第二十六話 灰の中の手
天窓を抜けた朝の光が細く裂け、常夜紫煙堂の硝子戸に長い矩形を這わせた。
瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
湿度計は五十六%。
昨夜から変わらない“乾き寄りの素直さ”が、木と紙と硝子の音を同じ高さで揃えている。
カウンターには二つの缶と、一冊の黒いノート。
缶の白いラベルには小さく「遅い火/試料」と走り書き。
ノートの角は少し潰れ、指の脂で光沢が出ている。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が短く鳴り、天田芽衣子が入ってきた。
襟は正しく、胸ポケットの二本のボールペンは差し込みの向きまで揃っている。
靴底の埃は少ない。
昨夜の“外”は完全に拭い落とした。
「おはよう、天田」
「科捜研から一次報告。床材の拭き取りで、ナフサ由来の炭化水素痕と、オイゲノールのピーク。……“遅い火”の配合に近いそうです」
「良い『在った事実』だ」
「『甘い幕』の正体は丁子の主成分、オイゲノール。『灯りの尾』は軽質ナフサ。二つで“鼻を疲れさせる順番”が出来る」
「はい」
「昨夜の缶を開ける」
紫郎は白ラベルの缶を 一つ開け、ピンセットで黒ずんだ吸水紙を持ち上げた。
紙は端から浅く炭化し、甘い辛い薬の影の後ろに、薄く揮発の鋭さをまだ抱えている。
「“甘い→辛い→薄い石油→残る”。……匂いの順番は“習慣”だ。手が繰り返した足取りの順番」
「『習慣の手』、ですね」
「そうだ」
瓶の唇が 一つ囁き、店の空気の底が小さく揺れた。
五十六%の乾きは、匂いの層を薄く保ちながら、歩幅だけを確かに見せる。
「――今日は、箱の“外”を押さえる」
「倉庫から“外”へ出る瞬間、ですね」
「『返却箱』は札を替えて顔を変える。だが、脚高“四”、取手裏の二センチ、蝶番左寄せの混入――箱そのものの“癖”は変わらない」
「弦月サービスのヤードで、午前の便が一本。鳳章インテリア宛の『回収・返却』。……杉谷さんからの連絡です」
「北条は外周、島倉は搬出ライン、杉谷は目録。――俺達は“口”を押さえる」
「了解です」
天田の指がノートの角を軽く撫で、紙の上に四本の短い線が置かれた。
線は途中で止まり、横に『脚高“四”/二センチ/左寄せ/丁子』とだけ小さく並ぶ。
名は書かない。
名は札。
手は習慣。
――置く。
「行こうか」
「はい、紫郎さん」
ーーー
港外れの簡易ヤードは、朝の潮に紙と木の匂いを混ぜていた。
プレハブの庇の下、堅木の箱が二つ、金属台車の上で静かに座っている。
ラベルは『回収便』。
脚高“四”。
取手裏の二センチ。
蝶番は一方にだけ左寄せ。
――“道具の顔”は変わらない。
「入館票、通した。外周カメラは角度良し」
北条隆司が短く告げ、二歩引いて人の流れを飲み込んだ。
島倉誠一は作業着の台車を押しながら、さり気なく床材の“遊び”を試す。
杉谷は目録の写しを抱え、管理室で朱が増える前に“早くする道具”に変えている。
「『三谷』、入ってきます」
杉谷が眼鏡を押し上げ、顎で示す。
黒の作業着、左の入れ、踵の返しに無駄がない。
男は台車の手前で止まり、蓋には触れず、蝶番の隙間の“抜け”を指先で確かめ――『浮かす』。
薄底が一度だけ呼吸する。
取手裏の二センチに左の指が滑り、黒い封筒が 一つ、箱の影に吸い込まれる。
『戻す』。
座らせる。
三十秒もない。
追わない。
置く。
天田は手袋の下の薄い手袋越しに取手裏の“橋”をそっと撫で、香りの生死だけを確かめた。
甘い辛い薬の影――昨夜より“新しい”。
足し香。
箱の顔は“回収便”のまま、台車の上で目を閉じている。
「運転、黒のワゴン。停車ライン、昨日と同じ。……ステッカー無し」
北条の声が無線に落ちた。
「『止め』の癖、昨日と変わらず。左の指の幅。喫煙所は離れているが、手は“持たない左”」
「了解」
