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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第二十七話 灰の癖

 夜の冷えは一段下がって、常夜紫煙堂のガラス戸に薄い皮膜を作っていた。

 外の川風は、橋脚を擦る低い音だけを置いて通り過ぎる。

 棚の硝子瓶は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 湿度計は五十六%。

 今夜も店の空気は“乾き寄りの素直さ”を保っている。


 カウンターの中央には、丸い金皿が 一つ。

 皿の上には、紙巻の吸い殻が二本と、手巻き用の細いフィルターが一本。

 それから、透明なセロファンの小片。

 セロファンには鉛筆の芯ほどの幅で、茶色いヤニが帯状に残っていた。


「来客は、一人」


「入らずに、覗いて、戻った」


 夜村紫郎は、吸い殻の一本をピンセットで持ち上げた。

 フィルターに印刷された点々――ベントホール(通気穴)は、半分ほどセロファンで塞がれている。

 紙巻の外装ティッピングペーパーには、廉価な銘柄に多い単純なドットの地紋。

 火皿側の紙には、火の走りが不規則に“段”を作っていた。


「ベントホールを塞いで、強く吸ってる」


「口のヤニは“帯”になる」


「喉の奥まで、重く入れたい人間の吸い方だ」


「塞ぐ 為に、セロファンを使ったんですね」


 天田芽衣子が言って、もう一本の吸い殻に手袋越しの指で触れる。

 こちらは手巻き(シャグ)だ。

 フィルターは細く、直径六ミリ。

 工場紙巻の八ミリより細身で、噛み跡は無い。

 巻きは固すぎず、指の圧の癖が軽い左寄りに出ている。


「手巻きの“詰め”は均一」


「慣れてる」


「銘柄は 分からないですか」


「紙の灰で、少し」


「見ろ」


 紫郎は灰皿の縁で、二本の灰を並べた。

 一方は、灰の縁が花弁みたいに欠ける“花灰”。

 もう一方は、灰が縦に薄く割れて層を作る“板灰”。

 同じ火でも、紙と葉の違いで崩れ方が変わる。


「花が出るのは、“吸気が乱れる” 時に起きやすい」


「ベントを塞いでドロー(吸い込み)を重くした工場紙巻は、風が強くて火が花を咲かせる」


「板みたいに割れてる方は、紙の目が硬い“手巻き紙”の癖だ」


「薄いのに丈夫な紙で巻くと、こうなる」


「銘柄は断言できないけど、“やってる事”は見える」


「そういう 事だ」


 吸い殻のフィルターの端には、赤い粉がわずかに残っていた。

 百円ショップの口紅にある乾いた粉粒。

 銀のケースの縁に残ったものと似た粒径。

 天田は綿棒でそっと取って、袋に入れた。


「……外に、いましたよ」


「黒いフード」


「覗いて、鈴を鳴らさずに戻った」


「“壁”に触れた」


「今夜の“遅い火”は、ここまでだ」


 紫郎は、ガラス戸の内側に薄く引いた“匂いの壁”――No.18の試作ブレンドを置いた線――を指先で確かめ、瓶の蓋を閉じた。

 甘さは薄く、香りは“手”の高さにしか残らない。

 触れた者だけが、触れた時間を残す。


「北条は外周を回ってる」


「島倉は角」


「杉谷は倉庫の目録を“早くする道具”に変えた」


「俺達は『来て、やめた』を拾う」


「はい」


 短い返事のあとで、鈴がひと鳴りした。

 入って来たのは、眠たげな目の男――佐伯浩一課長だった。

 ネクタイは緩い。

 粉は踏まない。

 白線を避ける歩幅は舞台の袖を知っている足だ。


「夜村さん」


「課長」


「若いのが無理してないか見に来ただけだ」


「焦るなよ」


「はい」


 天田は短く答えて、手帳を胸に戻した。

 佐伯は店内を一度見回し、灰皿の金皿に目を落としてから、何も言わずに踵を返した。

 粉を踏まない足は、扉を静かに閉め、夜気をわずかに揺らすだけで消えた。


「……『焦るな』、です」


「言葉は柔らかい」


