第十六話 袖の十五分、木箱の十五分
「おはようございます、紫郎さん」
朝の風は湿りを軽く含んで、常夜紫煙堂のガラス戸をやさしく押した。
棚の硝子瓶は口を固く結び、黄銅の秤は皿を閉じたまま針を零に置いている。
カウンターには、透明袋に戻した細切りのシャグと、鳳章インテリアの搬入記録、駅ロッカー“312”の使用ログ、協会からの資材リストの控え、そして昨夜ポストに落ちた小さなメモ――『袖で、十五分。――K』がある。
紙の端にだけ、銀粉がひとすじ光っていた。
「おはよう、天田」
鈴が鳴って、天田芽衣子が入ってきた。
制服の襟は整い、目の下の陰は薄くなっている。
掌に入館証の申請書、胸ポケットにメモ帳が見える。
足音が床板に一定の速さで乗った。
「協会の杉谷さんから電話が入りました」
「今日の午後、“紫園ホール”の大ホールと別館の小ホールで、同時に仕込みがあるそうです」
「どちらも『安全対策アドバイザー立会い』」
「“K”か“その手”が入る可能性が高い」
「二手に分けたくなる仕立てだな」
「はい。課長決裁は“監査部経由”で、『焦るな』と」
「いつも通りだ」
紫郎は『袖で、十五分。――K』の紙を光に透かした。
筆圧は軽いが、筆の入りと抜きが舞台の“書き方”だ。
早く書けて、読める。
読みやすく、残らない。
紙の隅に爪の跡が一つある。
利き手は右で、指先は薄い粘剤で荒れている。
「“見てほしい”十五分だ」
「挑発ですか」
「挑発であり、合図でもある」
「合わせる」
「合わせる?」
「袖の十五分に、こちらの十五分を重ねる」
「空の箱を『置く』」
「中身は匂いだけだ」
「囮ですか」
「囮というより『時間の型』だ」
「中身は持たない」
「持つのは『在った事実』だけ」
鈴が短く鳴り、北条隆司が顔を出した。
背広の肩に紙粉、コートの裾に潮の匂い。
手には折り畳んだ地図と、外周カメラの設置一覧がある。
「昼に外周カメラを二台増やせる」
「小ホールの通用口と、搬入口横の喫煙スペースに置く」
「映像は署の箱を通す。『焦るな』の枠でな」
「助かる」
「それと、島倉から伝言だ」
「『袖の香盤表箱がやけに新しい。中身は紙なのに、木の匂いが強い』とよ」
「香盤表箱……」
場内の進行表やキューシートを袖に置く箱は、普通は合板かプラだ。
木箱なら、匂いが“付けられる”。
箱に見せかけた箱は、ずっと“箱”の役を続ける。
紫郎は瓶の口を一つだけ緩め、空気に薄い層を置いた。
工具箱の引き出しから小瓶を取り出す。
蜂蜜の影のような甘さを極限まで薄めた層で、色は無い。
触れた指にだけ在る。
「これは」
「壁ではなく『橋』だ」
「通った手にだけ残る」
「舞台の匂いを邪魔しない薄さにした」
「合法の範囲でお願いしますね」
「もちろんだ」
秤の皿は閉じたまま、針は零で静かだ。
鏡の面は朝の光を静かに返し、店の温度は一定だった。
葉巻の木箱でよく使われるスパニッシュシダーは、植物学ではセドラ(Cedrela odorata)であり真正の杉ではないが、香りと防虫性からヒュミドールの内張りに使われてきた。
ヒュミドールは相対湿度六八〜七二%が目安とされ、五〇%のプロピレングリコール水溶液が七〇%前後で湿度を安定させると説明される。
紙巻のフィルターはセルロースアセテートが主流で、紙自体は木材パルプ由来のセルロースが基材だ。
日本に煙草が伝わったのは十六世紀末にポルトガル人がもたらしたとする説が一般的で、江戸期には煙管が広く用いられた。
葉の乾燥法にはバージニアのフルキュア(温風乾燥)、バーレーのエアキュア(陰干し)、オリエントのサンキュア(日干し)があり、加工香と煙の質を大きく左右する。
ーーー
紫園ホールの裏手は、昼前だというのに人と台車が交差していた。
