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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第二十八話 甘い幕の向こう

 夕刻の光は天窓で細く裂け、常夜紫煙堂のガラス戸を斜めに洗った。

 瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 壁際の湿度計は五十六%。

 今夜も“乾き寄り”の素直さを保ち、木の匂いが浅く響いていた。


 カウンターには薄い缶が二つ。

 白いラベルには〈在った事実〉と手書きされ、蓋の裏にごく薄い“橋”の香りが仕込まれている。

 丁子油は一滴にも満たない、指先で測れる厚さ。

 ナフサは瓶口を綿で塞ぎ、気配だけを残した。


「準備はいいか、天田」


「はい。倉庫側の裏口、島倉さんが見ています。北条さんは通りの曲がり角。杉谷さんは協会の保管室で“返却箱”の目録を写し続けてくれるそうです」


「“遅い火”は動く側にも“遅い心”をつくる。焦れさせてから入って来る」


「……怖いですね。でも、やります」


「怖さは残せ。残したまま、置け」


 紫郎はガラス戸の内側とカウンターの角に“橋”の香りを薄く置き、灰皿を 一つ中央へ引いた。

 鏡は曇らず、看板の紫が表の風でわずかに揺れる。

 扉の札は“準備中”。

 店の奥の照明だけを落とし、音を瓶の唇にまで絞った。


 時刻は二十一時を少し回る。

 商店街の足音はまばらになり、遠い川の鉄の匂いが息の底で揺れる。

 ネオンの赤がアスファルトの凹凸に浅く引っかかり、鈴は鳴らないまま金具だけが微かに擦れ合った。


「来る」


 紫郎の声は小さいが、確かだった。


 ガラス戸の外に影が 一つ。

 フードを目深に被り、顔はネオンの縁で切れている。

 手は綺麗に乾いて、軍手の上に薄い手袋。

 腕時計は右。

 肩を入れず、扉の縁を“目で撫でる”癖。

 見慣れた歩幅だ。


 鈴が鳴らないぎりぎりの角度でガラス戸がわずかに動き、内と外の空気が短く触れた。

 触れた所で“橋”の香りが細く立ち、鏡の面に曇りが 一つ、拇印ほどの輪を咲かせて消える。

 甘い。

 辛い。

 その底にかすかな石油。

 ――丁子の幕の向こうで、ナフサが待っている匂いだ。


「いらっしゃい」


 紫郎が一歩だけ前に出た。

 影は驚かない。

 カウンターへ寄り、視線は棚の下段、銀色のケースの辺りをかすめた。

 前回“出張箱”が置かれていた場所。

 今は何もない。

 けれど“探した手の癖”は身体が覚えている。


「紙巻の巻紙、ありますか」


「一般のものなら。幅は?」


「……スリム」


「なら奥だ」


 紫郎は背を見せず、掌だけで示す。

 影は動かない。

 動かない 時の目は、音を探す。

 鈴は鳴らない。

 瓶は黙る。

 秤は零のまま。

 沈黙の中で、影はポケットから小さな物を取り出した。

 マッチ箱ほどの布包み。

 包みの角は胡桃油で柔らかく、糸の結び目は左手の“入れ”。

 布の端に白い粉が薄く、紙粉とも灰とも違う粒径で光った。


「それは」


「お守りです」


「なら、棚の上には置かない方がいい」


 紫郎の声は平らだ。

 影の肩がわずかに強ばり、次の瞬間には掌の布包みがカウンターの縁に触れていた。

 触れた所で香りの“壁”が薄く震え、丁子の甘さを一枚めくる。

 下から、遅い石油の影が顔を出す。


 天田は息を止め、距離を詰めずに“見る”。

 包みの結び、糸の撚り、布の厚み。

 ――ステージ用の“ウィック”に似た張り。

 だが、この張りは工業製品の均一さではない。

 手で撚った癖がある。

 四つに裂いた紙繊維の“戻り”が混ざり、左右の太さが違って見える。


「天田」


「はい」


「火気類は」


「消しています」


 紫郎は頷き、包みの位置を指先でわずかにズラした。

 鏡の面が角度を変え、影の手が映る。

 薄い手袋越しに、爪の縁に白い塗料。

 舞台で使うマスキングの白。

 袖で“香盤表箱”を浮かせた手の白だ。


「巻紙の幅は」


「……やっぱりレギュラーで」


「スリムはどうした」


「気が変わりました」


