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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第三十三話 白い灰の、帳尻

 午前の光がアーケードの天窓で四角に割れ、常夜紫煙堂のガラス戸に白い面を作っていた。

 秤は皿を閉じ、針は零。

 瓶の列は口を固く結び、湿度計は五十六%で止まる。

 昨日、扉の隙間に薄く置いた匂いマーカーはもう消えている。

 店の空気は、調べ物に向いた乾き具合だ。


「おはよう、紫郎さん」


 鈴が鳴って、天田芽衣子が入って来た。

 制服の襟は正しく、胸ポケットのペンは二本、差し込み向きが揃っている。

 靴底の縁にだけ、細い白粉が残っていた。


「おはよう、天田。……その粉、どこで」


「証拠保管庫。灰皿に残っていた灰を出し直したら、掃除のブラシに白い粉末が付いていて、手触りが紙の充填剤っぽい」


「炭酸カルシウムの可能性が高い。紙巻の巻紙には燃焼を安定させる目的で炭酸カルシウムが入る事があり、灰が白く見えやすくなる」


「白い灰は綺麗だけど、綺麗すぎる時は作為の跡になる」


「そうだ。葉の灰だけなら淡いグレー寄りになるのが普通だ。紙の白が混ざると見え方が変わる。……白で帳尻を合わせた灰という線が見える」


 カウンターに薄い封筒が一つ。

 昨夜、ポストに落ちたものだ。

 『帳尻は灰で合わせろ。四十秒。――K』。

 インクは乾いて軽い。

 紙の目は横。

 端に胡桃油の痕が薄い。

 左の手で布を巻く癖。


「四十秒って何ですか」


「着火から灰が自然に折れるまでの時間だ。……四十秒で折れる灰を作れ、という意味だと読める」


「湿りと巻紙と吸い方の組み合わせで、狙って折れを作るわけですね」


「示威か試験かは分からないが、灰で帳尻合わせをやるという宣言だ」


 紫郎は缶を一つ取り、丸めた吸取り紙、無漂白の巻紙、活性炭フィルター、両切りの紙巻を並べた。

 瓶の口を少し緩め、湿度を五十六%に保ったまま指先の熱で巻紙の張りを整える。


「まず、生葉に近いシャグで巻く。バージニア主体の細切り。……折れ時間を測る。天田、計ってくれ」


「はい」


 火を入れる。

 灰は淡く立ち上がり、灰柱が細く伸びる。

 紫郎は二秒吸って四秒休むリズムを一定に保つ。

 白と灰の中間が積み重なり、先端がわずかに右へ倒れる。


「三十八秒」


「早い。紙が薄い。……次は市販の巻紙で、充填剤の多い厚手に替える」


 再び火。

 灰は白に寄り、崩れにくい。

 先端が粘る印象を作る。


「四十六秒」


「遅い。活性炭フィルターを付けると吸気に抵抗が生まれて、灰柱が太りやすい。……最後に“白さ”を強調する巻き方で紙の比率を上げてみる」


「四十一秒。……四十秒に寄りました」


「狙える。四十秒は合図になる。『この灰は作った』という合図だ」


 天田はノートに「灰の白=紙の充填剤(炭酸カルシウム)/折れ時間=吸い方×紙×水分」と書き、丸で囲った。


「午前は警察署へ行き、保管庫の灰皿を再チェックします。北条先輩は展示棟の外回り。杉谷さんは協会の目録。島倉さんは倉庫口」


「俺は店で“四十秒”の組み合わせをもう少し詰める。……天田、課長の『焦るな』はいつでも出る」


「出ますけど、焦りません。置いていきます」


 鈴が鳴る。

 商店街の風が一度だけ看板の紫を揺らした。


ーーー


 署の保管庫は乾いた紙と金属の匂いが混じる。

 棚は番号で並び、灰皿は証拠袋に入ったまま。

 天田は手袋を二重にし、封をほどかず外袋ごと重量を測り直した。

 数字は昨夜の記録と一致――のはずだった。


「……一グラム軽い」


 眉を寄せ、計測をやり直す。

 同じ結果。

 秤が狂っていない事を別サンプルで確かめ、灰の色に目を寄せた。

 昨夜より白い。

 袋の内側に薄く粉が付着し、角に上下方向の擦り跡が二本。


「誰かが撫でて白を増やした。四十秒に寄せる為の調整だ」


 ブザー。

 保管庫の扉が開く。

 眠たげな目。

 緩いネクタイ。

 佐伯が顔を出した。


「天田。何をしてる」


「灰皿の再点検です。重量が一グラム軽くなっています」


「量り直しは報告書を付けろ。焦るな。『減った』という言葉は重い」


