見ろ。K」
通話は切れた。
静かな部屋に、紙の擦れる音だけが残る。
「行く」
三人は廊下を駆けた。
ーーー
喫煙所は、昼休みの人波がちょうど引いたところ。
灰皿は満ち、凹んだ吸い殻に焦げ茶の輪が重なる。
手すりのステンレスには、昼の光が細く走る。
「孔……」
天田が目を凝らす。
灰皿の縁に、軽く潰れた紙巻が二本。
フィルター根本の白い紙に針穴の点列。
その上に、ごく薄いセロハンテープの切れ端。
穴を塞ぐ為の小細工だ。
「見せ数字を無効化する癖だ」
「北条さん、さっきここで……」
言いかけて、天田は口をつぐんだ。
ステンレスの手すり、昨日と同じ位置に薄茶の帯。
今日は少し濃い。
綿棒で撫でると、指の腹の幅がはっきり出た。
「左。幅、広め」
「三谷の幅と、北条の幅。両方ある」
通路の奥で声。
反射ベストとスーツ。
北条と鳳章の現場監督。
どちらも早口、どちらも抑えた声。
「だから、今は表だ」
「俺だって残業続きなんだ」
すれ違いざま、北条のポケットから紙巻の箱が覗く。
『タール3mg』。
親指で孔をなぞる癖。
紫郎は目だけでそれを追い、天田と視線を交わした。
「内部に、裏切りがいる可能性が高いです」
「断定はしない。置く」
紫郎はテープの切れ端をピンセットで拾い、小袋に入れた。
透明な破片が、光の中でかすかに反射する。
「孔をふさぐ手は、癖そのものだ。指の幅、ふさぐ強さ、粘着の跡」
風が一度だけ抜け、灰皿の輪がひとつ増えた。
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
看板の紫が濃くなり、ガラス戸の内側で影が長く伸びる。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
作業台に紙束と小袋が並ぶ。
「まとめよう」
「はい」
天田は箇条書きで積む。
返却箱は入れ替え済み。
蝶番の配置が変わった。
喫煙所の手すりにヤニの帯。
幅は二種。
孔にテープ。
ライト系3mgの箱。
活性炭入りの別箱。
孔をふさぐ癖。
Kの匿名通話。
北条の『俺が持ち込む』。
佐伯の『焦るな』。
「黒幕候補に北条を置く。だが断定はしない」
「置きます」
「Kの通話は明らかな誘導だ。孔に気づかせ、誰かを疑わせたい」
「疑いは札。癖は香り」
紫郎は丸缶の蓋を一つ開け、丁子の薄い影を吸水紙に乗せた。
店の空気が、わずかに甘くなる。
「クレテックの丁子はオイゲノールが芯だ。歯医者でも使われる“しびれの匂い”。甘さの幕で鼻は早く慣れる。だが順番は変わらない」
「見せ香で丸くしても、歩幅は残る」
「科捜研から何か」
「連絡あり。『北条警部補から受け取った紙巻の一部、検査中にサンプル不足。中身が別銘柄と混在』」
「入れ替えは箱だけじゃない」
短い沈黙。
紫郎は作業台の端を指で軽く叩いた。
乾いた音が一度。
「夜になったら、店で置く。甘い影、辛い尾、薄い油。順番を、来た手に返す」
「罠じゃなく、在った事実の壁」
「ああ」
鈴が鳴き、島倉誠一が顔を出す。
「裏手の消火栓、触って戻した痕」
「弦月の台帳、写しを確保。K-12/31は別紙管理」
「北条さん、表通りで『焦るなよ』。喫煙所では孔をふさいでた」
報告は短く、必要だけ。
扉が閉まり、店の空気がきれいに整う。
「天田」
「はい」
「煙は、嘘を吐かない」
「はい」
決め台詞は、小さく置くだけにした。
言葉に頼らず、匂いに働かせるためだ。
看板の紫が夜に向かって深くなる。
札を『準備中』に返し、鈴が短く震えた。
“孔をふさぐ手”“見せ香”“遅い火”。
それらが一つの癖の写しになって、こちらへ向かってくる。
焦らず、しかし急いで――次の夜の段取りを揃える。




