第三十話 穴と舌の記憶
午前の光が、常夜紫煙堂のガラス戸の内側で淡く滲んだ。
瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
壁際の湿度計は静かに指を立て、店の空気は乾き寄りの素直さを保っている。
カウンターには薄い封筒が 一つ。
昨夜、展示棟の非常口脇で拾った吸い殻を収めたものだ。
白い紙管の根元、フィルターの脇に、点の列が二本。
拡大鏡で覗く と、点の間隔が均等で、円周を巻くように微かな穴が並んでいる。
指で触れる と、紙の上に透明の膜が薄く光った。
セロテープを細く切って巻いた痕だ。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴り、天田芽衣子が入ってきた。
制服の襟は正しく、胸ポケットの二本のペンは差し込み向きが揃っている。
靴の踵は昨日より僅かに新しいゴムの色を見せていた。
「おはよう、天田」
「携帯灰皿と、昨夜の吸い殻。鑑識経由の簡易報告が先に来ました。フィルター紙からは“粘着剤残渣”。それと、フィルターの脇に微孔。――“ベンチレーションホール”ですね」
「そうだ。フィルターの“穴”は、本来は煙を薄めて機械測定の数値を下げる 為の仕掛けだ。だが、穴を唇や指、テープで塞げば、煙は薄まらない。吸い込む量は上がる 事になる」
「……テープで“軽い煙草”を“重く”する」
「機械にとっての“軽い”だ。人間にとっては、穴の有無で行き先が変わる。測定法の“強い吸引”では、最初から穴を全部塞いで数値を出すやり方もある。『ヘルス・カナダ・インテンス』だ。穴は全閉、吸い込みは強め、ピッチも速い。結果は跳ね上がる」
「つまり、昨夜の吸い殻は“最初から塞いで”吸っていた……」
「そう読むのが妥当だな」
紫郎は封筒の中からもう 一つ、小さな綿棒を取り出した。
フィルターの根元を軽く撫でる と、微かな甘辛い匂いが立った。
鼻の奥が一度だけ痺れる。
「丁子……」
「クレテックの影だ。クローブに含まれるオイゲノールは、甘くて、舌先を僅かに麻痺させる。あの甘辛さは“遅い火”の帳尻合わせに都合がいい。昨夜の箱にも足し香があった」
「甘さで鼻を疲れさせて、穴を塞いだ“重い煙”を押し通す……」
「そういう 事だ」
「課長には……」
「言わなくていい。言うのは、匂いと穴だ」
天田は頷き、メモの端に“穴/塞ぐ/甘さ/遅い火”とだけ置いた。
名は書かない。
置いて、待つ。
昼前、紫園ホールの展示棟。
表の通路は学校見学の列で絶えず、裏の搬入通路は“空”と“詰まり”を繰り返していた。
鳳章インテリアのブース裏、“返却箱”の札がかけ直された堅木の箱が 二つ。
脚高“四”。
取手裏の二センチ。
昨日と同じ顔だ。
「外周よし。喫煙所、十二時半から入れ替わりが出る」
北条隆司が短く告げ、角に戻る。
島倉は業者ベストのまま、台車で人波の“段差”を作る。
杉谷は管理室の前で許可の朱印を待ち、眼鏡の奥の赤は薄い。
「“穴”を見る には、煙の通り道も見ないとな」
紫郎は喫煙所の風の通りを確かめ、掲示板の陰に小さな三脚を据えた。
小型のカメラ。
レンズは喫煙者の顔ではなく、指先とフィルターの位置を狙っている。
「指か、唇か、テープか」
「どれでも“塞ぐ”は塞ぐ。――“塞ぎ方”が癖を映す」
「了解です」
鈴ではなく、遠い館内アナウンスが鳴る。
正時のチャイム。
通路の流れが一瞬だけ緩む。
「来た」
作業着の男が一人、喫煙所の灰皿へ真っ直ぐ来る。
肩は張らず、踵の返しは左。
手袋は外し、左手で箱を押さえ、右手で紙巻を抜く。
フィルターの白い部分の外側、茶色の“巻紙”に、極小の点列が見えた。
男は唇を“深く被せない”。
代わりに、指でフィルターの脇をそっと押さえ、穴の列を指の腹で覆う。