島倉が台車を押してわざと軽い段差に乗せ、箱の脚を一度だけ揺らした。
脚高“四”が“座り直す”。
薄底は呼吸しない。
――“戻した”後の箱の音だ。
「……ここから“外”です」
ヤードのゲートで、男が軽く手を挙げた。
台車が斜面を降り、黒いワゴンの後部扉が内側から開く。
扉の金具に薄い赤の粒――口紅か、粉末の残り。
扉の内張りには、活性炭フィルターの端材が二つ、ステープラーの針で留められている。
匂いの角を削る為の“口”。
丸める為の“口”。
けれど、順番は隠せない。
「撮れた」
天田が小さく囁き、胸の内側で深く息を整えた。
その呼吸は長すぎず、短すぎず、箱の薄底の“呼吸しない音”と同じ長さで止まる。
「――回収は“外”に出た。次は『どこへ置くか』だ」
「鳳章の倉庫か、協会の長期保管か、あるいは……」
「“名で扉を開ける 所”。札で通れる 所」
「名=札。
手=習慣」
「そうだ」
黒いワゴンが低く唸りを残して動き出す。
港外れを左へ、倉庫群の薄い影の間を縫う。
北条は距離を取り、島倉は工事車両で流れに“偶然”を作る。
杉谷は管理室で目録の写しの“二重帳尻”を避ける様に、紙の順番を静かに置き換える。
「天田」
「はい」
「行き先を“匂いで”絞る。“遅い火”は空気を欲しがる。――密閉より『呼吸できる箱』へ」
「『木の箱』のまま動かす……」
「紙は覚えすぎる。木は顔を保ったまま、匂いの層だけを薄く抱える」
「『倉庫の中の倉庫』、でしょうか」
「“札で開く扉”の、さらに奥」
「了解です」
風が一度だけ海の方へ抜け、ヤードの庇が軽く鳴った。
甘い辛い薬の影は風に薄まり、残るのは金属と塩の匂いだけだ。
ーーー
昼過ぎ。
鳳章インテリアの中央倉庫。
正面玄関はガラスの光が強く、裏口はコンクリートの陰が深い。
搬入リストは“指示:K-12/31”の朱が重なり、紙の上で矢印が踊っている。
「『回収便』、裏で“仮置き”。二十分後に『別室』」
杉谷が息を整えて戻ってきた。
黒縁の眼鏡の奥、寝不足の赤はあるが、声は真っ直ぐだ。
「別室はどこだ」
「展示品修繕の『アトリエ』。名目は“湿気の調整”」
「湿気の調整、ね」
「葉巻の世界では、保管湿度は六十五〜七十%が一般的です。……“乾き寄り”で軽くして、香りで厚化粧なら、逆に『湿りを足して顔を整える』可能性も」
「『顔』は作りやすい。だが『歩幅』は変えられない」
「はい」
天田はノートに短く“アトリエ=湿り/顔直し”と書き、隣に小さな矢印を 一つ置いた。
矢印は途中で止まる。
結論は置かない。
事実だけ置く。
歩幅は後で揃う。
「北条、外周」
「正面は空。裏は人が薄い。『焦るな』の横断幕。……ありがたいが、目が緩む」
「ありがたい時ほど、歩幅を詰める」
「了解」
アトリエへの通路は、防火扉を二枚挟んで薄暗い。
壁の掲示に“引火物持込厳禁”。
そこを抜けると、天井の低い部屋に木の作業台が並び、乾いた布と紙やすりと小さな万力が整然と置かれている。
壁際に“呼吸できる木箱”――蓋に孔を極小で空けた調湿箱が四つ。
そのうち二つに、『回収便』の札。
「取手裏、二センチ」
「脚高“四”」
「蝶番左寄せ、混入」
天田が軍手の下の薄手の手袋で取手裏を撫でる。
甘い辛い、薬の影。
昨夜より少し“丸い”。
――匂いの角を削る“口”がここにもある。
小さな換気扇の吸い口に、活性炭の片がステープラーで留められている。
角を削る為の“口”。
だが、順番は隠せない。
「“湿り”を足して、香りを丸める。――葉巻の“顔直し”と似ている。『歩幅』は変わらないが、『表情』は柔らかくなる」
「歩幅=火の歩き。表情=鼻の第一印象」
「そうだ」
作業台の隅に、小さな缶。
白ラベルに『丁子油(希釈)』。
蓋の縁に布で拭った跡。
布の端には糊の乾いた光。
――“足し香”の道具。
「写真、撮ります」
「頼む」
シャッターの音が乾いた部屋に小さく散り、すぐ吸われた。
