第二十九話 穴と火の歩幅
午前の光が商店街の骨組みを薄くなぞって、常夜紫煙堂のガラス戸に四角い明滅を落とした。
湿度計は五十六%。
瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
昨夜、扉の外で焦げた繊維の匂いは、もう店内には無い。
代わりに、灰皿の脇へ置いた小さな紙袋が、薄く、辛く、甘い影を立ちのぼらせていた。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴って、天田芽衣子が入ってきた。
制服の襟は正しく、靴底はきれいに拭われ、胸ポケットの二本のペンは差し込み向きが揃っている。
目の下の影は薄いが、眠りは浅かったのだろう、まぶたにほんの少しだけ重さが残っていた。
「おはよう、天田」
「昨夜は……間に合いましたね」
「ああ。“遅い火”は店先のマットで止まった。置いた“壁”が効いた」
「現場保存、出来てます」
天田は紙袋をカウンターにそっと置き直し、封を開いた。
中から出てきたのは、細く焦げた布の切れ端、幅一センチに切られた透明なテープの短冊、そして吸い殻が一つ。
吸い殻は、白い口元ぎりぎりで茶色に切り替わる境界がくっきりしている。
フィルターの外側――“巻き足”の紙に、微細な穴が環のように並んでいた。
「……“穴”です」
「ベンチレーション。フィルター通気だ」
「通気……?」
「フィルターの外周に、目に見えにくい細孔を並べて、吸い込む空気を薄める」
「“見せる”……」
「穴は空気を入れる。だが、指で塞げば“入らない”。テープでも、唇でも、強く咥えても同じだ。穴が塞がれば、火の歩幅が変わる」
「昨夜のテープ……この短冊」
「その役目だ」
紫郎はピンセットで吸い殻を持ち上げ、ルーペで境目を覗き込んだ。
白い紙のすぐ手前、フィルター側の外周に、規則正しい微孔の列。
そして、その一部には、粘着の薄い影が残っている。
剥がしたときに置いていった、糊の残り。
「“穴を塞いだ”吸い方」
「『遅い火』に、空気は敵だ。穴を塞げば、火は“濃い”側へ寄る。布の導火線が短い息で歩ける」
「“遅い火”を手伝う吸い方……」
「それと、このニオイだ」
紫郎は紙袋の底に残った微粉を綿棒でかき集め、鼻先へ近づけた。
甘い。
辛い。
薬の影――丁子。
クローブ。
あの、クレテックの前庭の匂い。
主成分はオイゲノール、油性で、木や布へ移りやすい。
「……クローブの油」
「“見せ香”。鼻を甘さで先に疲れさせる」
「匂いの幕、ですね」
「そうだ」
天田はノートに、“穴/テープ/丁子”と三つだけ置いた。
置くだけ。
急がない。
「さて、火の歩幅を“言葉に出来る”形にしておこう」
「実験、ですね」
「ああ」
紫郎は引き出しから二本の紙巻を取り出した。
一方は一般的なフィルター紙巻。
もう一方は、フィルターの外周に微細な穴の列が見える“通気あり”の紙巻。
さらに、活性炭を詰めたフィルターチップを机に置く。
「活性炭の口は、匂いの角を削る。蒸気相の成分の一部を吸着するが、“元の順番”までは消せない」
「“順番”?」
「甘い→辛い→薄い石油。先日の“遅い火”だ」
天田が小さく頷く。
紫郎は耐熱皿を二枚、湿度計のそばの平らな場所へ並べ、一本目――“穴を開けたまま”の紙巻に火を入れ、軽く吸った。
煙は薄く、火の輪はゆっくり移る。
吸い殻の色の境目は曖昧で、フィルターの手前に光の輪が淡く残る。
「二本目。穴にテープ」
紫郎は穴の列を短いテープで覆い、同じように吸った。
煙の圧が変わり、火の輪がぐっと詰まる。
吸い殻の境目はくっきりし、先に“濃い色”が乗る。
「……先日の吸い殻と同じ色です」
「穴を塞いで『遅い火』を手伝う。布の導火線は短く、火は濃く、歩幅は保たれる」
