第十九話 焦げた札
夕方の光が低く傾き、常夜紫煙堂のガラス戸に斜めの帯を作った。
瓶の列はその帯でゆっくり区切られ、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
湿度計は五十七で止まり、葉巻保管の基準とされる六五〜七〇%より低めに抑えてある。
香りを滞留させず“橋”を薄く置くための数値だ。
カウンターには昨日の紙束が角を揃えて並び、端に白い封筒が 一つある。
『札を変えろ。――K』の走り書き。
胡桃油の影は薄く、紙の目は横に走る。
「挑発だけじゃない」
「狙いは『札』じゃなくて、こっちに渡った『中身』だ」
「取り返すか、消しに来る」
紫郎は小瓶の蓋をわずかに緩め、指先で測れる厚さに“橋”を整えた。
瓶の唇が囁き、無色の層がガラス戸の内側に極薄く残る。
触れた指にだけ在り、空気はほとんど匂わない。
「今日は“追わない”“置く”に徹する。うちは普段通りに店を回す、北条は角、島倉は向かい、杉谷は『返却台帳』」
「了解」
「怖くない訳じゃない」
「だから段取りを足す」
灰皿を磨き、紙巻の見本束を一段下げ、札を「仕込み中」に替える。
余計な火種を作らず、動かずに待つ。
ーーー
「閉めますか」
「もう少し。さっき『来て、やめた』気配があった」
夜が落ち、商店街は静かになった。
鈴は鳴らないが、外の金具がかすかに擦れて止まる。
ガラスの外側、指の腹が触れて離れる高さで“橋”が一瞬だけ反応し、すぐ消えた。
ためらいの長さが、次の来訪を告げる。
十二分ほど過ぎ、扉が小さく揺れた。
鍵の癖を確かめる軽い押し。
次いで、下端の隙間に紙片が触れる気配と、見えない場所にそっと置く微かな重さ。
「今だ」
紫郎は床の木目を跨いで扉へ近づき、天田は明かりを一段落とす。
ガラスの向こうの影は動かず、下端の隙間から白い“もの”が薄く入り込む。
「煙」
「違う。立ち上がりが早すぎる」
甘さを帯びた軽い匂い。
蜜蝋に近いが、もっと薄い。
灯油でもアルコールでもない。
外に仕掛けがあり、今は「待っている」。
紫郎は足元のスチール缶を開け、細い砂の帯を扉の内側に引いた。
砂は酸素を遮り、白を鈍い帯へ変える。
外の影が半歩引き、次の動きまでの短い間合いが生まれる。
「通報入れます」
「慌てない声で」
「はい」
短く住所と状況を伝え、島倉と北条へ一文だけ流す。
「来た。扉下、白」。
返ってくるのは「見てる」。
それだけで足りる。
影が“入る”を選んだ。
鈴が鳴らない角度で扉を押し、身体を影のまま滑り込ませる。
フードが深く、背は中背、肩はやや広い。
右手は空、左手に軽い封筒の感触。
隙間の白が少し濃くなる。
「いらっしゃい」
「返しに来た」
「紙巻は時間外だ」
「余計な紙は灰にする」
「返却は箱で受ける」
「箱はもうない」
「なら札だけ残る」
影は肩を小さく動かし、扉の外で金属が擦れる音がして白が濃くなる。
「外だ」
紫郎は視線を向けず、砂の帯をもう一筋伸ばした。
白は触れて重くなり、甘さがわずかに太る。
「遅延点火の」
「言わない」
名を出すと真似の階段になる。
影の顎が強張る。
「匂いが変わった」
「変わるように置いた」
「煙草屋の匂いで隠せると思うな」
「隠すのはそっちだ」
銀の縁の灰皿を半歩だけずらす。
灰は入れていない。
“無い”が嘘を重くする。
「何しに来た」
「札の回収」
「ここに置いていけ。あなたの『手』も」
影は左手の封筒をカウンター端に置いた。
置く高さが低く、利き手ではない癖が出る。
右手は力を溜めるだけで振らない。
舞台も展示も店先も、同じ左の“入れ”だ。
扉が微かに動き、白はまだ外にある。
