第十八話 一分の罠
朝の光は細長い帯になって、常夜紫煙堂のガラス戸をゆっくり滑った。
瓶の列は影の節で静かに区切られ、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
カウンターには四つの紙束と、小瓶が 一つ。
昨夜ポストに落ちた『一分』の挑戦に応える 為、紫郎は“橋”の香りをさらに薄く、指先で測れる厚さにまで伸ばしていた。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴る。
天田芽衣子の声は、いつもより少し低い。
制服の襟は正しく、胸ポケットのペンは二本、差し込み向きが揃っている。
靴底に残る埃は少なく、昨夜のヤードの砂は既に落ちていた。
「おはよう、天田」
「協会の杉谷さんから連絡です」
「展示棟の“返却箱”、午前と午後で『札を入れ替えて使い回し』だそうです」
「設営側の指示で、各ブース裏から“資料受渡箱”として一時運用」
「午後は“返却箱”に戻し、保管室へ」
「札の文字だけ変える」
「箱は同じ」
「――“一分”に最適だ」
「弦月サービスのヤード、搬出記録から“運び”の担当が二名に絞れました」
「紙の名は『三谷』『朝比奈』」
「どちらも偽名の可能性が高いです」
「朝比奈は舞台」
「三谷は展示」
「手の癖は同じ“左”」
「それと、扉の影に置く“橋”」
「今日はどの高さにします」
「取手裏の二センチに薄く」
「――触れた時間が『今』だと分かる程度でいい」
「了解です」
紫郎は小瓶の蓋を緩め、綿棒を 二つ。
香りの層は無色で、指で触れても肌の温度が僅かに柔らぐだけだ。
瓶の唇が 一つ囁き、空気の底に甘い影が薄く落ちる。
「北条は外周」
「杉谷は目録」
「島倉には“脚高”での選別」
「――俺達は扉の“手前”を押さえる」
「“追わない”“置く”ですね」
「そうだ」
「……緊張してきました」
「緊張は“時間”を伸ばす」
「『一分』を“二分”に変える錯覚は、犯人の側にも起きる」
「“錯覚”も、証拠になる事がありますか?」
「癖は錯覚を隠せない」
天田は小さく頷き、ノートの端に線を 一つ引いた。
線は途中で止まり、紙の角に“K”と“S”が小さく並ぶ。
昨夜の封筒にあった頭文字の列――名ではなく、手の記号。
まだ断定はしない。
置いて、待つ。
「行こうか」
「はい、紫郎さん」
紫園ホール併設の展示棟は、朝の空気に紙と木と新しい布の匂いを溶かしていた。
白い通路は照明で均され、各ブースの看板はやや過剰に眩しい。
鳳章インテリアのブースは中心通りの角。
木口の面取りは過剰に丁寧、真鍮の金具は新品の乾き。
裏には札だけ異なる同じ箱が 二つ並び、脚高“四”、蝶番は一方にだけ左寄せ。
ラベルは『資料受渡箱』と『返却箱』。
紙だけが違う。
「“受渡”の箱、午前はこっち」
「午後は“返却”に戻す算段です」
杉谷が目で合図を寄越す。
黒縁の眼鏡の奥の赤は薄く、指の震えはない。
北条は通路の角で外周カメラの角度を確かめ、喫煙所との“流れ”を頭に入れた。
島倉は業者ベストに紛れて台車を押しながら、さり気なく箱の脚の高さと床材の“遊び”を手で撫でている。
「取手裏、二センチ。“橋”入れます」
天田が軍手の下に薄手の手袋を重ね、綿棒で取手裏の空間を軽く撫でた。
香りは付かずに“在る”。
触れた指だけが、そっと覚える。
「良い」
「――天田、箱の“傾き”だけ、目で覚えておいてくれ」
「はい」
午前の波が過ぎ、通路は少し緩む。
鳳章のブース前に小さな“空”が出来る。
案内係が表で視線を受け止め、裏の目が一瞬だけ薄くなる。
そこに、作業着の男が影を滑らせた。
黒。
肩幅は広め。
踵の返しは左。
手袋は薄手。
――三谷。
男は右足を半歩抜き、左の手で蝶番の隙間に指を入れ、右の手で薄底を一息だけ呼吸させる。
箱は微かに“浮き”、取手裏の二センチに指が滑る。
黒い封筒が 一つ抜け、同じ厚さの封筒が 一つ入る。
戻す。
座る。
三十秒も要らない。
追わない。
置く。
天田は取手の裏を目だけで確認し、脚と床材の毛の向き、蓋の合わせ目の浅い擦れを記憶へ滑らせた。
踵の返しが通路へ戻る 音。
空気の軽い揺れ。
喫煙所の方へ視線が流れる。
「喫煙所、三谷」
「外周合流、十秒」