「だが、今夜は“入らずに戻る足”が三つも重なった」


「黒フード、課長、そして――」


「もう 一人。裏に」


 裏口の低い扉が、わずかに鳴った。

 島倉が帽子を脱いで入って来る。

 肩に薄い埃。

 靴に緩い砂。

 商店街の裏通りの匂いを連れて。


「裏手の消火栓のキャップ、ねじの向きが変わってた」


「さっき触った手がある」


「誰だ」


「黒の作業着、マスク、手袋薄手」


「“左”から回してる」


「戻す 時に力の入り方が偏ってた」


「“左の入れ”の癖」


「それと、地面に擦った跡」


「麻紐」


「細い」


「オイルが少し」


「遅い火の“道”だ」


 紫郎はすぐに扉の内側の消火バケツを見やり、床を撫でる。

 コンクリの細い溝に、淡い光沢が残っていた。

 ナフサの“軽い”影。

 すでに蒸発しつつある。

 火は来ない。

 壁で止まった。

 だが、“来ようとした事実”は残る。


「跡を拾う。天田、紐の繊維を」


「はい」


 天田は養生テープを軽く貼って繊維を拾い、袋に収めた。

 繊維には細かな木粉が付いている。

 展示棟の堅木箱に触れた手の癖と、同じ粉の粒度。

 銘柄は無い。

 だが、手は“同じ”だ。


「……ところで、吸い殻の一本」


「ベントホールが外側の指の跡で“潰れてる”」


「セロファンの貼り直しじゃない」


「貼ったセロファンを、さらに指で押し込んだ」


「『穴を消す 為の穴』だ」


「“急いで強く吸う”時に、やりがちです」


「『三分』『一分』のそばに居る手だ」


「時間が短い」


「重く入れて、すぐ捨てる」


 紫郎は、手巻きの方の吸い殻に顔を寄せた。

 紙の縁に薄い焼けが“のこぎり”のように連なる。

 紙の製法の違いが出る。

 手巻き紙は薄いが強く、燃焼剤の配合が工場紙巻とは違う。

 燃え方が“直線”で、灰が板になる。


「シャグは“明るい葉”が多い」


「バージニア(明るく甘い)寄りの軽さ」


「でも、香りの底に“香油”がある」


「丁子油」


「ああ」


「匂いの帳尻」


 天田は頷き、記録用のメモに短く“丁子/帳尻”と置いた。

 置くだけ。

 名は書かない。

 名は扉を開ける 為の札だから。


 そこへ、もう一人の影が差した。

 鳳章インテリアの幹部――梶谷礼司だ。

 仕立ての良いコートの肩には、見えない粉すら乗っていない。

 指先は乾いている。

 客の顔だ。


「夜もやってるとは、助かるね……プレゼント用に、葉巻の相談を」


「どうぞ」


 紫郎は、ラッピング用の箱をあえて出さず、まず湿度計の数字を目線で示した。

 五十六%。

 葉巻シガーなら七十前後が理想だが、今ここで売るのは葉巻ではない。

 梶谷は一瞬だけ数字を目で追い、すぐに笑みに戻した。


「いや、葉巻はまた今度で」


「手土産に“日本の紙巻”をね」


「海外の客が、軽いのを好む」


「軽い、ですか」


「ライトとか、ウルトラとか」


「最近は“活性炭フィルター”のものも増えたろう」


「角が取れて、匂いが薄まる」


「角は取れる」


「順番は、取れない」


「順番?」


「甘さが先、辛さが後、油が底に」


「どれほど角を削っても、“歩き方”はそのままだ」


 梶谷は、笑みだけを保って、棚のティッピングペーパーを眺めた。

 彼の視線は“ベントホール”の列に一瞬だけ止まり、すぐ離れる。

 知っている目の動きだ。

 塞げば、重くなる。

 重くなれば、収率が上がる。

 機械測定(ISO)と実際の吸い方の“差”。

 紙の上の数字と人間の肺の数字のズレ。


「では、こちらを三カートン」


「領収書は会社で」


「承った」


 紫郎は手早く箱を包み、領収書に“鳳章インテリア”の名を入れた。

 名は札だ。

 扉を開ける 為の札。

 梶谷は受け取り、笑みのまま踵を返した。

 粉は踏まない。

 靴底は柔らかい。

 表の風に、匂いを一切残さない歩き方。


「……来ましたね」


