表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/50

第二十五話 遅い火はどこへ行く

 夜の手前の涼しさが、常夜紫煙堂のガラス戸に薄い膜を作っていた。

 看板の紫は路面で色を濃くし、瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 湿度計は五十六%。

 朝から一%も動かず、店の空気は“乾き寄りの素直さ”を保っている。


 カウンターには二つの缶と、軍手、薄手の手袋、そして小瓶が 一つ。

 小瓶は蓋をわずかに緩めてあり、甘く辛い影が、気づいた者だけの鼻にだけ触れる高さで静止していた。

 丁子の主成分オイゲノールは歯科で鎮痛に使われた油で、木に移りやすい。

 “堅木箱に残る香り”としては最適だ。


「配置、確認します」


 天田芽衣子がノートを押さえ、短く息を整えた。


「北条さんは通りの外周」


「島倉さんが裏の電源盤と消火栓」


「杉谷さんは協会の保管室で『返却箱』の動きを」


「私と紫郎さんは店内、“鈴の鳴りそうで鳴らない揺れ”を」


「それでいい」


 紫郎は缶の蓋をしめ、扉の内側、カウンターの足元、ガラスケースの影に“橋”を置いた。

 蜂蜜の影のような甘さ。

 けれど底に、ささやくような揮発の匂い。

 人の鼻の“甘い方へ寄る”癖を知り尽くした薄さで、ただ在る。

 “遅い火”に使われるのは、揮発の速いナフサと丁子の油を重ねた導火。

 甘さは鼻を疲れさせ、揮発の影を後ろへ退かせる。


「本当に来ますか」


「“遅い火”は通り道を欲しがる」


「通り道を作る手は、必ず“確かめ”に来る」


「確かめ、ですか」


「石を置けば、誰かが蹴る」


「蹴った足の癖を見る 為に、石を置く」


 天田は頷いた。

 窓の外を行く風は、橋脚で音を砕き、提灯の赤を撫でて過ぎる。

 鈴が鳴りそうで鳴らない。

 金具がほんの少しだけ擦れ、止まった。


「来た……?」


「“来て、やめた”。壁に触れた」


 鏡の面に、白い曇りが一つ咲いて消える。

 息の高さは、天田のものでも、紫郎のものでもない。

 外の影が一度遠のき、また近づく。

 鈴が短く鳴り、扉が“重くない重さ”で開いた。


「こんばんは」


 入ってきたのは、作業着の男だった。

 フードは被らない。

 肩幅は広いが、上体は揺らさない。

 爪の縁に紙粉。

袖口に、乾いた銀の反射が一つ。

 腕時計は右。

 利き手は左。


「いらっしゃい」


 天田が一歩前に出る。

 男は棚を見ず、カウンターの端に寄ると、低い声で言った。


「シャグを。乾いた奴を」


「どのタイプを」


「バーレー強め」


 昨日と同じやり取り。

 だが今日は、男の鼻翼の動きがほんの少し速い。

 匂いを“追っている”。

 紫郎は瓶を三つ出し、蓋を順に緩める。

 菓子のように明るい葉、パンの皮のように香ばしい葉、胡桃に似た乾きの葉。

 バージニアは糖が多くて甘く、バーレーは空気乾燥で糖が少なく“キック”が立つ。

 オリエントは天日乾燥で香りが鋭い。

 男の視線が三つ目で止まる。


「巻紙は」


「いらない」


「フィルターは」


「いらない」


「灰皿は」


「いらない」


 “火だけ”を求める声。

 天田は秤の皿に葉を軽く落とし、針が零へ戻るまでを目で追った。

 同じ重さの小袋が 三つ並ぶ。

 男は迷わず中央だけを取る。

 指の腹で袋を押す 時の“圧”がわずかに弱い。

 “左の入れ”の癖。

 天田の視線が袋の角で止まり、袖口の銀が光った。

 活性炭の粉は“角を丸くする”が、香りの順番は消せない。


「ありがとうございました」


 扉へ向かう。

 鈴が鳴りそうで鳴らない。

 金具が擦れ、止まる。

 男は外へ出て、右へ半身。

 島倉の台車が、角でわざと小さくぶつかった。


「すみません!」


 島倉が声を張る。

 男は一歩下がり、左手で紙袋を胸に押さえた。

 右手で台車を避ける。

 その一秒で、袖口の銀がはっきり見えた。

 粉の粒径は“箱”の蝶番で見たそれと似ている。

 北条の外周カメラが、斜め後ろから肩の線を拾う。


「追います?」


「追わない。置く」


「はい」


 天田は息を整え、レジの横から証拠袋を取り出した。

 カウンターに残った“銀”をごく薄く拾う。

 光は在る。

 だが、名は無い。


 外の無線が短く鳴る。


「黒のバン、赤白ステッカー無し。通りの角。二分五十で発進」


「“三分”に足りない」


「焦ってますね」


「焦らせたのは、こっちの石だ。夜の“倉庫”、行く」


「はい」


 店の照明を一段落とし、札は“準備中”のまま。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。

 鏡の面は曇らず、紫の看板は路面を薄く染めていた。


 