北条の声が無線に落ちる。
「手は“舞台”と同じ」
「左の“入れ”」
「了解」
「こちら“箱”を“戻す”」
紫郎は周囲に“見せる”動きだけで蓋の角を押さえ、箱の傾きを元の角度へ戻した。
手袋越しの木の乾き。
板材の密度。
薄底の呼吸の短さ。
耳が覚え、指が覚え、鼻が覚える。
「午後までに保管室の鍵を押さえます」
「杉谷、頼めるか」
「やってみます」
「……監査部の朱が、また増えますが」
「朱は“遅くする道具”だ」
「遅くしても、消えない」
「はい」
杉谷は短く頷き、管理室へ消えた。
ーーー
正午過ぎ。
展示棟の喫茶スペースは、紙のカップと金属のテーブルに日差しが跳ね返る。
人の波は一度緩み、空調の音が低く回り出している。
「課長とすれ違いました」
天田が紙コップの縁を親指で沿わせながら言う。
「どこで」
「通路の端」
「『焦るな』って」
「……いつも通りでした」
「いつも通りは、“いつも通り”だ」
「はい」
「喫煙所は」
「三谷、長居しませんでした」
「缶コーヒー」
「手は“左”」
「封筒は内ポケット」
「――『一分』の通りです」
「『一分』は“習慣の時間”でもある」
「『初めての手』ではない」
「……舞台も展示も、同じ“左”」
「同じ“厚み”」
「同じ“戻し”」
「同じ“座り”」
「同じ“札違いの箱”」
「名はまだ、断定出来ない」
「置きます」
「置け」
天田は短く息を整え、ノートの“K”と“S”の横に“M”を 一つ、小さく置いた。
三谷の“三”。
名ではない。
記号として在るだけの文字。
並べ、置く。
「午後の“返却”で押さえる」
「はい」
「――天田、午後は“戻し”返す」
「“戻し”返す、ですか」
「相手が差し込んだ封筒を、『中身だけ』すり替える」
「『封と紙』はそのまま」
「――薄底は“呼吸させない”」
「出来ますか」
「出来ないなら、俺は煙草屋をやっていない」
「……はい」
天田の目に、わずかな笑いが灯る。
硬い空気に、ほんの少しだけ柔らかさが混ざる。
ーーー
午後。
展示棟の光はわずかに傾き、鳳章のブース前の床に薄い影が出来ていた。
案内の声は淡く、デモの前後で人の流れは“寄せては返す”。
ブース裏の箱には札が戻り、どちらも『返却箱』。
取手裏、二センチの空間に“橋”は薄く息づき、蝶番は左寄せが 一つ混じっている。
「入ります」
杉谷が短く告げ、保管室の鍵を胸ポケットに隠した。
管理室での押し問答は、彼の眼鏡の奥の赤に少しだけ残っている。
外周の北条は角を押さえ、島倉は台車で“偶然”を演出する。
鳳章ブースの裏を、作業着の女が通る。
朝比奈。
軍手の上に薄い手袋。
角を押さえる癖。
踵の返しに無駄が無い。
彼女は取手に触れない。
“角”だけを押さえ、札の位置を正し、箱の“座り”を確認する。
――『交換の直前』の合図。
次の“止まり”。
通路の視線が表へ寄り、裏が薄くなる。
一人の男が、影の縁だけを使って箱へ入る。
“左”。
一歩。
半歩。
『浮かす』
『差す』
『戻す』
一息。
男は目を上げずに去る。
「今です」
天田の声は静かで、芯がある。
紫郎は蓋に触れず、蝶番の“抜け”の位置だけを指で探る。
薄底の角は“呼吸せずに”滑る。
封筒が姿を見せる。
糊は軽い。
継ぎ目は浅い。
封は切らない。
封筒の口は空けない。
中の紙だけを、ピンセットで“抜き”、事前に用意した“同じ重さの空白紙”を滑らせる。
――封と紙はそのまま。
中身だけが、入れ替わる。
戻す。
座らせる。
薄底の戻る音は短い。
箱は“返却箱”の顔のまま、何も起きなかった顔でブースの影に在る。
「回収、保管室」
杉谷が鍵を示す。
天田が横に付く。
北条は外周で人の影を弾き、島倉は台車をわざとぶつけ、騒ぎに“偶然”の薄い膜を掛ける。
短い時間の中で、全員の“癖”が一つに揃う。
「いきます」
「頼む」
保管室。
棚は金属。
空気は乾き、紙の匂いと油の匂いが薄く混じる。
『返却箱』が 二つ、仲良く眠っている。
脚高“四”。
蝶番左寄せが 一つ。
取手の裏、二センチ。
――同じ。
「こっそり、やります」
天田が写真を撮り、紫郎は薄底を“呼吸させずに”滑らせ、封筒を 一つ抜いた。
封はほどかない。
紙だけが“こちら側”に来る。
封筒は、そのまま箱に戻る。