天田は“穴→塞ぐ→濃い色”と矢印で書き、隣へ“導火線”とだけ添えた。
「それと、フィルター」
紫郎は吸い殻の断面を軽く裂き、フィルターの中へ光を当てた。
白い繊維の間に黒い小粒が混じっている。
活性炭だ。
「“炭入”。日本の銘柄では珍しくない。蒸気相の匂いの一部を削ぐ。だから、甘い幕がより強く感じられ、背後の薄い石油の影が遅れて出る」
「“幕”が厚くなる」
「うん」
「――じゃあ、犯人は“通気あり/炭入り”の紙巻を“穴塞ぎ”で使って、“遅い火”を助けた」
「そういう事だ」
秤の針は零、瓶の唇は同じ高さで囁きを続ける。
天田は顔を上げ、きっぱりと言った。
「検証、いけます。テープの粘着剤、昨夜拾った短冊と、弦月のラベルの“糊”を比べる」
「化学的に同一までは要らない。『在った事実』として、“同じ作業台の匂い”が出ればいい」
「匂い……?」
「ラベル用の糊は樹脂の種類で匂いが違う。台紙の紙粉と混じる。さらに、弦月のヤードで使っていた手袋の粉、胡桃油の薄い影。――“台の匂い”になる」
「“台の匂い”……」
「匂いは嘘を吐かない」
天田は微かに笑い、すぐ真顔に戻った。
「課長へ、報告しますか」
「言わなくていい。言うのは、煙だ」
「了解です」
鈴が鳴った。
島倉誠一が帽子を脱いで入って来る。
肩に薄い埃、靴の縁にわずかな砂。
作業着のポケットから、透明の袋を 一つ出した。
「通りのマンホール脇。今朝、これが落ちてた」
袋の中には、紙片。
幅一センチの透明テープ。
指で伸ばした跡。
赤い微粒が二つ、三つ、面に点のように残っている。
「口紅の粉だな」
「昨夜と同じ粒径」
「“女の気配”の為の道具。鏡と布と――口紅。芝居の袖と同じ」
「巡回の警備曰く、夜明け前に黒いワゴン。赤白のステッカー。停まって、すぐ消えた」
「……同じ“黒”」
天田が短く息を吐く。
「通気を塞ぎ、匂いの幕を被せ、導火線を歩かせる。――“段取りの稽古”が身に付いてる手だ」
「習慣の手」
「そうだ」
紫郎はルーペを外し、紙袋を丁寧に閉じた。
「午後、展示棟の“返却箱”の棚にもう一度入る。箱の底木に、昨夜と同じ“甘い影”が増えていれば、“足し香”は続いている」
「杉谷さんには、また無理をさせる事になります」
「“早くする道具”に変えるだけだ。写しを置く。朱は後から来る」
「分かりました」
「それと――」
紫郎は引き出しから、古い見本紙を 一束取り出した。
巻紙の端に微孔が二列、薄く穿たれている。
工場の検査用だ。
「“穴の位置”は銘柄の“字形”みたいなものだ。リングの幅、孔のピッチ、段の数――設計の癖が出る。リストを“置く”」
「リスト……」
「『穴の歌』を紙で覚える。昨夜の吸い殻の穴は、外周一列、ピッチは等間隔。孔径は小。リングの高さはフィルター端から三ミリ。――“候補”が絞れる」
「候補……“炭入り”“通気あり”」
「うん。メーカーは名札。名では追わない」
「『手』で追う」
「そうだ」
鈴が短く震え、ガラス戸が少しだけ開いた。
風が一枚、店の奥を撫でる。
天田が反射的に振り向くと、立っていたのは北条隆司だった。
ネクタイを緩め、書類の筒を脇に抱えている。
「ホールの管理室、目録の“写し”は確保。……それと、搬入口の喫煙所。深夜二時、一本だけ“炭入り”の吸い殻がゴミ網の外に落ちていた。穴のリングは……」
「三ミリ」
「そう。ピッチは均一。テープの糊が薄く残る。“同じ”だ」
「拾ってくれ」
「もう拾ってる」
北条は透明袋を差し出し、視線だけで“誰にも見られていない”合図を送った。
「課長は?」
「巡回。『焦るな』。いつも通りだ」
「いつも通りは、いつも通りだ」
紫郎が静かに言い、三人は短くうなずき合った。
◇
午後。
紫園ホールの展示棟。
