表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/50

第十話 湿度は時間を暴く

 朝いちばんの川風が鉄と水の匂いを混ぜて、常夜紫煙堂のガラス戸を撫でた。

 鈴は鳴らず、戸の桟だけが小さく軋む。

 壁の湿度計は五十六%。

 昨夜は五十七%。

 一目盛り、乾いた。

 黄銅の秤は皿を閉じ、針は零。

 棚の硝子瓶は口を結び、唇の囁きは“朝の高さ”で安定している。


 カウンターには薄い陶器皿が三枚。

 左から、塩の粒、巻紙の切れ端、両切りの灰。

 灰は月乃台分室の桜の根元から拾った九つのうちの一つ。

 輪郭は細く、先端が右へ少し折れている。

 紫郎は皿の縁を指で撫で、粉そのものではなく“湿りの重さ”を測るように息を整えた。


「おはようございます、紫郎さん」


 鈴が鳴き、天田芽衣子が入ってきた。

 襟元の布に細い皺、肩の雨粒はすでに乾いている。

 眠気をならした目が、湿度計→灰皿→瓶の列の順で止まる。


「おはよう、天田」


「湿度、五十六。」

「……今日はこの数字、手がかりになりますか」


「なる。」

「灰が素直に折れる境目だ。」

「塩の角が落ちる速さ、巻紙の微孔が吸う空気の量、火の走り方。」

「どれも湿りに従う」


「つまり“何時に”“どんな場所で”吸ったか、湿度が教える」


「そういうこと」


 紫郎は「No.18 試作31」と鉛筆で端に書いた小瓶を取り、ラベルの字の凹みを指で確かめる。

 口をほんの少し緩めると、蜂蜜に似た甘い香りが空気の上に薄い膜を作った。

 香りは高く飛ばず、水平に広がって梁で止まる。

 入口の内側に“匂いの壁”ができる高さだ。


 商店街のシャッターが一枚ずつ半分だけ降り、外の音が薄くなる。

 紫郎は塩をつまんで別の皿へ移し、霧吹きの一滴を近づける。

 角は丸くなり、崩れる速さは三十秒。

 昨夜、桜の根元で数えたのは四十秒。

 夜の露の遅さと朝の乾きが、数字で差になった。


「持ってきた」


 鈴がもう一度鳴き、北条隆司が封筒を掲げた。

 背広の肩に紙粉、眼鏡に薄い埃。

 息は少し荒い。


「分室の空調盤と倉庫側の除湿機のログ。」

「管理会社から正式に」


「助かる」


 封筒を開く。

 時刻、設定値、実測値。

 数字の列が朝の光を跳ね返す。

 体育館裏の分室は、深夜二時三十分から四時の間、湿度が“きれいに一直線”で落ちている。

 五十九→五十六。

 二十五分刻みで均等。

 倉庫のログは同時間帯に除湿機のオン・オフを細かく二回切り替え。


「センサーなら、波打つはずですよね。」

「直線は変です」


「人の手で“間引き”して整えた線だ。」

「見た目だけ綺麗にしてある。」

「……でも匂いと灰は誤魔化せない」


「“誰か”が五十六%を狙って落とした可能性」


「狙いは時間だ。三時を跨いでいる」


「三時?」


「ビルの自動切替が一度入る時刻。自動に人手を重ねると、グラフは教科書みたいに真っ直ぐになる」


 天田は別紙を抜いた。

 分室の設備点検票。

「乾燥剤補充」と雑な手書き。

 サイン欄は「黄瀬」。

 時刻は五時。

 ところが鍵の貸出簿は“四時半に返却”。

 三十分のズレ。


「辻褄が合いません」


「サインの筆圧を見せて」


 紙を横から光に透かす。

 圧は軽いが、字形の外に横滑りが二本。

 ボールペンの先を上げ下げした癖。

 練習の跡。

 サインに不慣れな手。


「“押されて書いた”可能性が高い」


「『安全対策アドバイザー』の名刺束、課長が押収しました。」


「管理会社は“外部コンサル扱い”にしてる」


「名刺は」


「課長が監査部に回すって。」


「今朝の便で」


 北条は肩をすくめたが、声は安定している。

 紫郎は頷き、小瓶の口を閉めた。


「灰に水をやるより、空気に時間をやる。」

「店で再現する。」

「五十六%と六十一%で」


「了解」


 加湿器と除湿機を出し、壁のコンセントへ。

 空気がわずかに重くなり、針は五十七→五十六に落ち着く。

 扉は閉め、外風は止める。

 音は瓶の唇だけ。

 九つの灰のうち二つを皿に分け、それぞれの空気に二十分あてる。

 天田はガーゼを用意し、輪郭の“写し取り”を待った。


「その間に電話」


 北条は管理会社の小柳へ。

 短いやりとりの中に「梶谷」「弦月サービス」「納入記録」。