影が引き、角から北条と制服の若いのが滑り込む。
「動くな」
影は笑いだけ残し、顎を上げた。
外の白が消え、乾いた小さな破裂音。
島倉が通行人の顔で踏み消したのだろう。
「何もしてない」
「半開きの扉は『してる』の合図だ」
北条が肩を押さえ、手袋を外させる。
左の指先に銀粉が僅かに残り、右の手の甲に薄い蝋。
甘い気配は、外で消えた匂いと同じだ。
「署で話を聞く」
影は抵抗せず、封筒を目だけで示す。
天田が素早く袋に入れる。
「箱は灰だ」
「灰になる前に、匂いは残る」
鈴が鳴り、日常の音が一瞬だけ戻って消えた。
ーーー
残ったのは砂の帯と、扉の下端の白い粉と、カウンターの封筒だ。
天田は息を吐き、手袋を外す。
「怖かった」
「怖いから段取りを足す」
「はい」
「火は匂いで嘘をつくが、煙は嘘をつかない」
「分かりました……」
粉を小皿に受け、秤に乗せる。
針が軽く動き、すぐ戻る。
水を 一滴落としても溶けにくく、縁だけ柔らぐ。
蝋の系統だが純粋ではない。
紙切れに少量を載せ、熱源に近づけるだけで甘さが先に立ち、紙の焦げ臭が負ける。
「展示の床の艶出しに似てる」
「鳳章のブース、脚の下のカーペットに胡桃油の影があった」
「同じものを火の前に置いた」
「火事の匂いを日常の匂いで薄める」
「効くのは最初の一分だけだ」
封筒の紙は薄く、一枚。
『本日中/返却/札変更/回線不通時灰処理/K-12/31』。
『灰』の右に小さな点が 二つあり、左の“入れ”が出ている。
「『回線不通』は、監査の回付で遅れるのを読んだのか」
「遅れに『灰』をつなげた段取りだ」
「名前は」
「名に飛ばない。『K』は『K』のまま置く」
「了解」
眠たげな目と緩いネクタイが扉に現れ、佐伯が一呼吸だけ店の空気を吸った。
「大丈夫か」
「未遂で止まりました」
「焦るな。現場は残したな」
「はい」
佐伯は砂の帯、灰皿、封筒、天田の胸ポケットを順に見て頷く。
「外はうちで押さえる。店は任せた」
「承知」
「怖さは悪くない。無茶にだけ繋げるな」
「わかりました」
粉も白線も踏まずに去る背中が、空気に何も残さない。
その“何も残らない”が紙の上に残る。
ーーー
静けさが戻る。
砂の帯はまだ細く延び、“橋”は扉の高さで薄く息をする。
秤は皿を閉じ、針は零。
鏡は曇らない。
「灰にならないものを探したくなる」
「匂いと癖は燃えない」
「はい」
「それから、火は必ず『どこから』来る。今日の白は下から『内へ』入ったが、仕掛けは『外』にあった。内に蝋、外に踏み消し跡。その矛盾は小さくても確かな勝ちになる」
「小さくても確かな勝ち」
「ああ」
封筒の『K-12/31』は、舞台で見た『K』と同じ高さで並び、別の線を示し始める。
『箱』から『店』へ。
『札』から『灰』へ。
線は増えて一本に寄っていく。
「煙は嘘を吐かない」
「うん」
「なら、段取りを剥がしていけばいい」
「剥がしていこう」
看板の紫が夜の底で濃くなり、影が長く伸びた。
札を「準備中」に返し、砂を静かに集め、甘い影を袋に収める。
遠くで青と赤が回り、すぐに消えた。
「明日は『箱の行き先』を押さえる。灰の前に目録に戻るはずだ」
「杉谷さんに無理はさせない」
「させるな」
天田は手帳を胸に当て、角で布が少し形を変える。
恐さは残るが、恐さは段取りを増やす。
増えた段取りは火を小さくする。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じ、針は零で止まる。
置かれた事実は灰にならない。
明日も明後日も、焦らず急いで、時間を“置く”側の段取りはまた 一つ増えた。




