第十話 湿度は時間を暴く
朝いちばんの川風が鉄と水の匂いを混ぜて、常夜紫煙堂のガラス戸を撫でた。
鈴は鳴らず、戸の桟だけが小さく軋む。
壁の湿度計は五十六%。
昨夜は五十七%。
一目盛り、乾いた。
黄銅の秤は皿を閉じ、針は零。
棚の硝子瓶は口を結び、唇の囁きは“朝の高さ”で安定している。
カウンターには薄い陶器皿が三枚。
左から、塩の粒、巻紙の切れ端、両切りの灰。
灰は月乃台分室の桜の根元から拾った九つのうちの一つ。
輪郭は細く、先端が右へ少し折れている。
紫郎は皿の縁を指で撫で、粉そのものではなく“湿りの重さ”を測るように息を整えた。
「おはようございます、紫郎さん」
鈴が鳴き、天田芽衣子が入ってきた。
襟元の布に細い皺、肩の雨粒はすでに乾いている。
眠気をならした目が、湿度計→灰皿→瓶の列の順で止まる。
「おはよう、天田」
「湿度、五十六。」
「……今日はこの数字、手がかりになりますか」
「なる。」
「灰が素直に折れる境目だ。」
「塩の角が落ちる速さ、巻紙の微孔が吸う空気の量、火の走り方。」
「どれも湿りに従う」
「つまり“何時に”“どんな場所で”吸ったか、湿度が教える」
「そういうこと」
紫郎は「No.18 試作31」と鉛筆で端に書いた小瓶を取り、ラベルの字の凹みを指で確かめる。
口をほんの少し緩めると、蜂蜜に似た甘い香りが空気の上に薄い膜を作った。
香りは高く飛ばず、水平に広がって梁で止まる。
入口の内側に“匂いの壁”ができる高さだ。
商店街のシャッターが一枚ずつ半分だけ降り、外の音が薄くなる。
紫郎は塩をつまんで別の皿へ移し、霧吹きの一滴を近づける。
角は丸くなり、崩れる速さは三十秒。
昨夜、桜の根元で数えたのは四十秒。
夜の露の遅さと朝の乾きが、数字で差になった。
「持ってきた」
鈴がもう一度鳴き、北条隆司が封筒を掲げた。
背広の肩に紙粉、眼鏡に薄い埃。
息は少し荒い。
「分室の空調盤と倉庫側の除湿機のログ。」
「管理会社から正式に」
「助かる」
封筒を開く。
時刻、設定値、実測値。
数字の列が朝の光を跳ね返す。
体育館裏の分室は、深夜二時三十分から四時の間、湿度が“きれいに一直線”で落ちている。
五十九→五十六。
二十五分刻みで均等。
倉庫のログは同時間帯に除湿機のオン・オフを細かく二回切り替え。
「センサーなら、波打つはずですよね。」
「直線は変です」
「人の手で“間引き”して整えた線だ。」
「見た目だけ綺麗にしてある。」
「……でも匂いと灰は誤魔化せない」
「“誰か”が五十六%を狙って落とした可能性」
「狙いは時間だ。三時を跨いでいる」
「三時?」
「ビルの自動切替が一度入る時刻。自動に人手を重ねると、グラフは教科書みたいに真っ直ぐになる」
天田は別紙を抜いた。
分室の設備点検票。
「乾燥剤補充」と雑な手書き。
サイン欄は「黄瀬」。
時刻は五時。
ところが鍵の貸出簿は“四時半に返却”。
三十分のズレ。
「辻褄が合いません」
「サインの筆圧を見せて」
紙を横から光に透かす。
圧は軽いが、字形の外に横滑りが二本。
ボールペンの先を上げ下げした癖。
練習の跡。
サインに不慣れな手。
「“押されて書いた”可能性が高い」
「『安全対策アドバイザー』の名刺束、課長が押収しました。」
「管理会社は“外部コンサル扱い”にしてる」
「名刺は」
「課長が監査部に回すって。」
「今朝の便で」
北条は肩をすくめたが、声は安定している。
紫郎は頷き、小瓶の口を閉めた。
「灰に水をやるより、空気に時間をやる。」
「店で再現する。」
「五十六%と六十一%で」
「了解」
加湿器と除湿機を出し、壁のコンセントへ。
空気がわずかに重くなり、針は五十七→五十六に落ち着く。
扉は閉め、外風は止める。
音は瓶の唇だけ。
九つの灰のうち二つを皿に分け、それぞれの空気に二十分あてる。
天田はガーゼを用意し、輪郭の“写し取り”を待った。
「その間に電話」
北条は管理会社の小柳へ。
短いやりとりの中に「梶谷」「弦月サービス」「納入記録」。