「気が変わるのは自由だ。だが、手の幅は簡単には変わらない」


 紫郎は巻紙の箱を差し出さず、引き出しに指を入れた。

 指は箱に触れず、引き出しの側板を軽く叩く。

 音が木の心臓を一度鳴らし、店の空気に短く跳ね返った。

 レギュラーとスリムはどの銘柄でも並ぶ“幅の言葉”で、紙の選びは手の癖が出る。


「外」


 北条の短い声が無線に落ちた。

 通りの角、黒いバンがエンジンをかけずに停まっている。

 赤白のステッカーは無し。

 運転席は 一人。

 電話の光だけが薄く揺れ、その揺れは“三分”の長さで止まり、“一分”の短さで動く。


「包みを置いていけ」


 紫郎の言葉は命令になっていない。

 だが、影の手はわずかに遅れ、布の角を押さえる指が硬くなる。


「……それ、商品に触れる事が出来ない」


「お守りですから」


「お守りは燃やさない」


「燃やしません」


「なら、置いていけ」


 沈黙が 一つ、店の空気に深く沈んだ。

 天田は背筋の強ばりを押し殺し、島倉からの短い連絡を待つ。

 裏口、異常なし。

 消火栓の鍵、欠番あり。

 ――展示棟で無くなった鍵と同じ型。


「天田、缶を」


「はい」


 彼女は“在った事実”の白ラベルの缶を開け、綿棒を 一つ指先に挟んだ。

 “橋”の香りは無色のまま、包みの布の縁にそっと触れる。

 触れた瞬間、甘い幕がわずかに濃くなり、下の影が揺れた。

 丁子の主成分はオイゲノールで、歯科でも香味油として使われる“強い匂いの言葉”だ。

 クレテックの火が小さく弾けるのも、同じ香の系統が葉に混じるからだ。


「丁子で帳尻を合わせる匂いです」


「帳尻は『人間の側』の都合だ」


「何の話ですか」


 影の声には若さが混じっている。

 低く作ってはいるが、母音の伸びが短い。

 舞台袖の“角”だけを押さえる癖の女ではない。

 展示の箱を“浮かせる”男の歩幅でもない。

 ――“手”は同じ“左”。

 だが、拍は違う。


「君は『置く』側か、『運ぶ』側か」


「客です」


「客は、包みで店に入らない」


「これはお守りです」


「匂いは、そう言っていない」


 影の肩がわずかに揺れ、布包みがカウンターから離れた。

 離れた瞬間、鏡の面の曇りが浅く広がり、天田の目が動く。

 鏡に映った掌の中心、薄い切り傷。

 紙繊維で擦った傷だ。

 パイプクリーナーを強く引いた跡に似ている。


「外、バンが動いた。二十メートル前進、停止。電話継続」


 北条の声。

 間を読んでいる。

 店内の空気に混ざるのは、丁子の甘さと木の乾きと、遅い石油の影。

 火は無い。

 だが、“火の準備”の秩序が、包みの中で整列している。


「君、名前は」


「……三谷」


「偽名だ」


「どうして」


「『三』の字は、指が“右から入る”。だが君の指は“左で入る”。筆圧の偏りが違う」


「……」


「レギュラー幅の巻紙でいいのなら、棚の上段。支払いは現金だ」


「……」


「包みは置いていけ」


「お守りです」


「“遅い火”はお守りにならない」


 影は包みをポケットへ戻そうとし、わずかに手を止めた。

 その止まりは、袖で箱を“浮かせる”前の止まりと似ている。

 視線が扉の鈴へ滑り、鈴は鳴らず、金具だけが短く擦れた。


 その時、裏の電源盤が“一瞬だけ”沈んだ。

 島倉の咄嗟の切替。

 通りのネオンがわずかに暗くなり、影の目がそちらへ吸われる。

 吸われた拍の薄闇に、紫郎は指先をわずかに動かした。


 鏡の角度が変わる。

 映るのは包みの布の“縫い”。

 糸の色は白。

 二目飛ばし。

 ――展示棟の返却箱の“薄底”を止めていた、真鍮のビスの頭に付いていた白い繊維と同じ撚りの向き。


「天田」


「はい」


「包みを“置かせる”」


「……分かりました」


 彼女は胸ポケットの手帳を出し、表紙を開いた。

 そこには昨夜写した〈加工指示〉のコピーが挟んである。

 『BVT乾/OR微/LO混合/水分値九→六』『帳尻:鳳章』『北回り』『箱経由』。

 右下には小さく『K-12/31』。

 そして、角に薄く付けた“橋”の香りが、紙の上で甘く息をする。


「この紙、今日、協会に置いてきました。保管室の“返却箱”に。――“返すべき物”として」


