第三十二話 香りの間合い
朝の風が商店街のシャッターを軽く鳴らし、常夜紫煙堂のガラス戸に白い筋の影が止まった。
壁の湿度計は五十六%。
黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
瓶の列は口を固く結び、鏡は曇らない。
カウンターには昨夜の仕掛けに使った封筒の控え、綿棒の先、薄い手袋、小瓶が 一つ。
小瓶は丁子油を水で強く薄めた匂いマーカーで、色は無く、触れた指にだけ残る。
「おはようございます、紫郎さん」
「おはよう、天田」
「庁舎の喫煙所は十一時に休憩が重なります。昨日置いた封筒の“餌”は清掃では触られていませんでした」
「なら、人の手で動く」
「はい」
紫郎は封筒の控えを押さえ、紙の繊維の向きを確かめた。
昨夜わざと横目で作った封筒だ。
港で使われた縦目の紙と混ぜた時に見分けが付くようにしてある。
「今日見るのは二種類だ」
「二種類」
「一つはメンソールのカプセル。冷感受容体TRPM8を刺激して冷たく感じさせ、吸入の刺激を弱く感じさせる」
「感じ方をごまかす」
「もう一つは活性炭入りフィルター。煙の気体成分の一部、たとえばアルデヒド類などを主に吸着して刺激の角を丸める。水処理でも同じ理屈でにおいを抜く」
「活性炭で角を落とし、メンソールで冷たさを足す。匂いの輪郭が丸くなる」
「輪郭が丸い時は中身を見落としやすい。中身は丁子だ」
「丁子はオイゲノール。油性で木に移りやすい。インドネシアのクレテックはその甘辛い香りが芯ですね」
天田はメモの角に「メンソール=冷感」「活性炭=角を削る」「丁子=幕・残香」と置いた。
「それとナフサの尾。ウィック式ライターの燃料は軽質ナフサ系で揮発が速い。空の容器でも可燃蒸気に注意とSDSにある。薄い灯油の影を拾え」
「了解」
「行こうか」
「はい、紫郎さん」
県警本部庁舎の喫煙所は中庭の片側に寄せて作られ、透明の防風板が外光を歪めた。
床の白線は立ち位置を想定して引かれ、灰皿は二基。
風は弱い。
十一時、休憩の波が重なり始め、紙コップと足音と携帯の光が混ざる。
会話が薄い膜を作り、匂いはその下でゆっくり混ざった。
「配置、完了」
北条隆司は角から短く告げ、灰皿正面のカメラの死角を外から押さえた。
島倉は植栽側で清掃の動線と拾う手の位置を地図に落とす。
杉谷は庁舎内の置き場――総務の棚の封筒の行方を目録で追う準備だ。
天田は柱に寄り、視線を正面に置いたまま匂いの流れに鼻を馴染ませた。
甘い。
冷たい。
柑橘。
ほのかな薬。
やがて冷たいが勝ち、鼻の奥の感覚が薄まる。
フィルター内でカプセルを潰す小さな音がして、メンソール液が広がった。
「カプセル、二」
灰皿の縁に指をかける癖のある男が入って来た。
作業着で名札は無地。
点火の前からフィルターを咥え、まず冷たさで嗅覚疲労を起こしている。
続いて背広の男。
フィルター部に薄い黒。
活性炭だ。
火を点け、深めに吸って吐く。
煙の輪郭が柔らかい。
「活性炭、一」
天田は視線を動かさず、匂いの順番を追った。
柑橘が先に立ち、次に甘い香りが薄く伸びる。
即席の幕だ。
冷たさと丸みの外側に、薄い油の影が一瞬立って引っ込む。
「今だ」
紫郎の声は小さいが確かだった。
灰皿の背後、昨夜“餌”の封筒を置いた庁舎棟の影からフードの人物が一人滑る。
軍手の上に薄い手袋。
封筒を迷わずつまみ、上着の内側へ入れる。
十秒とかからない。
足は植栽の縁を踏まず、白線も跨がない。
追わない。
置く。
天田は肩の力を抜き、通り過ぎたあとに残る匂いだけを追った。
フードの人物の後に丁子の甘さが僅かに濃くなる。
冷たい幕の下にあった層が風の継ぎ目で顔を出す。
「外、角へ」
北条が回り込みながら囁く。
フードの人物は出口で一度立ち止まり、ウィック式ライターで火を点けた。
炎は柔らかい。
風に当てず静かに蓋を閉じ、近くの空気に薄い灯油の影を残した。
「ウィック式はナフサ系。近くで点ければ尾が残る」
「幕の下に尾」
「そう」
同時に灰皿の方で乾いた咳が二つ。
活性炭のフィルターの男だ。
吸い終えたフィルターは潰さず灰皿へ。
カプセルは未使用のまま残る。
メンソールは別口で使われている。
「北条、捨て殻」
「拾う」
北条は清掃と重ならない間を狙って回収した。
活性炭入り、カプセル無し。
銘柄名は潰れて読めず、巻紙は薄い灰。
紙の目は横。
フィルターを切ると黒い粒が詰まっている。
「活性炭は粒状。気体成分の一部をかなり吸着しているはずだ」
「角を削った煙で周囲の鼻を鈍らせ、そこに幕と尾を重ねる」
