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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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17/50

第十七話 箱の薄底、三分の取引

 午前の光が天窓で柔らかく割れて、常夜紫煙堂のガラス戸に白い面を作っていた。

 棚の硝子瓶は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置く。

 カウンターには四つの紙束が角を揃えて並んでいる。

 駅ロッカー“312”の使用ログ、鳳章インテリアの搬出入記録、文化連絡協会からの資材リスト、そして昨夜ポストに入っていた短いメモ――『三分の後で会おう。――K』。

 紙の端にだけ銀粉が薄く残り、指先で撫でる と金属の影が爪の裏へ微かに移った。

 スパニッシュシダーは葉巻箱やヒュミドールの内装に使われ、香りと防虫性で重宝されるが、実は真正の杉ではなくセドレラ属の広葉樹だ。

 葉の乾き方にはフルキュア(バージニア)、エアキュア(バーレー)、サンキュア(オリエント)といった方式があり、乾きの癖は香りの層に残る。


「おはようございます、紫郎さん」


 鈴が鳴って、天田芽衣子が入ってきた。

 制服の襟は正しく、目の下の陰はほとんど消えている。

 二本のボールペンは差し込み向きが揃い、靴の踵は新しいゴムの色をそのまま保っていた。


「おはよう、天田」


「協会の杉谷さんから。今日の午後、紫園ホールの“仕込み続き”です」


「大ホールは照明の吊り替え、小ホールは転換の通し」


「どちらにも『安全対策アドバイザー立会い』」


「それと、袖の“香盤表箱”があと一つ増えるそうです」


「箱を増やすのは、“交換”の余地を増やす為だ」


「“三分”の意味、仮説の更新です」


「開演三分前のアナウンスや排煙テストの一時停止は、視線が舞台へ寄って袖が緩む“隙”」


「良い。そこで『薄底』が動く」


「日下部桐函製作所の伝票、弦月サービス経由で手に入りました」


「『協会名義/支払弦月』の立替処理」


「指定金具は真鍮蝶番フジヤ三〇ミリ、脚高は“四”」


「指示書の控えに『取手裏空間二センチ』」


「二センチは、指の腹を通す寸だ。誰かが“当たり前”にやってきた寸法」


「午後の“袖”で、やりますか」


「やる。だが『追わない』『置く』は崩すな」


 日本に煙草が入ったのは南蛮船の時代で、語もタバコの音で取り入れられた。

 江戸では細刻みの葉を吸う細身の煙管が広まり、羅宇と金属の三部品で出来た作りは、のちに“喧嘩煙管”の物騒な逸話まで生んでいる。

 ヒュミドールの湿度は六五〜七〇%が通例で、乾き過ぎも湿り過ぎも葉を傷める。

 紫郎は瓶の口を一つだけ緩め、香りの“橋”を小瓶に移し替えた。

 蜂蜜の影のような甘さを極限まで薄め、色は無く、触れた指にだけ在る。

 違法性は無い。

 ただ“在った事実”を指先に残す薄さだ。


「北条は外周カメラ、島倉は搬入動線、杉谷は管理室と目録」


「私は大ホール側に張り付きます」


「俺は小ホール」


「課長の『焦るな』は聞いておけ」


「ただ、時計はこっちで進める」


「了解です」


 秤は揺れず、針は零。

 鏡は朝の光を浅く返し、店の温度は“すぐ動ける高さ”のまま保たれていた。


 紫園ホールの搬入口は、午前の割り込みと午後の仕込みが交差する 時間でいつもより忙しかった。

 反射ベストの背中、黒いテープが一本、二本、そして無し。

 フォークリフトの低い唸り。