切ると同時にメモ。
「排気ダクトの先に仮設の冷却ドラム。」
「“弦月サービス”のステッカー。」
「昨夜、活性炭フィルターを交換。」
「担当は梶谷。」
「小柳いわく“アドバイザーの指示で三時に吸気を止めた”」
「何分止めた?」
「『湿りが整うまで』。」
「具体は言わず。」
「十五分くらいだと」
「曖昧な指示は覚えやすい。」
「……よし、二十分」
二十分後。
五十六%の灰は先端が細くしなり、右に折れる。
六十一%では折れず、先端は太いまま。
天田はガーゼで輪郭を写し、昨夜の九つと重ねる。
三つがよく重なり、ほかも形が寄る。
「再現出来ました」
「“あの九つ”は五十六%近辺の空気で置かれた」
「ログの直線は、五十六%を狙った線」
「三時十五分に境目ができた。」
「……“外”で動く為の十五分だ」
鈴が鳴く前に、通用口の影がカウンターの端に伸びた。
眠たげな目、緩いネクタイ。
この男の声は今日も柔らかい。
「まあまあ、焦るな。手順通りでいい」
「課長」
天田は姿勢を正し、北条は封筒を差し出す。
佐伯浩一は手袋をはめ、封印テープの角をそっと押さえ、写真→立会印→台帳収納までを教科書どおりに進めた。
形式通り、過不足無し。
「空調ログは監査部へ。外へ出すな。管理会社の小柳からも聴取する。……君達、無理はするな」
「はい」
「吸気口の格子、写真は」
「角度を変えて三枚、撮影済みです」
「よろしい」
佐伯は店の空気を一呼吸だけ嗅ぎ、湿度計の五十六%に一瞬視線を止めた。
だが何も言わず、白い床ラインをまたぐ前に係員へ「越えてよいか」と確認し、静かに鈴を鳴らして出ていった。
印象は“几帳面な上司”といった佇まい。
「……今日はただの『焦るな』に聞こえました」
天田が息を吐く。
紫郎は頷き、秤の皿に指先を置く。
黄銅が一度だけ薄く鳴る。
「そういう日もある」
「私、疑いすぎてましたか」
「疑うのは警官の癖だと思う」
「癖は動きになる」
「動きは乱しすぎない方がいい」
天田は小さく笑い、ガーゼの角を整えた。
店の湿度は五十六%で安定。
瓶の唇は同じ高さで囁く。
ーーー
午後、分室へ。
通用口は湿った木の匂いと古い膠の甘さ。
換気扇の金属縁には“拭き跡”。
指でなぞるとザラつきが返る。
舞台裏の机にはコピー用紙、ホチキス、小さなゴミ箱。
底に潰れたシリカゲル(乾燥剤)の小袋。
「青→ピンクで交換」の印字。
端にピンクの濡れ跡。
「乾燥剤、交換済み」
「サインは黄瀬。……鍵の貸出簿は四時半返却。サインは五時」
「つまり“中にいる誰か”が別のキーを持ってる。貸出簿が全てじゃない」
北条が裏手の排気ラインを見て戻る。
仮設ドラムの継手に赤白ステッカー。
活性炭フィルターの内側はタールの茶帯。
そして帯の途中に“止めた波”。
ふいごのように吸気を断続させた痕だ。
「誰かが空気を“手で操作”している」
「容疑者達のスマホに共通した電話番号……恐らく梶谷のものだとは思う……だが、電話に出ず。小柳は“アドバイザーの指示だった”の一点張り」
天田は黙って頷き、吸気口の格子に光を当てる。
灰が当たって跳ねた微かな痕の向きは、まだ残っている。
「戻ろう。夜に“壁”を置く」
ーーー
夕方、常夜紫煙堂。
赤い提灯が橋脚で砕けた風に揺れる。
湿度計は五十六%。
紫郎はNo.18の小瓶を少しだけ開け、ガラス戸の内側とカウンター端に香りの“壁”を伸ばす。
入口から一歩の地点で香りが薄く止まる。
「北条さんは裏。紫郎さんは応対を。……私は、鈴の“鳴らない揺れ”を隠れて見ます」
「了解」
金具がわずかに擦れ、鈴は鳴らずに止まる。
鏡の面に白い曇りが一瞬だけ咲き、消えた。
息の高さは、天田のものではない。
「来て、やめた」
「匂いの壁に触れた」
紫郎は二呼吸だけ待つ。
湿度計は五十六%で動かない。
灰皿の縁で灰が細く崩れ、先端が右へ少し折れて止まる。
ネオンの影が、その折れに沿って細い刃を作る。
鈴が短く鳴り、黒いフードの影が店へ滑り込む。
顔は見えない。
手は乾き、爪縁に紙粉。