「指塞ぎ」
「テープではなく、その場で“塞ぐ”」
「“習慣”の手だな」
火を点ける 時、男の指は一瞬だけ“離れる”。
そこで煙は薄まる。
次の瞬間、指が戻る。
煙は濃くなる。
――濃淡の周期が短く揺れる。
カメラが吸い殻の側面を捉え、フィルターの“側”に指が触れた痕の光り方を拾った。
「もう一人」
別の男。
黒のキャップ。
踵の返しは右。
紙巻のフィルターに、透明のテープが最初から巻かれている。
自動販売機脇の立て看板の陰で仕込んできたのだろう。
火を点ける。
煙は“均一に重い”。
指は穴に関与しない。
「こっちは“準備した手”」
「道具に頼る手だ。――どちらも“穴”を消している」
「映像、取れました」
「よし」
紙巻に火が進み、二人はほぼ同じタイミングで吸い殻を落とした。
灰皿の縁で転がり、側面に薄い擦り跡を残す。
島倉が台車の影で“偶然”を作り、天田が手袋で吸い殻を拾い上げ、別々の小袋へ収めた。
「箱の動きは」
「無い。午後の“返却”で押さえるしかない」
紫郎は頷き、喫煙所から半歩だけ身を引いた。
風の線が変わり、匂いの層が薄く伸びた。
甘さと辛さ、その底に薄い石油。
丁子とナフサが交じる“遅い火”の記憶が、まだ残っている。
午後の“返却”。
保管室の棚は金属の冷たさを保ち、札が掛け替えられた箱が 二つ並んだ。
脚高“四”。
蝶番は一つだけ左寄せ。
取手の裏、二センチ。
――同じ。
「写真、四隅。いきます」
「頼む」
天田が角を押さえ、紫郎は薄底を“呼吸させず”に滑らせる。
封筒は“座った”まま、中の紙だけがこちらへ来る。
通関の走り書き。
加工指示。
『BVT/OR/LO』『九→六』『北回り』『箱経由』『帳尻:鳳章』。
右下に小さな『K-12/31』。
昨日と同じ“手”の記号が並ぶ。
「戻します」
薄底の戻る音は短く、棚の金属に吸い込まれた。
箱は“返却箱”の顔を続ける。
扉の向こう、廊下の角で足音が止まった。
眠たげな目、緩いネクタイ。
佐伯が通り過ぎる。
上目遣いの視線が胸ポケットへ一度降り、言葉は 一つ。
「焦るな」
「はい」
返事は短い。
佐伯は歩幅を変えずに消えた。
空気には何も残らない。
残らない 事自体が、紙の端に一行として残る。
夕方、常夜紫煙堂。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
天田は喫煙所で拾った二本の吸い殻を、白い紙の上に並べた。
一つは“指塞ぎ”。
もう 一つは“テープ塞ぎ”。
どちらもフィルター脇の微孔は巻紙に隠れ、側面に皮脂や粘着の薄い光りが残る。
「穴の列、同じパターンですね」
「機械で開けるレーザーの“列”だ。銘柄ごとに密度と並びに傾向がある。『拡張葉』を多用した“軽い表示”の銘柄ほど、穴が多い傾向があると言われる。だが人間は“薄ければ吸い方で埋める”。補償喫煙ってやつだ」
「強く、深く、速く……」
「あるいは、穴を塞ぐ。――“軽さの設計”を“重く”使う」
紫郎は小さな透明のリングを 二つ取り出した。
薄く切ったセロテープを、紙巻のフィルター径に合わせて輪にしたものだ。
「テープ塞ぎの“道具”。貼り直した痕の“埃の拾い方”が特徴になる。今日の二本は、片方が“指”、片方が“道具”。道具の方は、埃の付き方が均一で“用意してきた”感じが出ている」
「喫煙所で巻ける精度じゃない、って事ですね」
「そういう事だ」
「指塞ぎの方は、“その場の手”。利き手は……」
「吸い殻の“焦げ線”の傾きと、灰皿に置いた角度から、左の可能性が高い。穴の列が“右側”に二本見えているのは、吸う度に左の指で押さえたからだ」
天田は吸い殻の写真を拡大し、穴の列の片側に薄い皮脂が帯状に残っている のを確かめる。
