エピソード 2ー2
リリス王女は私の腕の中から抜け出し、ふわりと地面に降り立った。愛らしい容姿だけど、さきほどまでの儚げな雰囲気は微塵も残っていない。
それどころか、彼女のアメシストの瞳は、私に対する強い好奇心を浮かべていた。
「ヴェリア皇女殿下だったよね。どこまで気付いているの?」
「気絶したのは演技。そもそも、突き飛ばされたのも、そう見せかけただけですね?」
メイドの手がリリス王女を突き飛ばすように伸ばされたのは事実だが、その前にリリス王女がメイドの腕を掴んでいる。
つまり、メイドがリリス王女を突き飛ばしたのではない。リリス王女が、メイドの腕を掴んで引き寄せることで、自分が突き飛ばされて転んだように見せかけたのだ。
それを指摘すると、リリス王女は不思議そうに首を傾げた。
「私がメイドを罠に掛けたって気付いてて、どうしてメイドを拘束させたの?」
「今回の一件はリリス王女殿下の謀略でしたが、普段からあのメイドが貴女を虐待しているのではと疑ったからです」
「……理由を聞いてもいい?」
「いくつかありますが――」
私はそう言って微笑み、乱れたリリス王女の髪を手ぐしで整える。
「髪の乱れ具合に、くたびれたドレスは袖がほつれてすらいます。なにより、貴女のその痩せ細った身体。身の回りのお世話をしている者がいるとは思えない状態です」
「髪と袖はさっき転んだせい。痩せているのは病気だから、と言ったら?」
「そう、ですね……では、さっき貴女が倒れた後も、メイドが突っ立っていたから、と言うのはいかがですか?」
リリス王女が自ら倒れたのだとしても、だ。側にいたメイドよりも、遠くにいた私の方が早く駆け寄って介抱した。その事実が、メイドとリリス王女の関係を物語っている。
「私の推理、あっていますか?」
「すごーい。あの一瞬でよくそこまで分かったね」
リリス王女は目を輝かせ、私の腕の中から飛び降りた。どうやら、痩せ細ってはいても、虚弱という訳ではないようだ。この様子なら、深窓の令嬢というのもただの噂だろう。
そんなふうに考えていると、彼女の煌めく瞳が私を捕らえた。
「ヴェリア皇女殿下、会えて嬉しいよ」
「……私のことをご存じなのですか?」
「噂くらいはね。優秀な魔術師なんでしょ? だから、貴女が家庭教師としてきてくれると聞いて、今日はとっても楽しみだったんだよ?」
それは、あのメイドをはめられると思って、という意味だろうかと首を傾げる。けれど彼女はなにも語らず、小悪魔のように微笑んだ。
だが次の瞬間、リリス王女は不意に眼を細めた。
「それで、そんな貴女が私に近づいた目的はなに?」
愛らしい顔立ちからは想像も出来ないような凄味のある表情。十歳とは思えない迫力を備えたその姿に、私は思わず身悶えた。
「リリス王女殿下、ギュッとしてもいいですか?」
「よくないよ!? っていうか、この流れで言うことじゃないよね!?」
「いえ、愛らしい容姿に似合わぬ凜々しい姿が、私の弟を彷彿とさせまして。思わず抱きしめて頭を撫で回したい衝動に駆られて――撫でますね」
「意味分かんない――って、撫でるなぁーっ」
抱きしめて撫でようとしたら、ぐいっと押しのけられてしまった。リリス王女はじりじりと私から距離を取り、じろりと睨み付けてくる。
「も、もう、そうやって誤魔化そうとしてもダメなんだからね?」
「いえ、純粋に可愛いなと。あぁ、そうそう、近づいた理由でしたね。アルヴェルト王太子殿下に、リリス王女殿下が社交界にデビューできるように手を貸して欲しいと頼まれまして」
「それを、貴女は引き受けた、と?」
「ええ。対価を提示されましたので」
その対価の内容までは口にしないけれどと微笑む。少し考える素振りを見せたリリス王女は、「ふぅん、嘘じゃないようだね」と口にする。
「ええ。ですから、リリス王女殿下が社交界に出られるようにサポートいたします」
「必要ないよ。私は社交界に出たいと思っていないもの」
「そう、なのですか?」
「うん。だから、貴女はきっと対価を得られないよ。残念だったわね」
そう言って視線を外す。
その様子は、どこか後ろめたく思っているようにも見えた。
