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常夜紫煙堂事件録  作者: 兎深みどり


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第一話 紫の煙は証言する

 夜明け前に雨は上がったらしい。


 通りのアスファルトはまだ鈍く光り、街路樹の葉から落ちる滴が舗道に小さな輪をつくっては消える。


 赤色灯の反射が水膜でにじみ、紫がかった看板に薄い光の帯が走る。


 太い墨文字で「常夜紫煙堂」。


 濡れた朝の街で、その文字だけが乾いた紙のように落ち着いて見えた。


 ガラス戸の内側は、外とは温度が違った。


 木の床は夜の冷えを少し残し、踏むと小さく鳴る。


 壁一面の棚には円筒のガラス瓶が整然と並び、琥珀から焦げ茶まで刻み葉の色が段ごとに濃淡を描いている。


 手書きのラベルは湿気を吸って線が柔らかい。


 カウンター奥の黄銅の秤は皿を閉じ、針は零で止まっている。


 湿度計は五十八%。

 針先に小さな水滴が一つ、朝の冷気を拾っていた。


 夜村紫郎(よるむらしろう)は、秤に戻したスコップの柄を指で撫で、ついた粉の細かさを確かめる。


 古い灰皿の縁に残った灰の輪を布で払うと、灰はふわりと舞い、換気扇の低い唸りに吸い込まれていく。


 店全体が息をしている気配だ。


 ガラス戸が押し開けられ、鈴が湿った空気を切った。


 雨の匂いと、制服の布擦れが入ってくる。


「……夜村紫郎さんですね?」


 真っ直ぐな声。


 端に少し緊張が乗る。

 差し出された手帳の銀縁が瓶に反射して、白い光がひときわ走った。


 夜村は手を止め、相手をさっと見る。


 肩に雨粒の名残。

 袖の糸が一本ほつれている。

 靴底についた泥は舗装の粉ではなく土。

 ――現場は土の上だな、と癖のように推理は浮かぶが、口には出さない。


「そう呼ばれてます」


 声は木の店内に馴染み、乾いた紙のような響きを残した。


天田芽衣子(あまだめいこ)、捜査一課です。昨夜の件でお話を――」


 湿った朝の匂いが、言葉の合間に入り込む。

 外の赤色灯がゆっくり回り、その色が瓶の面に薄紫の斑点を落とした。


 夜村はカウンター中央に白い陶器の灰皿を置く。

 わずかな灰の輪が残る、いつもの位置だ。

 そこに視線が自然と集まる。


「立ってより、座って話した方が流れが見えます」


 革張りの椅子が小さく軋み、天田が腰を下ろす。

 床の木目が脚に噛み、微かな震えが伝わる。

 制服にしみた雨の冷たさがふっと立ち、刻み葉の甘い乾いた香りと混じった。


「昨夜、現場で見つかった手がかりの一つが――」


「レシート」


 夜村は被せるように言った。

 遮るというより、テンポを合わせる。


 天田は瞬きを一つしてから、透明のビニール袋を出す。

 内側に小さな水滴が付き、朝の光を拾っている。

 紙は反り、角が少し潰れていた。


 夜村は手袋をはめ、端を軽くつまむ。

 熱転写のインクは水に弱い。

 強く触れば文字がにじむ。

 紙はひと呼吸だけ震え、指の温度を測るように静まった。


 紙幅は五七ミリ。

 購入時刻の桁のインクが浅い――プリンタの加熱不足のときの黒だ。

 右下の切り欠きは刃の摩耗癖。

 そこまで確かめて、ようやく文字を読む。


 紫煙堂ブレンド No.18 12g

 スリムペーパー(無漂白)

 活性炭フィルター 6mm

 22:54


 換気扇がひとつ呼吸を深くした。

 湿度の数字は変わらないが、空気の肌触りがわずかに動く。

 紙に吸われていた湿気が、指先でほどけていく。


「確かに、うちのだ」


 短く言い、視線を奥の棚へ送る。

 No.18のラベルが雨上がりの光を吸い、薄く金色に揺れた。


「購入は二十二時五十四分。被害者の推定死亡時刻は二十三時二十分から五十分の間です」


 教本通りの並べ方だが、呼吸はまだ若い。

 外の赤色灯の回転と、天田の息のリズムが少しずれている。


「近いね」


 夜村は袋をそっと置き、灰皿の縁に指を置く。

 白い陶器は冷たく、朝の温度を指に移す。


「この時間にNo.18を買ったのは一人。姿は覚えてます……ちなみにうちは、ブレンドとは、書いているが、ブレンドした物をCとするなら、Cにする前のAとBを売っているにすぎないから……知っているとは思うがCを売ればお縄だからな」