ーーー


 鳳章インテリアの倉庫脇。

 鉄骨の柱が夜の湿りを冷たく弾き、薄い街灯の光が床の目地に沿って細長く溜まっている。

 風は角で小さく鳴り、遠くの橋脚が低い唸りを落とす。


「石は置いてあります」


 島倉が金属片の位置を指さす。

 ガムテープの細帯が床を這い、角でほんの少し“めくれたがる”。

 丁子粉の小さな盛りは、砂の段差の手前で固まりかけている。

 揮発の“点”は、夜気で薄まっている。


「“遅い火”の歩幅は、ここだ」


 紫郎は手袋をはめ、帯の“角度”を目で測った。

 角度は、昼間と違う。

 “急ぎ”の角度だ。

 向こうが石に気付いて、無理に曲げた形跡。

 床の薄い擦り傷が、今日の“修正”を語る。


「来ます」


 北条の低い声。

 倉庫の陰から、作業着の男が一人、音を立てずに出てきた。

 踵の返しは左。

 上体は揺れない。

 足音は一定。

 男はしゃがみ、帯を撫で、粉を避け、角度をさらに調整する。

 ライターを出し、爪の部分を一度弾く。

 赤い樹脂の欠けが新しい。


 火は、点けない。

 男は、まだ“確かめて”いる。


「天田、息を殺せ」


「はい」


 男は立ち、帯の先に視線を滑らせ、材木棚の陰へ消えた。

 五十歩。

 四十。

 三十。

 低い音。

 帯の手前で、小さな“クレッ”が一度だけ鳴った。

 クレテックの破片が噛む前段の音だ。

 火はまだいない。

 だが“遅い火”の支度は整えられている。


「裏の電源盤、異常無し。消火栓、使用可能。水圧、良好」


 島倉が短く伝えた。

 紫郎は頷き、帯の“生き”を確かめる 為に、わずかな空気の流れを作った。

 石で止めた角で、帯が小さく“ゆらぎ”、丁子粉の盛りが砂に崩れる。

 崩れた粉は、匂いを急に強くする。

 人の鼻に“甘い幕”を掛け、底の揮発を隠す。


「――戻ってきた」


 男が再び現れた。

 動きは同じ。

 だが、目が“急いでいる”。

 ライターの爪を二度弾き、帯の“点”に火を落とす。

 火は一瞬で立ち、次の瞬間には“重く”なった。

 丁子が火を抱え、歩幅を“整える”。

 遅い。

 だが、止まらない。


「今」


 紫郎は消火栓のホースを半分だけ開け、霧を“点”に掛けた。

 水は粉に触れず、揮発にだけ触れる。

 石の位置で火は“息継ぎ”に失敗し、細い煙が“甘さ→辛さ→薄い石油”の順で一度だけ立ち上がって、消えた。


「何してやがる」


 男が振り向く。

 声は低いが、怒りより先に“段取りの崩れ”が滲む。

 逃げるより先に、足が止まった。


「警察です、動かないで」


 暗がりから北条が飛び出し、男の腕を取った。

 縄のような静かな力。

 抵抗は短い。

 手錠の音はもっと短い。

 男は歯を食いしばり、地面を睨んだ。

 睨む目は“誰かの時間”に遅れた目だ。


「三谷……?」


 天田が息を呑む。

 顔は昼の喫煙所で遠目に見た横顔と一致する。

 癖も、歩幅も、左の入れも。


「お前、何を燃やそうとした」


 北条の声に、男は答えない。

 代わりに、視線が“帯”をかすめ、丁子粉の崩れた盛りで止まった。

 止まった視線は、“誰かの指示”をなぞる。

 紫郎は静かに言った。


「遅い火は、どこへ行く 為の火だ」


「……」


「箱は“返却”。札は“返却”。だが中身は、“別”。お前の火は、“帳尻”へ行く 為の火だ」


「知った風な口を」


「知っている。匂いが教える」


「匂い、ね」


 男は鼻で笑い、唇を拭った。

 乾いた唇の端に、銀の粉が一瞬だけ光った。

 粉は“箱の蝶番”の粒径。

 袖口にも同じ反射。


「三谷、指示は誰からだ」


 北条の声は硬い。

 男は肩をすくめた。


「社の、外注だ。安全対策のアドバイザー。名前は無い。電話も無し。紙だ。『K』の字だけ」


「鳳章から金は」


「金は“弦月”。“協会”経由の立替。俺は搬入。箱の中身は触らない。今日だって、“確かめただけ”だ」


「火は」


「“点けろ”とは、言われちゃいねえ。俺が“前に進める 為に”やった。遅い火なら、誰も騒がない」


「誰も騒がない」