 切ると同時にメモ。


「排気ダクトの先に仮設の冷却ドラム。」

「“弦月サービス”のステッカー。」

「昨夜、活性炭フィルターを交換。」

「担当は梶谷。」

「小柳いわく“アドバイザーの指示で三時に吸気を止めた”」


「何分止めた?」


「『湿りが整うまで』。」

「具体は言わず。」

「十五分くらいだと」


「曖昧な指示は覚えやすい。」

「……よし、二十分」


 二十分後。

 五十六%の灰は先端が細くしなり、右に折れる。

 六十一%では折れず、先端は太いまま。

 天田はガーゼで輪郭を写し、昨夜の九つと重ねる。

 三つがよく重なり、ほかも形が寄る。


「再現出来ました」


「“あの九つ”は五十六%近辺の空気で置かれた」


「ログの直線は、五十六%を狙った線」


「三時十五分に境目ができた。」

「……“外”で動く為の十五分だ」


 鈴が鳴く前に、通用口の影がカウンターの端に伸びた。

 眠たげな目、緩いネクタイ。

 この男の声は今日も柔らかい。


「まあまあ、焦るな。手順通りでいい」


「課長」


 天田は姿勢を正し、北条は封筒を差し出す。

 佐伯浩一は手袋をはめ、封印テープの角をそっと押さえ、写真→立会印→台帳収納までを教科書どおりに進めた。

 形式通り、過不足無し。


「空調ログは監査部へ。外へ出すな。管理会社の小柳からも聴取する。……君達、無理はするな」


「はい」


「吸気口の格子、写真は」


「角度を変えて三枚、撮影済みです」


「よろしい」


 佐伯は店の空気を一呼吸だけ嗅ぎ、湿度計の五十六%に一瞬視線を止めた。

 だが何も言わず、白い床ラインをまたぐ前に係員へ「越えてよいか」と確認し、静かに鈴を鳴らして出ていった。

 印象は“几帳面な上司”といった佇まい。


「……今日はただの『焦るな』に聞こえました」


 天田が息を吐く。

 紫郎は頷き、秤の皿に指先を置く。

 黄銅が一度だけ薄く鳴る。


「そういう日もある」


「私、疑いすぎてましたか」


「疑うのは警官の癖だと思う」

「癖は動きになる」

「動きは乱しすぎない方がいい」


 天田は小さく笑い、ガーゼの角を整えた。

 店の湿度は五十六%で安定。

 瓶の唇は同じ高さで囁く。


ーーー


 午後、分室へ。

 通用口は湿った木の匂いと古いにかわの甘さ。

 換気扇の金属縁には“拭き跡”。

 指でなぞるとザラつきが返る。

 舞台裏の机にはコピー用紙、ホチキス、小さなゴミ箱。

 底に潰れたシリカゲル(乾燥剤)の小袋。

「青→ピンクで交換」の印字。

 端にピンクの濡れ跡。


「乾燥剤、交換済み」


「サインは黄瀬。……鍵の貸出簿は四時半返却。サインは五時」


「つまり“中にいる誰か”が別のキーを持ってる。貸出簿が全てじゃない」


 北条が裏手の排気ラインを見て戻る。

 仮設ドラムの継手に赤白ステッカー。

 活性炭フィルターの内側はタールの茶帯。

 そして帯の途中に“止めた波”。

 ふいごのように吸気を断続させた痕だ。


「誰かが空気を“手で操作”している」


「容疑者達のスマホに共通した電話番号……恐らく梶谷のものだとは思う……だが、電話に出ず。小柳は“アドバイザーの指示だった”の一点張り」


 天田は黙って頷き、吸気口の格子に光を当てる。

 灰が当たって跳ねた微かな痕の向きは、まだ残っている。


「戻ろう。夜に“壁”を置く」


ーーー


 夕方、常夜紫煙堂。

 赤い提灯が橋脚で砕けた風に揺れる。

 湿度計は五十六%。

 紫郎はNo.18の小瓶を少しだけ開け、ガラス戸の内側とカウンター端に香りの“壁”を伸ばす。

 入口から一歩の地点で香りが薄く止まる。


「北条さんは裏。紫郎さんは応対を。……私は、鈴の“鳴らない揺れ”を隠れて見ます」


「了解」


 金具がわずかに擦れ、鈴は鳴らずに止まる。

 鏡の面に白い曇りが一瞬だけ咲き、消えた。

 息の高さは、天田のものではない。


「来て、やめた」


「匂いの壁に触れた」


 紫郎は二呼吸だけ待つ。

 湿度計は五十六%で動かない。

 灰皿の縁で灰が細く崩れ、先端が右へ少し折れて止まる。

 ネオンの影が、その折れに沿って細い刃を作る。


 鈴が短く鳴り、黒いフードの影が店へ滑り込む。

 顔は見えない。

 手は乾き、爪縁に紙粉。

 腕時計は右。

 滑り止めの粉を触った手ではない。