「……」


「中身は空白紙。封はそのまま。『箱』の座りもそのまま。――つまり、あなた達は『何も返せていない』」


「……」


「返せていない のに、次の“運び”がある。帳尻を合わせる為に、どこかで“火”が要る」


「お巡りさん、脅すんですか」


「脅しじゃない。“在った事実”です」


「……」


「包みを置いていって下さい。あなたが“燃やした”と誰も言いません。言うのは匂いだけです」


 影の視線が紙へ落ち、落ちた視線が“K”の文字で止まる。

 止まった拍で、扉の外のバンがヘッドライトを 一度だけ点け、すぐ消した。

 合図。

 三分の長さではない。

 短い“一分”の点滅。


 紫郎は指先で缶の蓋を閉じ、秤の皿を軽く押さえた。

 黄銅が一度だけ薄く鳴り、店の空気の底が揺れる。

 天田の靴底が床の木目を踏み、鏡の曇りが消え、ネオンの赤が浅く戻ってくる。


「置いていけ」


「……」


「君の『今』は、ここに置ける」


「……」


 影は布包みをカウンターの端に置いた。

 置く時の指は震えていない。

 震えていない、という 事自体が“急いでいる”。

 手の癖は“左”。

 だが、命じているのは“右”の声だ。


「代金は」


「いらない」


「商品も」


「いらない」


「……そうですか」


 影は軽く頭を下げ、背を向けた。

 鈴は鳴らない。

 足音は細く、風は戻る。

 扉の外のバンがゆっくりと動き、角で消えた。

 北条の無線は短い。

 “追わないでいい”。

 島倉は“裏の鍵”をポケットで確かめ、杉谷は“写し”を封筒に入れた。


 しばらく、誰も喋らなかった。

 丁子の甘さはまだ残り、遅い石油の影は薄く引いていく。

 紫郎は布包みをピンセットで掴み、灰皿の隣に置いた。

 結び目は左の“入れ”。

 布の縁は胡桃油。

 中身は――見ない。


「開けますか」


「開けない」


「証拠に……」


「証拠は“置いた”事だ。――『今、ここに置かれた』。それで十分に“匂い”は喋る」


「……はい」


 天田は手帳を閉じ、胸に当てた。

 紙の角が制服の布を押し、形を少し変える。

鏡は曇らず、秤の針は零。

 瓶の唇は同じ高さで囁いている。


「北条」


「応」


「『黒いバン』の停車位置、今日の二度の停止と昨日までのパターンを重ねてくれ。三分の枠と“一分”の点滅、どちらに“人”が合わせてるかを見る」


「やる」


「島倉」


「応」


「裏の電源盤、今日の“一瞬の沈み”のログをコピー。――『外の光』が揺れた瞬間に、手が止まった」


「了解」


「杉谷」


「こちら」


「“返却箱”の目録、脚高“四”の箱だけを時系列に。『札』の変化と“座り”の変化、合わせてくれ」


「やります」


 短い段取りの言葉が、店の空気に素直に沈む。

 皆の歩幅が揃い、遅すぎず、早すぎない“今”の速度に寄ってゆく。

 黒いワゴンの内張りに貼られた活性炭の“口”は、煙の刺激をいくらか削るが、匂いの順番までは変えられない。


「紫郎さん」


「なんだ」


「……今夜、もし火が来ていたら、どうしていましたか」


「来ていたら、ここで“煙”に聞く」


「煙に」


「ああ。匂いは嘘を吐かない。甘い幕の向こうに何があるか、煙は順番で教える」


「順番」


「甘い→辛い→薄い石油。……君の鼻は、もう覚えた」


「はい」


 天田は初めて、少し笑った。

 笑いは短く、芯は強い。

 怖さはまだ残っている。

 残っていていい。

 残したまま、置けばいい。


「よし、片付けよう」


「はい」


 二人は布包みを証拠袋に入れ、缶の蓋を閉め、ガラス戸の内側の“橋”を拭き取った。

 瓶の唇は黙り、鏡は曇らない。

 看板の紫が夜で濃さを増し、商店街の影は長くなる。


「天田」


「はい」


「煙は、嘘を吐かない」


「……はい」


 言葉は大きくない。

 けれど、木と金属と硝子の間で、その長さだけ確かに止まった。

 遠い橋脚の風が一度だけ低く鳴り、鈴は鳴らず、金具が小さく触れ合う。

 『置かれた包み』は静かに息を潜め、夜はゆっくりと、次の“外”へと伸びていった。


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