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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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24/50

第二十四話 火種の帳尻

 今日も午前の光はアーケードの天窓を四角に切り、常夜紫煙堂のガラス戸の内側で白く鈍った。

 瓶の列は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 壁際の湿度計は五十六%。

 昨夜から一%だけ落ちて、店の空気は“乾き寄りの素直さ”を保っていた。


 カウンターには紙束が四つ。

 展示棟の“返却箱”搬出入、弦月サービスのヤード記録、港湾通関の控え、そして薄い封筒――『札を変えろ。――K』。

 封のない紙面には胡桃油の甘い影だけが残り、指で撫でる と布を巻く“左の癖”がわずかに匂いの段差で浮かんだ。


「おはようございます、紫郎さん」


 鈴が鳴り、天田芽衣子が入って来た。

 制服の襟は正しく、胸ポケットの二本のペンは差し込み向きが揃い、靴の踵のゴムは昨日より僅かに新しい。


「おはよう、天田」


「管理室の杉谷さんから。展示棟の『返却箱』は午後イチで倉庫へ。午前中は“見学ルート”の最終調整が入る 為、裏に人の流れが出来やすいそうです」


「“札だけ変えて箱は同じ”が、今日も続く」


「それと……」


 天田は小さなチャック袋を 一つ出した。

 中には綿棒の先が 二つ、うっすら色を帯びている。


「昨夜、保管室で触れた『取手裏』の二センチ。銀粉ではなく、香油の残り香です。嗅いだ印象は“甘く、辛く、どこか薬っぽい”」


「丁子だな。クローブ。――“クレテック”の粉砕片が燃える時に鳴る、あの小さな音の、手前にある匂いだ」


「クローブ……インドネシアの?」


「そうだ」


「クローブを混ぜた紙巻は“クレテック”と呼ばれる。燃える時に“クレッ、クレッ”と鳴る。丁子の主成分はオイゲノール。油性で、香りが木に移りやすい。――展示の“堅木箱”に残しやすい香りだ」


「“油”で匂いの帳尻を合わせる為?」


「恐らく、“別の匂い”を隠す為だ」


「別の……?」


「ナフサだよ。ウィックライターの燃料に使われる軽質石油の蒸留物だ。さらさらで、よく揮発する。――SDSを見る と“空の容器でも可燃蒸気に注意”とある。つまり、匂いを薄く残しやすい上に、危ない」


「匂いをごまかす為に、クローブの甘さを上から被せる」


「“甘さの幕”は、人間の鼻を早く疲れさせる。そこに“遅い火”を仕込めば、見過ごされやすい」


「遅い火……」


「丁子の破片、乾いた紙、少量のナフサ、そして“空気”。――『ゆっくり進む導火線』は幾つも作れる」


 天田は短く息を整え、ノートの端に“丁子/油/木/遅い火”とだけ置いた。

 名ではなく、在った事実の列。

 先走らず、置く。


「午後の倉庫搬入を押さえる。『返却箱』が“外”へ出る瞬間だ」


「はい」


「――それと、店の空気はこのまま“乾き寄り”に保つ」


「五十六%ですね」


「パイプ葉なら“乾き寄り”の方が火が素直に歩く。相対湿度で六十%を跨ぐと『火の足取り』が鈍くなる。紙巻と違って“燃やす葉”の水分管理で味も燃えも大きく変わる。基準として、パイプ葉の水分は“重量比で十八〜二十二%”。これは容器の中を“およそ五十五%前後”で転がして維持する方法だ」