「穴を塞ぐ と、数値は“跳ねる”。測定法の“強い吸い方”でも、穴は全部塞ぐ。――“軽い表示”の銘柄で重い煙を吸う 為の道具立ては、最初から揃っている」
「……設計の“裏返し”を突いている」
「そうだ」
「甘い匂いは、舌を鈍らせる。穴は、重くする。――“遅い火”と“重い煙”の線が、一本になる」
「そこに“箱”が挟まる」
「はい」
鈴が鳴る。
島倉が顔を出した。
帽子を脱ぎ、肩の埃を軽く払う。
「展示棟の喫煙所、夕方に“掲示物”が一枚増えた。『喫煙マナーのお願い』。穴を塞ぐ写真の上に白い紙が重なって、穴が見えない位置に貼り足されている」
「“写真の穴”を塞いだ」
「そういう 事だな」
島倉は苦笑し、紙袋からもう 一つ小袋を出した。
掲示板の根元から拾ったという透明のテープの輪。
二カ所、白く曇っている。
「指紋は出ないでしょうが、埃の粒径と繊維片は出ると思います」
「十分だ」
紫郎はルーペで輪の縁を覗き、曇りの部分に付いた繊維の色を拾った。
灰色と薄い赤。
赤は口紅ではなく、掲示板の紙の繊維だ。
「天田。喫煙所の“指塞ぎ”と“テープ塞ぎ”、両方とも“左の入れ”を持っている。今日の箱の指示書も“左”。――『左』は集まる」
「“左”が“K”かは、まだ早い」
「そうだ。名は札。手は習慣。置いておけ」
「はい」
天田はノートの端に小さく“左×3”と書き、線で結んだ。
名は書かない。
線だけを置く。
夜に入る手前、北条から短い連絡が入った。
展示棟の保管室で“記録用のUSB”が一本消えた。
棚卸しの朱が“遅くする道具”になっている 間の出来事だ。
「鍵は」
「管理室の保管箱は“異常無し”。――誰かが鍵の“もう 一つ”を持っている」
「“貸出簿の外側”の鍵」
「そうだ」
紫郎は、ガラス戸の内側に指先で薄い“橋”の香りを置いた。
甘くはない、蜂蜜の影のような僅かな層。
触れた指にだけ残る薄さ。
匂いそのものは証拠にならない。
だが、触れた 時間は“今”になる。
「今日の“穴”と“甘さ”は、十分に“在った事実”だ。――消える前に、置いておこう」
「置く 範囲、広めますか」
「扉の手前、一歩。カウンターの角、 一つ。――それでいい」
「了解です」
天田は封筒を丁寧に封し、今日の紙と吸い殻と一緒に耐火の箱へ入れた。
鍵を閉め、番号を 一つ送る。
秤は皿を閉じ、針は零。
鏡は曇らない。
「紫郎さん」
「なんだ」
「機械の“軽い”が、人間の“軽い”とは限らない。――今日、やっと分かりました」
「“穴”は機械の為の穴だ。人間の舌は、穴の向こう側にいる」
「はい」
外で橋脚の風が一度だけ低く鳴った。
看板の紫が路面に伸び、提灯の赤が短く揺れる。
扉の札は“準備中”に返り、鈴が小さく震えた。
「煙は、嘘を吐かない」
紫郎は静かに言った。
その声は大きくない。
けれど、木と硝子と金属の間で、言葉はその長さだけ確かに止まり、店の空気に沈んだ。
夜更け。
ポストに薄い封筒が落ちた。
中の紙は 一枚。
『写真を塞げ。穴は見せるな。――K』。
胡桃油の影は無い。
代わりに、紙の目が“横”に走り、筆圧の軽重に“左の入れ”が出る。
名は無い。
札も無い。
ただ、手だけが在る。
「……見せる物を塞いで、見せない物を通す」
「穴も、写真も、鍵もだ」
紫郎は紙を光に透かし、微かな繊維の毛羽立ちを見る。
今日一日で集めた“左”の線が、薄く、しかし確かに重なり始めている。
焦らず、しかし急いで。
置いた物が、やがて向こう側の“手”を連れて来る 事を知りながら。
「続けよう、天田」
「はい、紫郎さん」
店の空気は乾き寄りのまま、夜を迎え入れた。
紙は机に残り、吸い殻は箱に眠る。
穴の列は黙って並び、テープの輪は埃の粒径で過去を語る。
――明日も、穴と舌の記憶を聞く。
匂いと火の歩幅を聞く。
名を呼ばずに、手を置く。
煙は嘘を吐かない。