「騒がない内に、“返す”。“返した”事にする。帳尻は、いつだって“先に合ってる”」


 男は笑おうとしたが、笑いは形にならなかった。

 足元の帯がめくれ、砂がわずかに音を立てた。


「三谷、箱の札を替える指示は誰だ」


「俺は箱に触らねえ。触るのは“女”だ。角を押さえる癖の。今週は“朝比奈”。来週は、知らねえ」


「“K”はどこにいる」


「知らねえ。紙だ。『K-12/31』。それしかねえ」


 天田は短く息を吸い、ノートに“在った事実”として置いた。

 『三谷=搬入』。

 『女=角の癖』。

 『K=紙だけ』。

 『札替え=箱は同じ』。

 『丁子/揮発/帯』。

 『遅い火=帳尻へ』。

 名は出ない。

 名は札。

 手は習慣。


「連れていく」


 北条が頷き、男の肩を軽く押した。

 足音は一定。

 左の踵の返しは、最後まで変わらない。


 倉庫の角で、眠たげな目が光った。

 緩いネクタイ。

 粉を踏まない足。

 佐伯浩一が、暗がりから出てくる。


「ご苦労」


「課長」


「火は」


「消しました。被害無し」


「よし。焦るなよ、天田」


「はい」


 佐伯は短く頷き、北条の肩を一度だけ叩いた。

 その手は軽く、指先に力は入っていない。

 言葉は柔らかく、足音は白線を避ける。

 通路の暗がりに消えた。


「戻ろう」


「はい」


ーーー 


 常夜紫煙堂。

 夜が深く、看板の紫は黒に寄って落ち着いた。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。

 鏡の面には曇りが無い。

 カウンターに、今日の“在った事実”が並ぶ。


「まとめます」


「頼む」


 天田はノートを開いた。


 ――店で“壁”に触れた影。袖口の銀。“左の入れ”。

 ――倉庫の“帯”。丁子粉と揮発の“点”“線”。石で遅れた“歩幅”。

 ――三谷の確保。“搬入”担当。“箱は触らない”。“K=紙”。『K-12/31』。

――“女=角の癖”。“朝比奈”は“角を押さえる”。

 ――“遅い火”の目的は“帳尻”。『返却箱』の顔のまま、別の中身を“返す 事にする”。

 ――金の流れは“弦月→協会”。“鳳章”の名は“扉の札”。


「“K”は、やっぱり“名”じゃない」


「札だ」


「名で扉を開け、匂いで帳尻を合わせ、箱で運ぶ」


「手は、別にいる」


「三谷は駒」


「駒だ。『梶谷』も、恐らく、同じだ」


「え……」


「“帳尻:鳳章”は“扉を開ける 為の札”。札は札でしかない。まだ何者かが裏にいる」


 天田は静かに頷いた。

 目の奥で、何かが“形になる手前”で立ち止まる。

 言葉にすれば名前になる。

 けれど、紫郎は首を振った。


「言うのは、匂いだ」


「はい」


 ポストに薄い音。

 封筒。

 胡桃油の甘い影。

 左の入れ。

 封は無い。

 紙は 一枚。

 『駒が倒れた。また立てろ。――K』。


 天田は紙の端を摘み、香りを確かめた。

 甘い。

 辛い。

 底に薄い石油。

 昨日と同じ、今日と同じ。

 “習慣”。


「挑発、です」


「挑発は“自信”の裏返し。自信は“段取り”の上に立つ。段取りは“時間”で出来ている」


「“時間”を、どうしますか」


「置く。こっちの時間を、先に置く」


 紫郎は灰皿を 一つ中央に寄せ、瓶の唇をわずかに震わせた。

 空気が 一瞬だけ身を縮め、すぐ戻る。

 湿度計は五十六%。

 秤は皿を閉じ、針は零。

 鏡は曇らず、看板の紫が路面で静かに止まる。


「天田」


「はい」


「煙は、嘘を吐かない」


「……はい、紫郎さん」


 言葉は大きくない。

 けれど、木と金属と硝子の間で、その長さだけ確かに止まる。

 外で橋脚の風が低く鳴り、提灯の赤がわずかに揺れた。


 前編は、ここで一度、息を継ぐ。

 『駒』は倒れ、『札』はまだ立っている。

 匂いは紙に残り、火の通り道は夜の床で薄く呼吸する。

 まだ何者かが裏にいる。

 二人は“置いた時間”を確かめ、静かに夜を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