「はい」


「午後から本庁の監察が来る。展示棟の件だ。段取りは俺が持つ。君は余計な口を利かない事」


「了解です」


 扉が閉まる。

 金具が噛む乾いた音。

 天田は袋の角の擦りを写真に収めた。

 白い粉は手袋の上で粉雪のように滑る。

 炭酸カルシウムなら舌で触れるときしむが、ここでは試さない。


 彼女は鼻の奥の感覚を意識する。

 嗅覚は匂い分子が受容体に結び、信号が嗅球に上がるだけの話だが、慣れて感じにくくなる順番がある。

 甘いに先に慣れ、次に辛い、最後に粉っぽさが残る。

 昨夜から今日にかけて、保管庫の空気には紙の粉の鈍い匂いがわずかに増えた。

 錯覚ではない。


「……白で帳尻か」


 彼女は低く呟き、封を閉じ直した。


 ―――。


 昼過ぎ。

 常夜紫煙堂。

 天田は結果を持ち帰った。

 紫郎は秤と秒針の横に三種の灰を並べ、顕微鏡を据えていた。

 店の光を落とし、机の上だけ白くする。


「見てくれ」


「はい」


 最初の灰は薄い灰色で、細かい孔がある。

 葉の繊維が焼けた跡。

 二つ目は白く、粒が丸い。

 三つ目はその中間で、薄い層が重なる。


「上が葉の灰。中が紙の白。下が混ぜ。……保管庫で白が増えた、という報告で間違いないな」


「はい。一グラム分、軽くなっていました」


「袋の角の擦りは上下に二本。……白を足した手の癖として記録する」


 紫郎は顕微鏡を外し、灰に触れず輪郭だけを見る。

 白は光を鈍く返し、灰は浅く返す。

 返し方で厚みが分かる。


「四十秒の白。……Kは紙の白で帳尻を合わせた」


「展示の箱、倉庫の札、港の走り書き。どれも左手の入れ方が同じで、今回は保管庫で白を足した」


「在った事実が繋がっている。……午後は展示棟だ。監察が入る。向こうは紙で時間を増やす」


「朱ですね」


「朱だ。朱は紙の上で増える。匂いは残る」


 鈴が鳴く。

 島倉が帽子を脱いで入る。

 肩に薄い埃、靴に緩い砂。


「裏口の合鍵が一本、戻らないまま。見学ルート切り替えの一分が監視の盲点。北条さんは外で黒いバン待ち。今日は停め方が少し雑」


「運転手が入れ替わった可能性だな」


「前は白線に合わせて止めたけど、今日は手前で止まった」


「Kは人を入れ替える時でも、動作の癖を残す。……左の入れ、四十秒の白」


 紫郎は壁の時計を見る。

 秒針は滑らかに進む。

 店の空気は五十六%を保つ。


「行こう」


「はい」


ーーー


 展示棟。

 監察の腕章が光を弾く。

 通路には白いテープ。

 机の上に書類の束。

 朱はまだ少ないが、これから増える。


「こちらで返却箱の保全を行います」


「了解です。目視のみで確認します」


 天田は箱の前に立ち、座りだけを見る。

 座りは昨日より固い。

 薄底が呼吸しない。

 戻しが強い。

 作った白を入れた後の固めだと仮置きし、周囲の流れを追う。


 通路の端。

 眠たげな目。

 緩いネクタイ。

 佐伯が腕章の列の外で短く指示を出す。

 言い回しは柔らかい。

 動きは少ない。

 粉は踏まない。

 白線は避ける。

 所作の癖は身体に残っている。


「天田」


「はい」


「監察は『誰がいつどこにいたか』を紙で作る。……俺達は『何がどう動いたか』を匂いで置く」


「了解」


 調書が始まり、証言は紙に落ち、朱が増える。

 天田は問われた事だけを答え、比喩は避けた。

 四十秒も、白も、今は言わない。

 言わずに、脚の下のカーペットの毛の向き、蓋の合わせ目の浅い擦れ、座りの固さだけを拾う。


 北条から短い無線。

 黒バンの運転手が交代。

 左手で煙草。

 吸い方が浅い。

 灰は白寄り。

 折れ時間は四十秒前後。

 記録済み。


 紫郎が小さく息を吐く。

 天田は喉の奥で短く返す。


 監察が「以上です」と紙を束ねた時、袖の影で箱の座りがわずかに緩んだ。

 係員が少しだけ動かしたのだ。

 薄底が一瞬呼吸した。


「今」


 天田は目で合図し、紫郎は人の流れに紛れて角を見る。

 薄底が戻る時に出来る極細の線が一ミリだけ伸びた。

 中身に触れて固め直したのではなく、固めた後に触れた。

 順序が逆。

 今、誰かが触った。

 K本人か、Kの指示を受けた手か。