裏通路の光は平たく、倉庫口のローラーシャッターが音を吸う。
保管棚の金属は静かに冷たく、番号札の列は寸分違わず並ぶ。
脚高“四”の箱が二つ。
蝶番は左寄せが一。
取手裏の“二センチ”には、薄く、甘い、辛い、薬の影――胡桃油と、丁子。
「先日より“新しい”匂いです」
天田の囁きに、杉谷が眼鏡の奥でうなずいた。
「朝も一度、誰かが入ってる。許可票は『監査部』。けど、入室ログの“時間”が、警備の巡回と一分だけ重なる。――入って、出た」
「“一分”だ」
紫郎は蓋に触れず、薄底の“呼吸しない”角度で箱を滑らせ、底木の端を指で撫でる。
木が覚えた油が、指先に薄く移る。
匂いは“生きて”いた。
「――続いてる」
写真を撮り、ノートに“在った事実”だけ置く。
『底木=丁子油の上書き』『入室ログ=監査1分』『穴の歌=三ミリ/均等ピッチ/炭入り』『喫煙所=同穴同糊』。
「戻す」
「はい」
薄底が“呼吸せず”戻る。
音は短い。
箱は“返却箱”の顔で座り直した。
退室すると、通路の角に眠たげな目が一つ。
緩いネクタイ。
粉を踏まない足。
佐伯浩一が“どこにも寄らず”通り過ぎる。
上目遣いの視線が天田の胸ポケットへ一度、落ちて――すぐ戻る。
「焦るな」
「はい」
言葉だけが通路に置かれ、足音は角で消える。
残らない。
残らない 事自体が、紙の端に“在った事実”として残る。
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
看板の紫が濃くなり、外の風が橋脚で一度砕けてから店に入る。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
鏡の面に三人の肩が薄く揺れる。
「“穴の歌”の候補、三つに絞った」
紫郎は見本紙の束と、今朝の吸い殻の測定値を書いたカードを並べた。
「一つ目。“炭入り/リング三ミリ/均等ピッチ”。二つ目。“炭入り/リング四ミリ/二段”。三つ目。“炭なし/リング三ミリ”。――昨夜と今朝は“一つ目”の歌だ」
「“炭入り”……」
「活性炭は、蒸気相の成分を一部削ぐ。例えば、アルデヒド類やベンゼンなどの“揮発する”側。数字は設計と吸い方でいくらでも揺れるが、“吸着して丸く感じさせる”という方向は変わらない」
「“丸く”して、“甘い幕”を厚く見せる」
「そうだ。で、穴を塞ぐ。――“甘い幕”の後ろに、『遅い火』の影が歩ける」
天田は深くうなずいた。
「次の“一手”は?」
「“穴を塞いだままでは動けない場所”へ、相手を誘導する」
「……喫煙所の“強い送風”」
「そうだ。強い横風は、穴を塞いでも吸い口から“薄い空気”を奪っていく。『遅い火』は歩きにくい。――逆に、“風が止む瞬間”を作れば、歩ける。そこへ“壁”を置く」
「島倉さんに、送風機のメンテ時間を聞きます」
「北条は外の“黒いワゴン”。杉谷は“監査部の一分”の行き先」
「了解」
短い段取りが、木と金属と硝子の間に素直に沈む。
「紫郎さん」
「なんだ」
「……“穴”でここまで分かるんですね」
「設計は、習慣の字形だ。穴の位置、ピッチ、段。炭のある/なし。――“字形”が、手の癖と同じ線で、道具に残る」
「“名札”じゃなく、“字形”」
「名は札だ。扉を開ける為の。――煙は、嘘を吐かない」
紫郎は灰皿を中央に寄せ、軽く息を整えた。
瓶の唇は同じ高さで囁く。
湿度計は五十六%。
外で橋脚の風が一度低く鳴り、看板の紫が歩道に薄く伸びる。
「行こうか、天田」
「はい、紫郎さん」
札を“準備中”に返し、鈴が短く震えた。
夜の手前。
穴の歌は耳に残り、“遅い火”の歩幅は地面の影でまた細く伸びた。
次の一分。
相手が“穴を塞げない場所”で、匂いの壁がもう一度立ち上がる。