「“ここへ来る”という 事実だけで、十分だ」


「課長も、梶谷さんも、黒フードも」


「同じ夜に、入らずに戻った」


「入らずに戻る 夜は、“置いた物”が効いている 夜だ」


 紫郎は金皿の吸い殻を袋に移し、セロファン片を別袋に入れた。

 セロファンは安い包装から切ったのだろう。

 指の脂が薄く残り、粉は付いていない。

 丁子の甘さは、ここには無い。

 ここで貼ったのではない。

 持って来たのだ。


「天田、外の消火栓の“回し”の向きを写真に」


「それと、裏の電源盤の鍵」


「はい」


 店の奥でシャッターの影を確かめ、天田は戻って来た。

 手帳の角は真っ直ぐ、筆圧は一定。

 顔は疲れていない。

 目は少しだけ光る。


「……これ、見てください」


 天田が差し出したのは、灰の拡大写真だった。

 手巻きの板灰の断面に、細い筋が斜めに走っている。

 灰の“年輪”。

 葉脈が燃えて残る筋だ。

 画像を二枚並べる と、筋の角度が同じ。

 角度は、巻紙の“目”と関係する。

 目の向きは、巻く手の癖で変わる。

 左の手で引く人間は、紙を少し斜めに持つ。


「角度が、舞台袖で拾った手巻きの“板灰”と一致します」


「“場所が変わっても、角度は変わらない”」


「手の習慣だ」


「『K』の手は、“左”」


「ベントを塞ぐ 時も、“左”」


「消火栓を回す 時も、“左”」


「“左”は名じゃない」


「“手”だ」


 紫郎は、灰皿の縁に指を置き、軽く叩いた。

 金属が低く鳴る。

 店の空気は揺れない。

 瓶の唇は同じ高さで囁く。


「さて、次は“倉庫から外に出る瞬間”だ」


「展示棟の返却箱が“外”へ」


「ああ」


「その前に、今日は“咥え跡”を見ておく」


「咥え跡?」


「フィルターの端」


「歯が当たる癖だ」


「“噛む”人間は、火の歩幅が速くなる」


「重く入る為に噛んで、唇が乾く」


「そこに粉が付く」


 天田は拡大鏡を取り、フィルター端の紙を見た。

 微細な波。

 歯ではない。

 唇の押し跡。

 粉が残るのは、唇の乾きのせい。

 油分が少ない。

 作業で粉が付いた指が、口元に触れて、乾く。

 舞台袖の朝比奈は、角を押さえる癖で手袋の上に薄手を重ねる。

 粉は付かない。

 ――なら、これは別の“左”。


「……三谷」


「名は置こう」


「だが、“手”は近い」


 鈴が短く鳴って、島倉が再び顔を出した。

 帽子の縁に夜露。

 肩の埃は消えている。


「裏の監視カメラ」


「北条が一枚拾った」


「黒いバンの運転席」


「顔は映らないけど、吸ってた」


「窓の縁に、セロファンの反射」


「セロファンは“持ち歩いている”」


「それと、道路のポールに擦った跡」


「麻紐」


「さっきの繊維と同じ」


「“道”を作っている」


「壁に触れて止まった」


「止められたから、次は“早くする”だろうな」


「そうだ」


「『一分』から『一息』へ」


「ここから先は、“置く”の速度をほんの少しだけ上げる」


 紫郎は、No.18の試作を少しだけ別瓶に移し、綿棒に含ませた。

 これを、扉の取手裏、二センチの空間にもう一度薄く置く。

 触れた者だけが、触れた“今”を残す。


「紫郎さん」


「なんだ」


「……怖くないですか」


「怖いさ」


「だが、匂いは裏切らない」


 短い会話の切れ目で、ポストが小さく鳴った。

 薄い封筒。

 封は無い。

 紙は一枚。

 『火は空気で歩く。――K』。

 胡桃油の影は薄い。

 布を巻く“左”。

 丁子の匂いは、今日は無い。

 見せる 為の匂いは、今夜は省かれている。


「“早くする”」


「換気に寄せる」


「排気で火を引く」


「展示棟の換気扇、昨日は内側から拭いた跡がありました」


「『中から拭くのは、匂いを残したくないから』」


「こっちも同じだ」


 紫郎は、裏口の換気口の格子に目をやった。

 金属の縁に、布の“縁”の痕が薄く残る。