「順番が見えてきた」
天田は封筒の控えと匂いの記憶を重ねた。
冷たい→甘い→薄い油→抵抗が薄い。
感じ方の順番の上で、フードだけが封筒へ迷わず手を伸ばした。
「杉谷、内側」
「封筒の受けを追います。総務に協力済み。死角は扉脇と棚の裏です」
「頼む」
風が一度止み、匂いの層が入れ替わる。
冷たいが先に薄れ、甘さが遅れて残り、油の影が最後に戻る。
順番は癖だ。
「行こうか、天田」
「はい」
午後、総務の棚。
杉谷が透明袋に入れた庁舎の封筒が二つ。
一つは昨日の餌。
もう一つは寸分違わぬ横目の新しい封筒。
どちらにも丁子の甘い影が薄く残る。
「餌は例のフードが持ち込み、コピー前で入れ替えがありました。新しい封筒には別の紙が入っています」
「開けよう」
会議室の片隅で封を切ると三枚の紙が出た。
展示棟で見た加工指示のコピー――BVT乾、OR微、LO混、水分値九→六、北回り、帳尻は鳳章。
喫煙所の清掃時間と巡回の控え。
そして頭文字の一覧――K、M、N、S、R。
「横目で合わせてきた」
「違和感を消すために、紙も感じ方も合わせる」
「名札は名札。動作の癖は左のままだ」
紫郎は紙の角を揃え、鼻へ近づけた。
甘い。
遅れて辛い。
薄い油。
活性炭の丸みは紙には残らない。
あれは周囲の鼻を丸める仕掛けだ。
「匂いの感じ方の順番を作っている」
「順番」
「冷たさで嗅覚疲労を起こす前置き。活性炭で角を落とし、柑橘で明るさを足す上塗り。丁子で幕を掛け、油の尾で現場の今を押さえる。封筒は横目で違和感を消す。鼻にも目にも同じ順番だ」
「順番を疑わなければ気付かない」
「そうだ」
天田は深呼吸を一つ。
頭文字に小さく印を付ける。
Kには「紙・香・左/一致」。
Mには「喫煙所でカプセル音/左手で潰す」。
Sには「活性炭・咳/冷たさ未使用」。
在った事実だけを置く。
ノックがあり、扉が開く。
眠たげな目、緩いネクタイ。
佐伯浩一が顔を覗かせた。
「焦るなよ」
「はい、課長」
扉は閉じ、足取りは軽く去った。
白線を踏まない、粉を踏まない。
袖の歩幅を身体が知っている足だ。
「二つ目を見る」
紫郎は新しい封筒の角に小さな点を打った。
次に会う時、ここが同じかを嗅ぎ分ける軸だ。
「次は庁舎の外だ」
「外」
「活性炭を買える、カプセルの品揃えが多い、ウィック燃料が手に入る。そういう店筋に尾が残る。活性炭の家族は水でも匂いでも角を削る。近いのは浄水器だ」
「匂いの角を削る店筋ですね」
「弦月のヤードから港へ向かう途中、黒いバンがよく停まる自販機の角。あの筋を当たる」
「回ります」
北条は地図を広げ、島倉は拾う手の時刻を詰めた。
杉谷は出入り記録を写しに変え、朱の前に置く。
歩調を合わせた。
「天田」
「はい」
「匂いの順番は人が作る。煙は順番を作らない」
「分かりました」
「煙は、嘘を吐かない」
「うん」
言葉は短く、会議室の天井で小さく跳ねて紙に沈む。
外の風が一度止まり、流れを取り戻す。
冷たいが薄れ、甘さが遅れて残り、最後に油の尾が顔を出す。
順番は癖で、癖は手口を映す。
「行こうか」
「はい、紫郎さん」
夕方、商店街。
常夜紫煙堂の札は準備中に返り、灯りは一段落ちた。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
湿度は五十六%で保たれ、鏡は曇らない。
「実験をもう一つ」
「まだありますか」
「紙だ。巻紙は燃え方を安定させるため、灰の形成や燃焼速度を炭酸カルシウムやクエン酸塩などで調整する。紙の繊維の向きと合わせて燃え跡の段が出来る」
「鼻の段と重なる」
「紙で作る段と鼻で作る段。どちらも違和感を減らす設計なら、そこに手口が映る」
丁子を薄く掛けた試験片と掛けない試験片を並べて着火する。
火の進みは似ていても、匂いの段だけが違う。
さらに冷たさの幕を被せれば違いは隠れる。
「感じ方の設計」
「感じ方は証拠になる。数字ではなく順番だ。順番は嘘を吐かない」
鈴が短く鳴り、看板の紫がゆっくり揺れた。
庁舎の外の喫煙所、活性炭のフィルター、カプセルの音、ウィックの灯。
匂いの順番はそこへ延びている。
「天田。明日は外だ」
「了解です」
「焦るな」
「はい」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、静かに息を整えた。
瓶の列は口を固く結び、鏡は曇らない。
湿度計は五十六%で止まり、秤の針は零のまま。
店の空気は乾き寄りの素直さを保ち、二人の歩幅を揃えた。
煙は、嘘を吐かない。