腕時計は右。
滑り止めの粉を触った手ではない。
「いらっしゃいませ」
天田が息を潜め隠れる。
影はゆっくり頭を下げ、低めの声を作った。
「巻紙を」
「こちらでよろしければ」
天田が一般の巻紙を差し出すと、影は横に振る。
「K-12/31を」
紫郎は意図的にゆっくり瞬く。
「それは、扱っていない」
「ここにある」
影の視線が、カウンター奥の銀のケースへ。
鏡、布、口紅の粉、塩、巻紙――昨夜の分室の配置を写した“検証キット”。
商品ではなく、証拠だ。
「警察です」
天田が手帳を開く。
影は肩を落とし、逃げない。
逃げないのは、逃げても無駄か、逃げる必要がないか。
「お名前を」
「……黄瀬」
「会計の黄瀬さん。」
「空調ログの“直線”、あなたが触りましたね」
「書き換えなんてしてません。」
「私は鍵と紙の出納だけです」
「乾燥剤の補充サイン。」
「鍵は四時半返却なのに、五時に押している。」
「横滑りの跡。」
「練習の跡。」
「――“押させられた”」
黄瀬の唇が震える。
指先もわずかに震える。
震えは、嘘より正直だ。
「『安全対策アドバイザー』は誰です」
「……言えません」
「言えない?」
「言ったら、仕事が……」
「仕事のために、三時に換気を止めた」
「私は……『吸気が荒れるから三時に止めろ』と言われて。」
「十五分だけ。」
「五十六%になるまで」
「ログは二十五分刻み。」
「十のズレで“外”が動く」
北条のスマホが震える。
「裏に黒いワゴン。赤白ステッカー。運転手一人。降りず」
店の空気が一段重くなる。
紫郎は瓶の口を開け、すぐ閉じる。
香りの壁が淡く揺れ、収まる。
鏡の面に細い曇りが咲いて消える。
誰のものとも断定しない息。
紫郎は灰を見たまま、低く言った。
「……煙は嘘を吐かない」
天田は顔を上げるが、問い返さない。
言葉は木目に沈み、紫の看板で止まる。
「黄瀬さん。“言えない”のは分かった。
なら、ここに“置いていって”」
「何を」
「時間。三時に、何があった」
「三時……」
「湿度が真っ直ぐ落ちた“理由”」
沈黙。
鈴は鳴らず、外のワゴンは動かない。
時間だけが湿りを持って店に流れ込む。
「……換気扇を止めました」
「誰に指図された?」
「“アドバイザー”に。名前は言えません。でも、私がやりました。私のサインです」
「分かった」
紫郎は秤の皿に指を置く。
黄銅が一度だけ鳴る。
「あなたはここで“人を傷つけて”はいない。」
「だが『時間を作った』。」
「その時間が、どこかの“十”を支えた」
黄瀬は小さく頷く。
息は乱れていない。
北条が合図し、天田が静かに手を添える。
外のワゴンはゆっくり動き、角で消えた。
追わない。
追えない時は、記録して残す。
「紫郎さん」
「うん」
「湿度で、こんなに“見える”んですね」
「湿りは時間を抱える。乾きは嘘を剥がす。灰も、塩も、紙も」
「課長にはどう伝えますか」
「こちらからは伝えない。伝えるのは、湿度計とログだ」
天田は短く笑い、芯は強い。
スマホが震える。
佐伯から。
『台帳受領。監査部受付番号××。無理はするな』
事務的で温い短文。
疑いも安心も、同じだけ残す文章。
紫郎は灰皿を中央へ寄せ、小瓶の口を指で撫でる。
唇は朝と同じ高さで囁き、湿度計は五十六%。
秤の針は零。
鏡の面には先ほどの曇りの縁がうっすら残り、店の灯りを柔らかく広げた。
「次は“間”ですね。分室と倉庫の間」
「間は語る。壁を置く。伸びた匂いは、触れた手を覚える」
「覚えられるの、犯人は嫌がりますよ」
「嫌がるなら、なお良い」
天田の目に小さな光。
疑いと信頼のあいだで揺れる光だ。
ガラス戸の外を提灯の赤が横切る。
影は長く、夜は近い。
三時十五分、五十六%。
数字は誰のものでもなく、ただ“事実”として残る。
紫郎は吸い殻の折れをもう一度確かめ、静かに息を吐いた。
右へ折れて、そこで止まる。
止まった先に“十”がある。
十を打つ手はまだ見えない。
だが、湿度は時間を暴く――そして、煙は嘘を吐かない。