 ガムテープの刃が紙を裂く音。

 空気は新しい木の樹脂、古い黒幕の埃、薄い粘剤、そして真鍮の乾いた匂いで満ちている。


「入館証、二組。外周カメラは通用口と喫煙スペース、角度よし」


 北条隆司が短く言い、ベストの流れに紛れて離れた。

 目だけで合図を返すと、杉谷が管理室から小走りに来た。

 黒縁の眼鏡の奥、寝不足の赤はあるが目は生きている。


「“朝比奈”(登録名)入りました」


「下手の机で治具を触ってます」


「偽名の可能性は高いですが、現場の動きは正確です」


「箱は」


「各袖に二つずつ」


「大ホールは新旧混在、小ホールは新が二」


「どちらも脚高“四”、蝶番は左寄せが一本混じります」


「左が近い」


「はい」


 大ホールへ向かう天田は、袖の黒い空気に一歩入って呼吸を整えた。

 舞台の光はまだ十分に上がらず、譜面台の金属だけが細く光る。

 下手の机には“巻紙型治具”。

 銀粉の小瓶、無地の巻紙束、布袋。

 治具のベースの角に胡桃油。

 女は軍手の上に薄い手袋、角を押さえる癖。

 踵の返しは無駄が無い。


「香盤表箱、こちらに置きますね」


 舞台監督が若い助手に指示を飛ばす。

 堅木の箱。

 真鍮の取手。

 ラベル“香盤表”。

 蓋は半開き。

 中には紙と鉛筆、ホチキス。

 脚の下のカーペットに“遊び”があり、押せばわずかに沈む。

 “浮く”余地が最初から用意されている。


「開演三分前、入ります」


 場内アナウンス。

 音は薄くなる。

 視線は舞台へ集まる。

 袖の前を塞いでいたスタッフの流れが一瞬だけ緩み、箱の前に“空”が生じる。


「今」


 天田は箱を“見送る目”で見た。

 黒の作業着の男が一人、段差の手前で止まり、左の手で蝶番の隙間に指を入れ、右の手で底の角を軽く持ち上げる。

 『浮かす』。

 脚の下の毛がわずかに逆立ち、薄底が一度だけ呼吸する。

 男は取手裏の二センチの空間に指を滑らせ、黒い封筒を抜き、ほぼ同じ厚さの封筒を差し込んだ。

 薄底を戻し、箱を“座らせる”。

 三十秒もない。

 目を上げないまま闇へ消える。

 踵の返しは左、歩幅は一定。

 利き手は左。


 追わない。

 置く。

 天田は取手の裏に“橋”が薄く残っている事を確かめ、脚の下の毛の向き、蓋の合わせ目の浅い擦れ、薄底の戻る音を耳で覚えた。

 三分が過ぎる。

 舞台の音が戻る。

 朝比奈が箱の縁に触れ、紙を一枚抜く。

 取手には触れない。

 “角”だけを押さえる癖は昨日と同じだった。


 同じ時刻、小ホール。

 紫郎は袖の“切れ目”の陰に身体を納め、箱のラベルのインクの乗り方まで目に入れる。

 新しい箱の紙は少し艶が強い。

 真鍮のビスの頭、一本だけが新しく、銀粉が極薄く乗っている。

 左の手が触れた痕だ。


 袖の“縁”から入ってきた男は、大ホールの男と同じ“作法”で箱を浮かせ、薄底を一度呼吸させ、黒い封筒を差し替えた。

 三分の止まり。

 板のきしみは抑えられ、蓋は閉じない。

 箱は“香盤表”であり続ける。


 紫郎は廊下に出た。

 非常扉の踊り場に、指の腹が触れた“高さ”が残っている。

 さっきの男が手摺に一度だけ触れ、曲がった。

 そこに“橋”が薄く反応する。

 左の手の幅。

 止まる癖。

 戻る癖。

 『三分』の外で付く癖は、消せない。


「外、黒いバン。赤白ステッカー。エンジン停止、二分五十。再始動」


 北条の声が無線に落ちた。

 女は大ホールに戻り、男は小ホール外階段。

 顔は拾えず。

 ただし薄手手袋越しに銀粉の反射を一枚拾えた。


「“反射粉”の粒径、協会のリストと照合」


「回す」