「“乾き寄り”の箱の中で、丁子の油はどう残るかな……」


「木は覚える。――覚えた匂いは嘘を吐かない」


 天田がうなずいた。

 秤の針は零、瓶の唇は朝と同じ高さで囁いている。


「行こうか」


「はい、紫郎さん」


ーーー


 展示棟の裏通路は、昼前の空気で少し軽かった。

 表の動線調整で“裏”へ人が寄り、倉庫口の前に台車の列が伸びる。

 鳳章インテリアのブース裏、“札を返却箱に戻した”堅木の箱が 二つ。

 脚高“四”。

 蝶番は一方だけ左寄せ。

 取手裏に“二センチ”。

 昨夜と同じ顔で、今日の光を受けている。


「杉谷、入る」


 北条の短い合図。

 管理室の許可は取ってある。

 だが許可は“遅くする道具”にもなる。

 だから足は早く、目は遅く、手は軽い。


 天田は軍手の下に薄い手袋を重ね、取手裏の“二センチ”を綿棒で撫でた。

 甘い。

 辛い。

 薬の影。

 ――丁子。


「紫郎さん、油感が昨夜より“生きて”ます」


「昨夜、誰かが“足し香”をした。――札を替える前に“香り”を替えた」


「箱の“戻し”の前後を、匂いで一段上書き……」


「上書きは、紙でやると紙が覚える。木でやれば“道具の顔”のままだ」


 紫郎は蓋に触れず、蝶番の“抜け”の位置を指で探った。

 薄底を“呼吸させず”に滑らせ、封筒の“縁”だけを目で確認する。

 昨夜“中身だけ”入れ替えた封筒の紙目は“横”。

 港の走り書きは“縦”。

 ――『同じ手』が“場所を跨いで”動いている。


「北条、外周」


「黒いバン。ステッカー無し。運転一人。停車ライン、昨日と同じ位置。扉は開けず。煙草は“持たない左”」


「『左』は、箱でも道路でも“同じ”だな」


「朝比奈は表。角を押さえる癖は変わらず。三谷は不明」


「“K”は、札を替える前に“香り”を替えた。――見せたい匂いに帳尻を合わせる 為だ」


「“見せる匂い”……丁子」


「人の鼻は“甘い方”に追われる。――ナフサの影は後ろに回る」


 天田が無言で頷く。

 彼女の眼差しは、取手裏の“二センチ”で止まり、そこから“外”へ伸びる見えない糸を追った。


「杉谷、倉庫鍵」


「こちら」


 杉谷は眼鏡を押し上げ、許可票を胸に差した。

 保管棚は金属。

 空気は乾き、紙と油の匂いが薄く混じる。

“返却箱”は番号札で並び、二つだけ脚高“四”が揃っている。


「写真、撮ります」


 天田が四隅を押さえ、紫郎は薄底を“呼吸させず”に滑らせ、封筒の“封”に触れず中の紙だけを抜いた。

 昨夜、入れ替えた“空白紙”がそのまま戻る。

 封筒は箱に“座る”。


「紙、確認します」


 保管室の隅。

 鋼板の机の上で、紙の角を揃える。

 通関番号の走り書き、“北回り”の“N”。

 『加工指示』――『BVTブライトヴァージニア乾/ORオリエント微/LO(葉落)混合/水分値九→六』『ロット統合/港外/箱経由』『帳尻:鳳章』。

 そして、右下の小さな『K-12/31』。


「“ヴァージニア/オリエント/バーレー(落葉)”。――軽い甘さ、茶、ナッツ、焙煎の影。全部“分かる人の配合”だ」


「“水分値九→六”は、“乾かす”指示ですね」


「『火の歩き』を速くする 事で、味の印象も変える。――『軽く早く』燃える葉に、香りだけを厚化粧する」


「厚化粧……丁子で?」


「そうだ。“香りの幕”で書類の嘘を覆い、実物の矛盾を鼻から滑らせる」


「紙の『帳尻』が鳳章。――やっぱり“名前”は扉を開ける 為の札、ですね」


「名は札。手は習慣。――“K”は札をずらし、香りをずらし、箱をずらす」


 天田はメモに“名≠手/札=扉”と短く置いた。

 置くだけ。

 結論は急がない。


「戻すぞ」


「はい」


 薄底を閉じる音は短く、棚の金属に吸い込まれる。

 箱は“返却箱”の顔に戻った。


「課長が来ます」


 廊下の角。

 眠たげな目。

 緩いネクタイ。

 粉を踏まない足。

 佐伯が“どこにも寄らず”通り過ぎる。

 上目の視線が天田の胸ポケットへ一度だけ降り、すぐ戻る。


「焦るな」


「はい」


 返事は短い。

 佐伯は歩幅を変えず、角で消えた。

 空気には何も残らない。

 残らない 事自体が、紙の片隅に一行だけ残る。


ーーー


 午後遅く。

 商店街の風は看板の紫を少し濃く揺らし、常夜紫煙堂のガラス戸に短い影を刻んだ。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零のまま揺れない。