「いらっしゃいませ」


 天田が息を潜め隠れる。

 影はゆっくり頭を下げ、低めの声を作った。


「巻紙を」


「こちらでよろしければ」


 天田が一般の巻紙を差し出すと、影は横に振る。


「K-12/31を」


 紫郎は意図的にゆっくり瞬く。


「それは、扱っていない」


「ここにある」


 影の視線が、カウンター奥の銀のケースへ。

 鏡、布、口紅の粉、塩、巻紙――昨夜の分室の配置を写した“検証キット”。

 商品ではなく、証拠だ。


「警察です」


 天田が手帳を開く。

 影は肩を落とし、逃げない。

 逃げないのは、逃げても無駄か、逃げる必要がないか。


「お名前を」


「……黄瀬」


「会計の黄瀬さん。」

「空調ログの“直線”、あなたが触りましたね」


「書き換えなんてしてません。」

「私は鍵と紙の出納だけです」


「乾燥剤の補充サイン。」

「鍵は四時半返却なのに、五時に押している。」

「横滑りの跡。」

「練習の跡。」

「――“押させられた”」


 黄瀬の唇が震える。

 指先もわずかに震える。

 震えは、嘘より正直だ。


「『安全対策アドバイザー』は誰です」


「……言えません」


「言えない?」


「言ったら、仕事が……」


「仕事のために、三時に換気を止めた」


「私は……『吸気が荒れるから三時に止めろ』と言われて。」

「十五分だけ。」

「五十六%になるまで」


「ログは二十五分刻み。」

「十のズレで“外”が動く」


 北条のスマホが震える。

「裏に黒いワゴン。赤白ステッカー。運転手一人。降りず」


 店の空気が一段重くなる。

 紫郎は瓶の口を開け、すぐ閉じる。

 香りの壁が淡く揺れ、収まる。

 鏡の面に細い曇りが咲いて消える。

 誰のものとも断定しない息。


 紫郎は灰を見たまま、低く言った。


「……煙は嘘を吐かない」


 天田は顔を上げるが、問い返さない。

 言葉は木目に沈み、紫の看板で止まる。


「黄瀬さん。“言えない”のは分かった。

なら、ここに“置いていって”」


「何を」


「時間。三時に、何があった」


「三時……」


「湿度が真っ直ぐ落ちた“理由”」


 沈黙。

 鈴は鳴らず、外のワゴンは動かない。

 時間だけが湿りを持って店に流れ込む。


「……換気扇を止めました」


「誰に指図された?」


「“アドバイザー”に。名前は言えません。でも、私がやりました。私のサインです」


「分かった」


 紫郎は秤の皿に指を置く。

 黄銅が一度だけ鳴る。


「あなたはここで“人を傷つけて”はいない。」

「だが『時間を作った』。」

「その時間が、どこかの“十”を支えた」


 黄瀬は小さく頷く。

 息は乱れていない。

 北条が合図し、天田が静かに手を添える。

 外のワゴンはゆっくり動き、角で消えた。

 追わない。

 追えない時は、記録して残す。


「紫郎さん」


「うん」


「湿度で、こんなに“見える”んですね」


「湿りは時間を抱える。乾きは嘘を剥がす。灰も、塩も、紙も」


「課長にはどう伝えますか」


「こちらからは伝えない。伝えるのは、湿度計とログだ」


 天田は短く笑い、芯は強い。

 スマホが震える。

 佐伯から。

『台帳受領。監査部受付番号××。無理はするな』

 事務的で温い短文。

 疑いも安心も、同じだけ残す文章。


 紫郎は灰皿を中央へ寄せ、小瓶の口を指で撫でる。

 唇は朝と同じ高さで囁き、湿度計は五十六%。

 秤の針は零。

 鏡の面には先ほどの曇りの縁がうっすら残り、店の灯りを柔らかく広げた。


「次は“間”ですね。分室と倉庫の間」


「間は語る。壁を置く。伸びた匂いは、触れた手を覚える」


「覚えられるの、犯人は嫌がりますよ」


「嫌がるなら、なお良い」


 天田の目に小さな光。

 疑いと信頼のあいだで揺れる光だ。

 ガラス戸の外を提灯の赤が横切る。

 影は長く、夜は近い。

 三時十五分、五十六%。

 数字は誰のものでもなく、ただ“事実”として残る。

 紫郎は吸い殻の折れをもう一度確かめ、静かに息を吐いた。

 右へ折れて、そこで止まる。

 止まった先に“十”がある。

 十を打つ手はまだ見えない。

 だが、湿度は時間を暴く――そして、煙は嘘を吐かない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