反射ベストの背中が往き、黒いテープが一本、二本、そして何も貼っていない背中が混ざる。
フォークリフトの低い音と金属の扉の開く音が重なる。
空気は木の樹脂と紙の埃、薄い粘剤と古い黒幕の匂いで満ちている。
「受付済みです。こちら、大ホールの入館証」
「小ホールは杉谷さんが押さえてくれました」
天田が入館証を渡し、北条は喫煙スペースの位置を目で確かめ、外周カメラの角度を押さえた。
「俺は通用口の外で『待つ』」
「お前らは袖の十五分を見ろ」
「追うな。置け」
「了解」
杉谷が息を切らして現れた。
黒縁の眼鏡の下に寝不足の赤があり、しかし目は生きている。
「朝比奈さん、います」
「登録は『舞台進行・フリー』」
「偽名の可能性は高いですけど、袖の下手で治具を触ってます」
「合わせるぞ」
「はい」
「袖の十五分に、箱を置く」
大ホールの袖は、舞台の音を吸い込む黒い空気の巣だった。
譜面台の金属が細く光り、照明の角度がわずかに動く。
袖の下手、机の上には木製のベースに金属のスロット、細いピンで幅を可変に出来る巻紙型治具がある。
銀粉の小瓶と無地の巻紙束、布の袋が並ぶ。
胡桃油がほんのわずか匂う。
柱の影に、背の高い女が立っていた。
フードの陰は無く、髪は襟足で束ねられ、耳たぶの古いピアス穴が一つ見える。
軍手の上に薄い手袋を重ね、角を押さえる癖がある。
踵の返しに無駄が無い。
「朝比奈さん、ですよね」
天田が“現場の言葉”で声を掛ける。
女は視線を上げず、短く頷いた。
「協会の杉谷さん、こちらでの連絡、通ってます」
「通してある」
「香盤表箱、どこに置きます」
「下手の幕の切れ目。袖の端、段差の手前」
「十五分、止めるんですね」
「止めるのは『煙』。時間じゃない」
会話は短く、必要だけだ。
女は治具のピンを抜き、幅を狭め、巻紙を三枚、斜めに切り上げる。
切り口は甘く、刃は新しくない。
帯の印は『K-12/31』。
手順は正確だが、刃の角が丸い。
天田は写真を撮り、紫郎は机の端に『橋』を薄く置いた。
見えない。
邪魔をしない。
触れた指にだけ在る。
「小ホール、動きます」
杉谷が小声で告げ、天田は頷いた。
北条から無線が落ちる。
「外、設置完了」
「通用口の影に、反射ベストが三」
「テープは一本、二本、無し。混ぜてきたな」
「了解」
袖に、木箱が運ばれてきた。
光沢を抑えた堅木の箱で、角の面取りが丁寧だ。
蓋の合わせ目は薄く、取手は真鍮だ。
貼られたラベルには『香盤表』とある。
だが、箱自体の匂いが主役だ。
木の甘さと胡桃油、シダーの影。
葉巻の箱を思わせるが、作りは舞台の道具寄りだ。
「新しい」
天田が呟き、紫郎がうなずく。
女は箱を定位置――下手の幕の切れ目の段差の手前に置いた。
置く角度に迷いは無い。
舞台監督が通り、キューシートの束を受け取り、箱の中へ入れる。
蓋は閉めない。
中身は随時出し入れされるからだ。
その瞬間、場内アナウンスが薄く流れ、排煙がふっと弱くなった。
舞台上の薄い煙が止まる。
十五分だ。
時計は三分だけ前へ出ている。
袖の空気が、昨日と同じ“止まる”感触を持った。
「今」
紫郎は箱の縁に指を滑らせ、真鍮の取手の裏に『橋』を置いた。
天田は箱の脚の下、床との接地の“遊び”に、目に見えない紙片を一枚滑り込ませた。
紙片には香りがほんの薄く塗ってある。
誰かが箱を持ち上げれば、紙は床に残る。
残れば『在った事実』が残る。
女は治具を片づけ、袖の外へ滑った。
追わない。
置く。
舞台上では音が止まり、舞台監督が「十分押し」と短く告げた。
箱の前を人が行き来し、紙の束が出入りする。
十五分の“止まり”は、便宜でもあり、罠でもある。