 カウンターには、今日“持ち帰った紙”と、丸い缶――“実験”と書いた白ラベル。


「やろう」


「はい」


 紫郎は缶の蓋を開けた。

 中には三つの小瓶。

 一つは軽質のライター燃料“ナフサ”。

 一つは薄めた丁子油。

 一つは水。

 吸水紙を三枚、別々に湿らせ、乾いた堅木板の上へ等間隔に置く。

 店の湿度は五十六%。

 温度は安定。

 外気の流れは弱い。


「『遅い火』の歩幅を、見る」


 紫郎は一枚目――“ナフサ”の紙に、火を乗せた。

 火は躊躇なく走り、ふと立ち上がる香りは“薄い灯油”の影。

 上に残るのは刺すような揮発の尾。


「二枚目、丁子油だけ」


 火は“重く”歩く。

 火の縁に小さく“音”が混じる。

 クレテックの破片が噛む“クレッ”の手前、油がわずかに泡立つ。

 甘さが先に立ち、人の鼻はそちらへ引かれる。


「三枚目、“混ぜる”。ナフサを薄く、丁子を薄く」


 火は“遅く、しかし止まらず”歩いた。

 紙は表面から浅く炭化し、煙は甘く辛く、底に軽い石油の影。

 ――“遅い導火線”の歩幅が、見えた。


「天田。匂いを言葉にしてくれ」


「一枚目は『刺す→消える』。二枚目は『甘い→残る』。三枚目は『甘い→辛い→薄い石油→残る』。……“三枚目”は“鼻が疲れる順番”です」


「“疲れさせたい人間”が、これを選ぶ」


「展示の箱の『足し香』は二枚目。“見せ香”。港の“実物”は三枚目。“遅い火”」


「帳尻は、丁子で合わせる」


「“K”は、匂いで帳尻を合わせる 為に“札”を動かす」


 紫郎は頷き、もう 一つの缶を出した。

 薄い紙を巻いた紙巻と、吸い口に活性炭を詰めたフィルターチップ。


「“炭の口”は匂いの角を削る。紙巻の世界では“活性炭フィルター”は珍しくない。タールや匂いの一部を吸着し、口当たりを丸くする。だが“元の匂い”は消えない」


「“角を隠す”だけ……」


「角は隠せるが、歩幅は隠せない」


 紫郎は活性炭のチップを紙巻に差し、二種類の“遅い火”の煙を吸い比べた。

 角は確かに丸くなる。

 だが、“甘さ→辛さ→薄い石油”の順番は変わらない。

 順番は習慣。

 習慣は手の正体に近い。


「――今日の『在った事実』を置こう」


「はい」


 天田はノートを開き、箇条書きで淡々と積む。

『返却箱=堅木/脚高“四”/蝶番左寄せ混入/取手裏二センチ』。

『取手裏=丁子油(足し香)』。

『港紙=“縦”、展示紙=“横”、どちらも“左の入れ”』。

『ナフサは“遅い火”の素。丁子は“見せ香”と“帳尻”』。

『活性炭は角を隠すが順番は隠せない』。

 ――名は出さない。

 扉を開ける 為の札でしかないから。


「課長へは」


「言わなくていい。言うのは、匂いだ」


「了解です」


 鈴が鳴った。

 島倉誠一が作業着のまま、帽子を脱ぎながら入ってくる。

 肩に薄い埃、靴に緩い砂。


「警備の人間から聞いた。展示棟の裏、今日の夕方、“見学ルート”の柵の鍵が一本なくなった」


「いつ」


「“三分”と“一分”の間。――人の視線が表へ寄る 時間だ」


「“外”が近いな」


 紫郎は短く頷き、缶の蓋をしめた。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、湿度計は五十六%を刻んでいる。

 秤の針は零。

 鏡の面は曇らず、看板の紫が夕暮れでわずかに濃くなった。


「天田」


「はい」


「夜は“店”に置く。――『遅い火』は、ここへ来る」


「罠を?」


「罠じゃない。“在った事実”を置く壁だ。甘い影と、遅い歩幅。――触れれば、それが『今』になる」


「島倉さん、外はお願い出来ますか」


「了解。裏の電源盤と、消火栓。鍵の“流れ”も見る」


「北条には、向こうの“黒いバン”を。杉谷は倉庫の目録を“早くする道具”に変える」


「早くする道具?」


「朱を重ねる前に、写しを置く。――“朱”は遅くする 為の札だ」


 短い準備の言葉が、店の空気に素直に沈む。

 皆の“拍”が揃い、遅すぎず、早すぎない歩幅に寄ってゆく。


「紫郎さん」


「なんだ」


「……怖いです。でも、分かります。“甘い匂い”は綺麗にしてくれるから。――“嘘の帳尻”を」


「匂いは嘘を吐かない。帳尻を合わせるのは“人間”だ」


 紫郎は灰皿を 一つ中央に寄せ、店の空気を静かに整えた。


「だから、煙に聞く。――煙は嘘を吐かない」


 言葉は大きくない。

 けれど、木と金属と硝子の間で、その長さだけ確かに止まる。

 外で橋脚の風が一度だけ低く鳴り、提灯の赤がわずかに揺れた。

 夜の手前。

『遅い火』の歩幅が、こちらへ向かってくる。


「天田。扉の札を“準備中”に」


「はい、紫郎さん」


 札が返り、鈴が短く震えた。

 看板の紫は深く、店の空気は“乾き寄り”のまま静かに強く、夜を迎え入れた。

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