 拭いて、触った。

 触って、戻した。

 触った“手”は、左。

 格子のネジの頭に、左から入れて右へ抜く力の跡。


「……天田。換気口の“外”に、匂いの壁を置く」


「外に?」


「内に置いた香りは、もう“知ってる”」


「外で触れさせる」


「触れた『今』が、外に残る」


「分かりました」


 天田は脚立を持って来て、静かに窓を外し、格子の外側に綿棒で薄く“橋”を置いた。

 目に見えない。

 だが、触れた指が“今”になる厚み。


「島倉、裏の電源盤と消火栓、もう一度」


「了解」


「北条には、“黒いバン”を」


「杉谷へは、明日の倉庫の鍵の段取りを“早く”頼む」


 手は散り、音は少ない。

 店の空気は、乾き寄りのまま強さを増す。


「……紫郎さん」


「うん」


「さっき、梶谷さん、ベントの“穴”を一瞬見てました」


「見て、何も言わない」


「“知ってる”人間の目だ」


「でも、名は置く」


「名は置く。手を並べる」


「“左”“ベント塞ぎ”“セロファン持ち歩き”“紐”“油”“拭き”」


「習慣は嘘を吐かない」


 天田はノートに“左/塞ぎ/セロファン/紐/油/拭き”とだけ、均等な間隔で置いた。

 どの言葉にも“=名”は付けない。

 紙の上で、ただ“在った事実”の列になる。


「閉めよう」


「はい」


 紫郎は、灰皿をカウンターの中央に置き、秤に指を触れた。

 黄銅の縁が 一つ鳴って、止まる。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、湿度計は五十六%のまま揺れない。

 鏡の面は曇らず、看板の紫が夜の深さで濃くなる。


「煙は、嘘を吐かない」


 言葉は大きくない。

 けれど、木と金属と硝子の間で、その長さだけ確かに止まった。

 外で橋脚の風が一度だけ低く鳴り、通りの光が細く揺れる。

 ――“左の手”の習慣は、今夜もここに触れた。

 匂いの壁は、触れた“今”を残し、紙の上の列は、名を呼ばずに伸びていく。


 鈴は鳴らない。

 だが、次に鳴る 時の為に、扉の内と外に、同じ高さの“橋”が置かれたままだった。


ーーー


 翌朝。

 アーケードの天窓から、四角の光が落ちる。

 昨夜置いた“橋”の一部は、外の格子で薄く剥がれ、指の腹の跡を残している。

 天田はそれを綿棒で拾い、袋に入れた。

 胡桃油の甘い影は無く、丁子の香りも無い。

 純粋に指の脂と、金属の“鉄の乾き”。

 外の“触れ”は急いでいた。

 匂いを重ねる余裕が無い“早い”手。


「外に触って、引いた」


「“早くする”って、こういう 事ですね」


「焦りの匂いだ……課長は、今日は?『若いの、無理するなよ』か?」


「かも知れないですね」


 紫郎は薄く笑って、瓶の蓋を順に撫でた。

 どの瓶も、同じ高さで囁く。

 秤は皿を閉じ、針は零。


「天田」


「――次は“外”で並べる」


「並べる?」


「倉庫と展示と港、そして店」


「残った“左”を一枚に」


「はい」


 天田はノートを閉じ、胸に当てた。

 角は真っ直ぐ、拍は揃っている。

 外の光は強く、店の紫は静かに濃い。

 煙は、嘘を吐かない。

 今朝も、そうだ。


ーーー


 午前の終わりに、杉谷から連絡が入った。

 倉庫の鍵、監査部の“朱”を越えて、一時的な閲覧許可。

 午後、返却箱が外へ出る。

 黒いバンは、また来る。

 紐は短くなる。

 火は早くなる。

 ――だが、習慣は変わらない。

 左は、左のまま。


 紫郎は、ラベルの角を指で整え、静かに頷いた。


「行こうか」


「はい、紫郎さん」


 ガラス戸の鈴が、昼の光で一度だけ澄んだ音を鳴らした。

 二人は同じ歩幅で、外へ出た。

 紙の上の“在った事実”は、名を呼ばずに並び、匂いの壁は、触れた“今”だけを静かに増やしていった。

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