 紫郎は搬入口の陰で箱を一つ見る。

 “戻し”用の予備。

 脚高“四”。

 取手裏の二センチに、触れた者だけが知る浅い擦れ。

 箱は道具であり、道具は正確だ。

 正確な道具ほど“癖”がよく映る。


 仕込みの区切れで、通路の先に佐伯浩一が立っていた。

 眠たげな目、緩いネクタイ。

 粉は踏まない。

 白線を避ける。

 袖の言葉を身体が知っている歩き方だ。


「天田」


「はい、課長」


「『焦るな』は便利な言葉だが、使い過ぎると耳が飽きる」


「飽きる前に仕事を片付けろ」


「はい」


「夜村さん。舞台の物に触りたいなら、手袋は持ち歩け」


「承知した」


 佐伯は笑い、粉も線も踏まずに通路を抜け、扉の向こうに消えた。

 言葉は柔らかい。

 だが、袖の“十五分”“三分”に体が馴染んでいる人間の足だ。

 天田は歩幅を目で量り、紙の端に“在った事実”としてただ一行で書いた。


 夕方前、弦月サービスのヤード。

 薄い雲が港の光を柔らかく砕いている。

 簡易倉庫の棚には、堅木の箱が二つ紐で括られていた。

 ラベル“香盤表”。

 脚高“四”。

 蝶番は左寄せ。

 取手の裏に二センチの空間。

 箱の板材には、紙ではなく木に残る“葉の乾き”が薄く染みている。


「この匂い、“北の乾き”です」


 天田の声は落ち着いている。

 紫郎は箱の縁を指で叩き、薄底の響きを確かめた。

 空洞は小さい。

 だが、黒い封筒が収まる厚みはある。


「――抜く」


 手袋をはめ、真鍮の取手の裏を軽く押し、蓋を半分だけずらし、薄底の角を“持ち上げずに”滑らせる。

 呼吸するように板が浮き、黒い封筒が一枚姿を見せた。

 封緘は糊だけ。

 糸は無い。

 天田が写真を撮り、封を切る。


 中から出てきたのは、原産地証明のコピーと通関番号の走り書き、そして“加工指示”の短いメモだった。

 『BVTブライトバージニア乾/ORオリエント微/LO(葉落)混合/水分値九→六』『ロット統合/港外/北回り/帳尻:鳳章』『通関:別便/“箱”経由』。

 角に小さく『K-12/31』。

 筆記は軽いが、左の手の“入れ”。

 港外で混ぜ、木で運び、袖で換える。

 紙で帳尻を合わせる。


「“港外で混ぜる”……産地偽装を“木箱”で運ぶ」


「紙に乗せると残る。木に乗せれば『香盤表』で通る」


「“帳尻:鳳章”」


「会社名は名札。扉を開ける 為の言葉」


「匂いの仕事は別にある」


 もう一つの封筒は「搬入スケジュール」。

 大ホールと小ホールの三分前後で“交換”が組まれ、黒いバンの“停止”がその外側で呼応する図が、単純な矢印で描かれていた。

 『三分』は偶然ではない。

 仕掛けの枠だ。


 北条が入り口から手を上げた。

 外周カメラの静止画。

 男の肩の線、踵の返し、左の手の幅。

 女の横顔、耳の形、塞がりかけのピアス穴。

 いずれも“顔が映らない”角度ばかりだが、動きは十分に残っている。


「科捜研へ」


「それと、協会に『目録』のコピーを請求したら、『監査部回付』がかかった」


「机の上に朱が増えた」


「『遅くする道具』だ。杉谷は無理をするな」


「向こうから『焦るな』が飛んできたよ」


 北条は苦笑し、すぐに顔を戻した。

 天田は封筒を丁寧に戻し、薄底を“呼吸させず”に閉じた。

 薄底の戻る音は短い。

 箱は“香盤表”の顔を続ける。


「紫郎さん」


「なんだ」


「“三分”が『仕掛けを確かめる 時間』だというのが、これで“在った事実”になりました」


「『止める』『浮かす』『戻す』。三つ同時」


「そして、『名札で扉を開ける』『木で運ぶ』『紙で帳尻を合わせる』」