「北条です。外、動き有り」
「黒テープ二本の背中が、小ホールの通用口へ」
「次は一本が大ホール側へ流れた」
「入って来る」
背中に“現場の気配”を纏う男が一人、袖の光の縁から入ってきた。
反射ベストは着ていないが、靴音は“踏まない”。
段差の手前で止まり、箱の蓋に指を掛け、片手でキューシートの束を払い、底を確かめる動作をする。
早い。
迷いが無い。
利き手は左で、指先に油の光がある。
「左利き」
天田が息を潜め、紫郎は鏡の面越しに男の手を見た。
真鍮の取手の裏に触れる。
触れた指に『橋』が残る。
男は底を叩き、軽さを確かめ、蓋の蝶番に視線を落とした。
蝶番は二本で、片方だけ新しい。
新しい方のビスの頭に、銀粉が極薄く乗っている。
男は視線を上げず、蓋を戻し、袖の闇に消えた。
「今の男、登録は」
「搬入助手・臨時。名は『三谷』。今日付の紙。顔写真は無し」
「紙の三谷か」
「はい」
紫郎は箱の前に立ち、蓋の合わせ目の空気を嗅いだ。
木の甘さに、薄い紙の乾きが混じる。
そこに、昨夜の“北の乾き”の影が、微かだが在る。
箱の中身は紙だが、箱そのものが“運ぶ”。
匂いは箱に付く。
付いた匂いは、手に伝わる。
「小ホールから呼び出し」
杉谷が駆け戻った。
額に汗がにじみ、目は急ぎの光を帯びる。
天田は即座に頷き、紫郎と視線を交わした。
「俺は大ホールを押さえる。北条は外」
「天田、小ホールへ」
「了解」
天田は走らず、速く歩いた。
小ホールの袖は大ホールよりも狭く、人の動線が絡まりやすい。
そこにも香盤表箱があり、材は同じ堅木だ。
ラベルは『香盤表』だが、蓋の蝶番の位置が違う。
左寄りだ。
利き手が左の者が付けた癖が見える。
箱の脚の下には、床との間に微かな“遊び”がある。
そして、白い紙片が一枚、床へ落ちていた。
『在った事実』が残っている。
紙片をピンセットで拾い、袋に入れる。
天田は箱の蓋の取手裏をそっと覗いた。
真鍮の裏に、極薄い光沢がある。
『橋』の向こう側にも触れた手がいる。
「合わせている」
袖の空気が、十五分で止まる。
舞台の煙が薄くなり、スタッフが一斉に“脚”を止める。
箱に紙が入り、紙が出る。
十分、十二分、十五分。
再び、動き出す。
廊下で、反射ベストの背中がすれ違った。
黒テープが一本で、踵の返しと歩幅が昨日の女に似ている。
だが肩が広い。
男の体格だ。
袖から廊下へ抜ける動線を天田が目で追ったとき、通用口の外で北条の声が無線に落ちた。
「外、通過」
「女、フード無し。耳の形一致」
「『朝比奈』が大ホール側に戻る。男は小ホールから別の階段。分かれた」
「了解」
天田は追わない。
目の前の箱の脚の跡を見る。
脚の下のカーペットの毛が、十五分だけ逆立って、そこだけ向きが違う。
箱は十五分のあいだ“浮いた”。
浮いた理由は一つ。
底に手を入れる為だ。
底に“空”を作れば、何かが出入り出来る。
通路の角で、島倉誠一が工具箱を抱えて立っていた。
汗で前髪が額に張り付き、手は黒い。
昔の大道具で、今は運搬の手伝いだ。
「島倉さん」
「小ホールの箱、脚の高さが『四』だ」
「大ホールは『三』。木口の切り方が違う」
「左の手が切ってる」
「左」
「昔の所作だよ。左に置く奴は左で測る」
島倉の言葉は短く、確かだ。
天田は小さく頷き、箱の周囲の空気をもう一度吸い込んだ。
胡桃油、紙の乾き、銀粉、粘剤が重なる。
そして、乾いた葉の匂いが、箱の板材に薄く染み込んでいる。
紙ではなく木が、匂いを運んだ。
「紫郎さん。大ホールは」
「今、箱の蝶番を見た。ビスの頭に銀粉がある。新しい方だけだ」
「左の手がやった」
「『三谷』ですか」
「紙の三谷か、三谷の名を借りた誰かか。どちらでも手は残る」