「閉めます」
「閉めろ」
薄底の戻る音は短く、棚の金属に小さく吸われる。
箱は“返却箱”の顔を続けた。
「戻りましょう」
「戻る」
保管室の扉を閉じる 時、廊下の角に人の影が一つ揺れた。
眠たげな目。
緩いネクタイ。
白線を踏まない足。
佐伯が、どこにも寄らず通り過ぎて行く。
上目遣いの視線は天田の胸ポケットへ降り、すぐに戻り、言葉は一つだけ。
「焦るな」
「はい」
天田は短く答え、視線は動かさなかった。
佐伯は歩幅を変えず、角で消える。
空気には何も残らない。
残らない 事自体が、在った事実として紙に残る。
ーーー
常夜紫煙堂。
夕方の光は看板の紫を少し濃く見せ、ガラス戸の内側で薄く伸びる。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
鏡の面に天田の肩が一瞬だけ映り、すぐに消えた。
「開けよう」
「はい」
天田は封筒から紙を取り出し、角を揃えて机に置いた。
紙は三枚。
産地証明のコピー。
通関番号の走り書き。
そして、頭文字だけの名簿。
『K』『S』『N』『M』『R』。
順序は不規則。
紙の目は港の乾いた風を薄く残し、鉛筆の圧は軽いが、所々で『左の入れ』が顔を出す。
「“K”は梶谷と思ってしまいますが……」
「思ってしまうようになっている」
「――名は置け」
「手だけを見る」
「“S”は……」
「名前に飛ぶな」
「『札』『Service』『Screw』『杉谷』――“S”は“S”のままでいい」
「はい」
天田は“S”の横に、小さく『※複数可能』と書いた。
ノートの片隅、“K”の横には『※名札の言葉』とだけ添える。
名簿は名ではない。
手の記号。
札の記号。
――置く。
「通関の走り書き、『北回り』の“N”は“North”かもしれません」
「“N”は“N”のまま、置いておけばいい」
「では“M”は」
「三谷でも、Materialでも、Morningでもいい」
「――『今は』」
紫郎は紙の角を指で軽く押さえ、呼吸を 一つ整えた。
空気がわずかに深くなる。
瓶の唇が 一つ囁き、甘い影が机の上に浅く落ちる。
「……これで“在った事実”は揃った」
「はい」
「“K”の手は左」
「“三分”と“一分”を同じ癖でやれる」
「――『習慣の手』だ」
「『習慣』の証拠、足せますか」
「足す」
「――天田、封筒の紙の目を覚えておいてくれ」
「紙の目」
「港の乾いた風は“縦”に走る」
「展示棟の紙は“横”に切る癖がある」
「同じ“K”の手が、『縦』と『横』を跨いでいる」
「“K”は、『場所』を選ばない」
「そうだ」
「……紫郎さん」
「なんだ」
「今日の『一分』、正直、怖かったです」
「手を伸ばして“追いかけたく”なる」
「“追いかける”は、相手の時間に乗る事だ」
「――俺達は『置く』側だ」
「はい」
天田は小さく笑った。
笑いは短く、芯は強い。
「それに、今日は“戻し”返せた」
「封筒の中身はこっちにある」
「……小さな勝ちです」
「ああ」
「小さいが、確かな勝ちだ」
「次は」
「『箱を箱に戻す 手』を押さえる」
「――保管室から『外』に出る瞬間」
「『札』は変わるが、箱は変わらない」
「明日も展示棟ですね」
「そうだ」
「――杉谷に無理はさせるな」
「分かりました」
ポストに薄い音。
天田が拾い上げた封筒は、白。
封は無く、紙は 一枚だけ。
『札を変えろ。――K』。
文字は短く、胡桃油の影が薄い。
布を巻く“左”。
「挑発、でしょうか」
「挑発は『自信』の裏返しだ」
「――『札』を変えても、『箱』は変わらない」
「はい」
紫郎はカウンターの灰皿を 一つ中央に寄せ、店の空気を静かに整えた。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤は皿を閉じたまま針を零に置く。
鏡は曇らず、看板の紫が夕暮れでわずかに濃くなる。
「天田」
「はい」
「煙は、嘘を吐かない」
「……はい」
言葉は小さく、木と金属と硝子の間に沈む。
外で商店街の影が伸び、扉の札を“準備中”に反す。
二人は静かな歩幅で、次の“外”に向かった。
『一分』の扉は、もう開き方を教え始めている。
焦らず、しかし急いで――時間を“置く”側の段取りは、また 一つ先へ進んだ。