 監察が箱に封をした。

 大きな赤い判。

 朱は増える。

 匂いは閉じ込められない。


 通路に戻ると、佐伯が近づく。

 視線は低い。

 笑みは薄い。

 言葉は短い。


「焦るな」


「はい」


「夜村さん、あなたも。店主は店の事をしていればいい」


「承知しました」


 佐伯は踵を返し、白線を避けて消える。

 粉は踏まない。

 歩幅は崩れない。

 天田は歩調を目で量り、紙の片隅に在った事実として一行で置く。


ーーー


 夕方。

 常夜紫煙堂。

 看板の紫が深くなり、ガラス戸の内側で長く伸びる。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。

 湿度は五十六%。


「まとめよう」


「はい」


 天田はノートを開く。

 保管庫の灰が一グラム減。

 白が増えた。

 袋角に上下二本の擦り。

 展示の箱は座りが固いが、封の直前に一ミリの戻り。

 黒バンは運転手交代。

 左手の吸い方が浅い。

 灰は白寄り。

 折れ時間は四十秒前後。

 紙の白=炭酸カルシウム。

 灰の白さは作れる。

 活性炭フィルターは気体成分の一部を吸着して刺激の角を和らげ、吸気抵抗の変化で折れ時間の調整も起こりうる。

 Kは匂いで帳尻を合わせ、灰で帳尻を締める。


「名は出さない。癖だけが在る」


「はい」


 紫郎は灰皿を中央に寄せ、未使用の巻紙とフィルターを端へ置いた。


「嗅覚の注意点を一つ。人の鼻は甘いに先に慣れる。白い灰は見た目で安心感を作る。……慣れた鼻と目に、作った四十秒を飲ませる狙いだ」


「綺麗な白で安心感を作るという事ですね」


「そうだ。だが吸い方の順番は隠せない。……吸う、止める、灰が伸びる、折れる。四十秒は合図だ」


 鈴が鳴く。

 島倉が顔を出す。


「裏手、消火栓の鍵に触って戻した痕あり。水漏れは無し。弦月の台帳は杉谷さんが写しを確保。『K-12/31』が別紙で管理されていた」


「別紙は処理を遅くする道具の外側。……いい拾いだ」


 紫郎は瓶の口を少し緩め、店の空気に薄い匂いマーカーを置いた。

 甘さの影はごく薄いが、触れれば分かる高さにある。

 鈴の金具が短く揺れた。


「紫郎さん」


「なんだ」


「怖くはないです。緊張はしますけど。四十秒が向こうの時間なら、こちらは置いていく時間で動けます」


「その通りだ」


 紫郎は短く笑い、灰皿の縁を指で叩いた。

 音は小さく、木に吸い込まれた。


「煙は——」


「——嘘を吐かない」


 二人の声は重ならず、同じ長さで店に沈んだ。

 外で橋脚の風が低く鳴り、看板の紫がわずかに震えた。

 紙の上には名が無く、癖だけが並ぶ。

 四十秒の白、左の入れ、薄底の呼吸。

 帳尻は白で合わせられるが、歩き方の順番は嘘を吐かない。


 夜の手前。

 札を準備中に返し、ガラス戸を押さえた天田は、胸の内で秒針の音を聞いた。

 四十秒。

 もう怖くない。

 怖くないまま、慎重に置く。


 ―――。


 ポストに薄い封筒が落ちた。

 『巻紙の白さがはっきり出る吸い方でいけ。点火してから灰が折れるまでの時間を二十秒にそろえろ。口の匂いは、活性炭フィルターを使うか、うがいで薄めてから来い。——K』。

 天田は封筒の角をつまみ、胡桃油の薄い影を嗅いだ。

 布を巻く左。

 紙の目は縦。

 展示と保管庫の横とは別。

 港の風が混じる。


「次は、点火から灰が折れるまで二十秒にそろえろ、という指示ですね」


「口の匂いを消せは、活性炭フィルターを使うか、うがいで匂いを薄めて来いという意味だ」


「白い灰は紙の充填剤で作れる。……だから今回は二十秒に合わせた作った灰をやってくる」


「やらせよう。そして、吸い方のリズムと灰の折れ方の順番を見せてもらう」


 紫郎は灯りを一段落とし、瓶の列を影に沈めた。

 音が遠くなり、匂いが近くなる。

 秤の針は零で止まり、湿度は五十六%のまま。

 鏡は曇らない。

 準備はできている。


 煙は嘘を吐かない。

 “白い灰を強調して二十秒に合わせろ”という露骨な指示が来た。

 こちらは置く。

 それだけだ。

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