 記憶を無理に辿るのではなく、床の目に指を滑らせる。

 足跡は残らないが、視線の跡は残る。

 客がどの段のどの色に引かれ、次にどの小物へ移るか――その線が頭に残っている。


 黒いフード。

 濡れた袖口。

 手の甲に紙で切った浅い傷。

 ペーパーを扱う指がぎこちない。

 右利き。

 鼻先に薄い丁子の甘い匂い。

 本人ではなく衣服に移った匂い――近くに丁子を吸う誰かがいた。

 言葉は控えめで、「スリムの方が格好いいですよね」と独り言のように。

 夜村が頷き、活性炭フィルターを出すと、「苦いのは苦手で」と笑った。

 その笑いは、巻き慣れないのを隠す為の笑い――。


 輪郭が揃った頃、雲が割れ、看板に昼の光が戻り始めた。


「現場の吸い殻は鑑識が持ち帰りました。写真はあります」


 天田がスマートフォンを見せる。

 白いスケールと一緒に、焦茶の灰の断片。

 灰は短く、端が少しねじれている。

 フィルターはない。

 紙の縁は濃く焦げ、火の回り方は不均一。


 夜村は顔を近づけない。

写真から匂いはしないが、光の粒の粗さで湿りや焦げの温度感が少し読める。


「両切りだね。巻き終わりは左巻き。左の親指で押し出してねじった跡がある」


 空中で見えない紙の端を軽く捻って見せる。

 灰皿の上に、形にならない煙の動きが描かれる。


「活性炭フィルターは使ってない。紙の微孔は二段で下段が浅い。うちの無漂白スリムは三段で等間隔。燃え足は速く、灰は粗い。乾き過ぎの刻み葉。昨夜の店内湿度は五十八%、瓶内は四十九%。この崩れ方はしない」


 天田の視線が湿度計へ向く。

 朝の光が襟の小さな毛羽にひとつ引っかかる。


「つまり――」


「レシートと吸い殻は、別の人のもの」


 言葉は灰皿に落ち、音もなく消えた。

 換気扇が少し高い音になる。

 外で車のドアが閉まり、足音が遠ざかる。

 瓶の葉は湿りを保ち、紙袋は呼吸を続け、秤の針は零のまま、時を待つ。


「夜村さん、他に気づきは?」


「匂い。丁子を吸う誰かが近くに長くいた。衣服に移るくらい」


 夜村はカウンターの木目を見る。

 均等な波が続き、心拍の線のようだ。


「丁子……クローブ。国内では少数派。輸入か土産か、または――」


「ここでは扱わない種類」


 雲がさらに切れ、青がのぞく。通行人は少なめで、雨上がりの朝は足取りを半拍遅らせる。


「天田」


 夜村は紙袋を取り出し、角に小さく数字を書く。紫のインクがにじみ、乾く数秒、輪郭が揺れる。


「え、呼び捨て……」


「……昨夜、その客に試作を渡した。No.18の焙煎を少し強くしたやつ。『次はこの番号を言って』って。番号は31。あの男の持っていた袋の角に松脂が薄く付いてた。僕の手のものじゃない」


 鼻先には寄せず、指で軽く撫でる。

 匂いは浮かないが、指にわずかな粘りが残る。

 松脂は乾いても感触を残す。


「被害者は木工職人、三宅豊。指先の松脂、検出されています」


 天田の声は、さっきより落ち着いている。店のテンポに合ってきた。


「ならレシートは囮の可能性が高い。投げ込まれたのか、偶然かは分からない。だが吸い殻は別人の物だろう。丁子の匂いを持つ誰かが近くにいる。両切りを短時間で強く吸う癖――時間がない人間の吸い方」


 棚の一番下の瓶の肩に光が一点刺さる。

 呼吸に合わせて小刻みに揺れる。

 灰皿は変わらず冷たく、縁を指で弾くと陶器が一度だけ鳴いた。


「夜村さん」


 天田はメモ帳を閉じ、まっすぐ見る。


「夜村さん、協力、お願い出来ますか」


 夜村はすぐ返事をせず、ガラス越しに通りを見る。

 赤色灯の残光が薄れ、看板は昼の顔を取り戻す。

 雨の匂いがゆっくり引く。


「天田」


 灰皿を片付け、カウンターを拭き、針が零にあるのを確認してから言う。


「夜村じゃ固い。紫郎で」


 軽い言葉だが、店の空気は少し重みを帯びた。

 天田は目を丸くし、口元に小さく笑みを作る。


「……分かりました。じゃあ――紫郎さん」


 その呼び方は、制服の真面目さに不思議と似合った。

 音は木の肌に吸い込まれ、看板と同じ調子で残る。


 紫郎は袋の「31」をもう一度なぞり、乾いたインクに指を当てる。

 移るはずのない冷たさが指に乗る。

 湿度計は五十八%。

 針先の水滴がようやく落ち、陶器の皿に小さく触れた。


 外の雲はほどけ、街は雨上がりの色を取り戻す。

 濡れた樹皮が艶を増し、輪紋は風でちぎれ、遠くの交差点でクラクションが二度響く。

 誰かが紙切れを丸めて投げ外し、それが風に押されて店先まで転がってきた。


 紫郎はドアを開け、紙を拾う。

 レシートではない。

 雨で滲んだメモだ。

 何が書いてあったか分からない。

 繊維がふやけ、指に触れると静かに崩れた。


 紙は濡れるとすぐ嘘を吐く。

 けれど、煙だけは違う。


「煙は嘘を吐かない」


 独りごとのように呟き、紙片を丁寧に畳んで店に戻る。

 鈴が短く鳴り、音は朝の残り香に溶けた。

 瓶の列は何も言わずに迎える。

 No.18の瓶の中で、黄金色の葉脈が一筋、細く光った。


 湿度計は五十八%。店は静かに呼吸を続ける。

 看板も街も、まだ本当の昼の手前で立ち止まっている。

 嘘を吐かない煙だけが、見えない線で遠くの出来事とこの小さな店を結んでいた。

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