天田は手袋を替え、証拠袋に紙片をしまい、杉谷に目で合図を送った。
「杉谷さん。今日のうちに協会の配布物と回収物の目録、押さえられますか」
「やってみます」
「監査部が入ってきて、机の上に朱が増えてますけど」
「朱は『遅くする道具』です」
「はい」
戻り際、舞台袖の暗がりで、佐伯浩一が立っていた。
眠たげな目に緩いネクタイで、粉は踏まない。
白線を避け、袖の“十五分”に身体が慣れている歩き方をする。
彼は天田に視線を寄越し、声を落とした。
「天田。『焦るな』は命令じゃない。配慮だ」
「分かっています」
「ならいい。現場の空気は甘い。吸い過ぎると足を滑らすぞ」
「はい」
佐伯は笑い、舞台の方へ視線を投げてから、袖の出口へ消えた。
粉を踏まない足で、通路の白線を踏まない癖がある。
天田は胸の奥で息を整え、歩幅を一つ伸ばした。
ーーー
常夜紫煙堂に戻ると、午後の光は紫の看板で柔らかく折られていた。
ガラス戸を閉め、照明を一段落とす。
瓶の唇は同じ高さで囁き、秤の針は零。
鏡の面は薄く曇り、すぐに消えた。
「まとめよう」
「はい」
天田はノートを開き、今日の在った事実だけを箇条書きに置いた。
大ホールと小ホールで同時に十五分の“止まり”があった。
香盤表箱は新しい堅木で、胡桃油が使われている。
真鍮取手裏に薄い光沢があり、蝶番の一本だけが新しく、ビスの頭に銀粉があった。
脚の高さは『三』と『四』で違い、どちらも左寄せの癖が見えた。
『紙の三谷』。
外周カメラの女『朝比奈(登録名)』。
小ホールの床に紙片が残り、箱の板材に薄く“葉の匂い”が染みていた。
全部を同じ紙に置くと、薄い筋が一本、紙の上を走った。
「紫郎さん」
「なんだ」
「箱そのものが“運ぶ”。紙じゃなく、木が」
「そうだ。紙は検められる。木は舞台の道具だ。『香盤表』と書いてあれば、誰も疑わない」
「港から“北の乾き”を含んだ葉が箱に触れ、箱が袖に入り、十五分で『空』が出来て、中身だけが移動する」
「そして箱は『香盤表』として残る。匂いだけを連れて」
「証拠は弱いです」
「弱い。だが、手は強い」
北条が椅子に腰を下ろし、外周カメラの静止画を二枚、カウンターに出した。
女の横顔の断片、男の肩の線、耳の形、踵の返しが並ぶ。
ピアス穴は古く、塞がりかけだ。
肩の広い男の方は、手の返しが左で、袋を持つ位置が右だ。
小さな癖が揃い始めた。
「科捜研に回した。既知データの一致は出るかもしれんが、名はまだ来ない。で、どうする」
「箱を追います」
「港に?」
「港にも。だが、まず協会の目録。今日の配布と回収。弦月のヤードの一時置きも見る」
「香盤表箱が倉庫に紛れていないか」
「分かった。俺は弦月へ回す。……それと、店の前の角に紙が一枚落ちたぞ」
天田が拾った。
白い紙に小さな文字で『十五分の次は、三分。――K』とある。
紙の端に指で押したような銀粉の影がつく。
三分は短く、止まらない。
切る為の三分だ。
煙を切れば、匂いは“層”で残る。
「短く、速く。追わせない為に」
「追わない。置く」
紫郎は瓶の口を静かに開け、香りの層を店の中央にごく薄く置いた。
空気は身を縮め、すぐに戻る。
秤の皿は閉じ、針は零。
鏡は曇らない。
「天田」
「はい」
「『十五分』は舞台だ。『三分』は運搬だ。向こうは止める時間と切る時間を使い分けている」
「私達は『置く時間』を作る」
「そうだ」
「紫郎さん」
「なんだ」
「煙は、嘘を吐かない」
「うん」
外で橋脚の風が低く鳴り、看板の紫が歩道に薄く伸びた。
匂いは店に留まり、紙は机に残る。
紙に残った在った事実は、やがて『誰の手』に繋がる。
焦らず、しかし急いで、時間を『置く』方へ二人は歩き出した。