紫郎は耳を澄ませ、壁の換気扇の“止める→回す”の間合いを測る。
三分。
――舞台の“止まり”と同じ間合い。
誰かの身体が覚えている“習慣の拍”。
「――箱はここで『顔直し』を受ける。『札』は別室の鍵。『手』は左。『歩幅』は“甘い→辛い→薄い石油→残る”。」
「在った事実、並びます」
「並んだな」
アトリエを離れる時、廊下の角で、眠たげな目とすれ違う。
緩いネクタイ。
粉を踏まない足。
佐伯浩一は、何にも寄らず、何も拾わず、ただ通り過ぎる。
「焦るな」
「はい」
天田の返事は短く、視線は落ちない。
佐伯の歩幅は一定で、角で静かに消えた。
空気には何も残らない。
――残らない 事自体が、紙の端に一行だけ残る。
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
看板の紫は薄暮で色を深め、ガラス戸の内側に長い影を落とした。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
湿度計は五十六%。
鏡は曇らない。
「まとめよう」
「はい」
天田はノートを開き、今日の“在った事実”だけを箇条書きに置く。
――ヤードでの『回収便』、三谷の左の入れ、取手裏二センチの“足し香”、黒いワゴンの活性炭の“口”、鳳章の『アトリエ』、調湿箱、丁子油、換気扇の間合い“三分”。
――名は書かない。
手と札だけ並べる。
「ここで、一度“味”を言葉にする」
「味、ですか」
「『ヴァージニア(BVT)/オリエント(OR)/葉落(LO)』の配合は、軽い甘さと茶の香りとナッツの影を狙う。ヴァージニアはフルキュアで糖が残り、バーレーはエアキュアで軽く乾き、オリエントはサンキュアで香りが立つ。水分を九から六に落とせば、火の歩きは速くなる。そこに丁子の幕を被せれば、甘い辛いの順番で鼻を疲れさせ、『薄い石油』が後ろに回る。――“軽いのに、厚く感じる偽物の顔”が出来る」
「“歩幅”は軽く、印象は重く」
「そうだ」
「葉巻の湿度管理は六十五〜七十%が一般的……『顔直し』は“湿りを足す儀式”に見える 為、現場の目に『普通』で通る」
「『普通』の顔を借りる。名で扉を開ける。――札の仕事だ」
「はい」
紫郎はカウンターの灰皿を指で 三つ分だけ動かし、中央に置いた。
指の腹に残った甘い影は、丁子のそれによく似ているが、瓶の口の層がすぐ上から覆い、薄くなる。
「明日は、アトリエの『出口』だ。――箱が『別の名札』で動く瞬間」
「“K-12/31”。『K』の札が『顔直し』から“外”に出る」
「『習慣の手』は、そこで緩む」
「緩む?」
「『儀式』が終わった後、身体は必ず一度だけ息を吐く。――蓋の角、足の座り、扉を押す手の高さ。どれかが“いつもより一ミリ”だけずれる」
「その“一ミリ”を、置く」
「ああ」
店の外で、橋脚の風が一度だけ低く鳴る。
提灯の赤が短く震え、すぐ止まる。
湿度計は五十六%のまま、針を動かさない。
「紫郎さん」
「なんだ」
「……怖い。でも、見える様になってきました。
『名は札』『手は習慣』『歩幅は嘘を吐かない』」
「うん」
「『甘い→辛い→薄い石油→残る』耳でも覚えました」
「良い耳だ」
天田は小さく笑い、すぐ真顔に戻った。
笑いは短く、芯は強い。
「そして……言っておきます。“決め”です」
紫郎は灰皿の縁を軽く叩き、店の空気を一度だけ整える。
瓶の唇は同じ高さで囁き、鏡は曇らない。
秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
「煙は嘘を吐かない」
言葉は大きくない。
けれど、木と金属と硝子の間に、今日も確かな長さで止まった。
匂いの層は静かに沈み、紙の角は薄く光る。
外で商店街の影が伸び、扉の札を“準備中”に返す音が短く続いた。
焦らず、しかし急いで――二人は『出口』の段取りを、静かに一本の線へ揃えていった。