「手口の筋が出た」


「梶谷礼司さんの名は、どこまで引き寄せますか」


「名はまだ使わない。使うのは“手”だ」


「はい」


 紫郎は板材を鼻先に寄せ、目を閉じた。

 堅木の甘さの奥に、北へ回した風の乾き。

 港に来る前の“運び”。

 その匂いが袖で“交換”され、木が“運び”、紙が“ごまかす”。

 名前は『通す 為』に使われ、三分は『止める 為』に使われる。


「店に戻ろう。『在った事実』を置く」


「了解です」


 夕方、常夜紫煙堂。

 ガラス戸を閉め、照明を一段落とす。

 瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零で止まる。

 鏡の面は曇らず、木目は浅い谷を素直に見せる。


「まとめよう」


「はい」


 天田はノートを開き、今日の“在った事実”だけを箇条書きに置く。

 袖の“香盤表箱”は堅木、脚高“四”、取手裏二センチ、薄底。

 三分の“止まり”に合わせた黒い封筒の“交換”。

 踊り場の手摺に残る“止まる”癖。

 黒いバンの三分停止。

 封筒の“加工指示”。

 『BVT/OR/LO』『水分値九→六』『北回り』『帳尻:鳳章』『通関:別便/“箱”経由』。

 角の『K-12/31』。

 筆跡は左。

 全部が同じ紙に乗る と、薄い線が一本、紙の上を走った。


「次は、どこを押さえますか」


「『箱を倉庫へ戻す 手』だ。三分の外で動く 手」


「弦月の“一時置き”から『箱の行き先』を割る」


「伝票は“協会名義/支払弦月”。『誰が持って行くか』を映像で拾う」


「北条に任せる。杉谷には『配布・回収』の目録を」


「島倉には『脚高の違い』で箱を弾いてもらう」


「課長へは」


「言わなくていい。言うのは、匂いだ」


 天田は頷き、封筒を証拠袋に入れた。

 指先に残っていた薄い香りを嗅ぎ、息を整える。

 甘さの影、乾きの速さ、紙ではなく木に移る匂い。

 その差は“在った事実”だ。


「紫郎さん」


「なんだ」


「……煙は、嘘を吐かない」


「うん」


 紫郎の返事は小さく、しかし確かだった。

 外で橋脚の風が一度だけ低く鳴り、看板の紫が歩道に薄く伸びる。

 匂いは店に留まり、紙は机に残る。

 紙に置いた“在った事実”は、やがて『誰の手』に繋がる。

 焦らず、しかし急いで――時間を“置く”側へ、二人は段取りを整えた。


 夜に入る少し前、ポストに薄い封筒が落ちた。

 中の紙には短い文字がある。

 『十五分は舞台、三分は運搬。――次は“一分”。扉を開けるのに十分だ。 K』。

 紙の端に銀粉は無く、胡桃油の甘い影がわずかに残る。

 布を巻く“左”の癖。

 名前はまだ無い。

 だが、手は近い。


「一分」


「『止まる』『浮かす』『戻す』を、一息でやるという 事だ」


「なら、こちらは『置く』を先に用意する」


「どこに」


「扉の“影”だ。名前で開かない 所」


 紫郎は瓶の口を静かに開け、香りの層を店の中央にごく薄く置いた。

 空気は身を縮め、すぐに戻る。

 秤の皿は閉じ、針は零。

 鏡は曇らない。

 天田は頷き、手帳を胸に当てた。

 言葉は少なく、段取りは短い。

 硬い現実が、静かに組み上がっていく。


「行こうか、天田」


「はい、紫郎さん」


 看板の紫が夜の手前で濃さを増し、商店街の影が長くなる。

 扉の札を“準備中”に反し、二人は静かな歩幅で、次の“一分”に向かった。

 煙は嘘を吐かないという言葉を口にせずとも、店の空気がその形をよく覚えていた。

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