リリス王女を見ていると、なぜだかノクスを思い出す。私はノクスが意地を張るときの姿と重ねながら、リリスの頭に手のひらを乗せる。
その手をペチンと叩かれるけれど、私はかまわずに微笑みかけた。
「では、貴女の望みを教えてください」
「どうして私の望みを聞くの? アルヴェルトお兄様から、私を社交界に出すようにと頼まれたのでしょう? なら、私の意志は関係ないはずだよ」
「そうですね。だけど――」
思い出すのはノクスの言葉だ。私の可愛い弟は、『僕がそんなことを望んでいると思っているのですか?』と言って、私に反旗を翻した。
「アルヴェルト王太子殿下は、きっと貴女のためを思っています。だけど、いいえ、だからこそ、社交界に出ることが貴女のためにならないのなら、強行するべきじゃないでしょう」
「……それで、貴女がアルヴェルトお兄様から対価をもらえなかったとしても?」
その薄紫の瞳が向けられ、私は苦笑する。
「それは困りますね」
「だったら――」
「だとしても、リリス王女殿下の嫌がることをするつもりはありません。おそらく、アルヴェルト王太子殿下もそれは望んでいないと思います。なので、貴女の願いを叶えた上で、アルヴェルト王太子殿下から対価をせしめるように頑張ります」
せしめるという言葉に、リリス王女は瞳を揺らした。渡り廊下にさぁっと風が吹き、リリス王女のゆるふわツーサイドテールが揺れる。
「貴女が、アルヴェルトお兄様を説得してくれるの?」
「ええ、そのつもりです。――だから、貴女の望みを聞かせてくれませんか?」
それを叶えることで、アルヴェルトとの約束を果たす。
アルヴェルトの目的は、自分の疑惑を晴らすことだ。だが、同時に妹が心配だとも言っていた。きっと、両方の望みを叶える方法はあるはずだと笑う。
もちろん、ただリリス王女を社交界に出すよりも大変だろう。自分から厄介ごとを背負い込んでいる自覚もある。
けれど、ノクスのときのような失敗はしたくない。
「……私の、望みは……」
リリス王女は俯いて口を閉じた。
「突拍子もないことや、実現が難しいことでもいいんですよ? どんな願いだって叶える。とは言いませんが、聞かなければ願いを実現する方法を考えることも出来ませんから」
そう促してみるけれど、リリス王女は俯いたままだ。私が信用されていないのか、それともよほど複雑な事情があるのか。
どちらにせよ、少し攻めすぎたようだ。
「じゃあ……そうですね。まずは分かっていることからしましょう。貴女が排除したいメイドは、さっきの一人だけじゃありませんよね? まずはその排除から始めましょう」
それならいいかと問えば、リリス王女はコクリと頷いた。控えめに、下を向いたまま頷くリリスがとても可愛らしい。私は思わず身悶えて、だけど仕事が先だと気を引き締めた。
「ちなみに、信用できる使用人はいますか?」
「いると思う?」
「いないのかぁ……」
思った以上に劣悪な環境だと知って素の声が零れた。
だけどよく考えると無理もない。
リリス王女は、アルヴェルトに排除され、離宮に押し込められたという噂が回っている。政戦に負けた王族の扱いと考えれば、あり得ない扱いではない。
私は「仕方ないなぁ」とリリス王女との距離を詰め、ひょいっとその羽のように軽い身体をお姫様抱っこで抱き上げる。
「大掃除になりそうですね。じゃあ――まずはお風呂に入りましょう」
「……え? 繋がりが見えないんだけど?」
「大丈夫です、私には見えていますから」
「意味分かんないんだけど! ねぇ、ちょっと、聞いてる!?」
私は抗議するリリス王女を抱いたまま、離宮にある浴場へと向かった。
「ヴェリア皇女殿下、リリス王女殿下をどこへ連れて行くつもりですか?」
途中、警備の騎士に呼び止められるが――
「浴場よ。リネットに、王女殿下のお着替えを持ってくるように伝えて。それから、捕らえたメイドを、後でリリス王女殿下の部屋に連れてくるようにとも」
正直に話せば、騎士は「かしこまりました」と素直に引き下がった。
私はそれが少し意外だったのだけれど、彼は去り際に「不敬なメイドを排除してくださってありがとうございます」と口にした。
どうやら、この騎士はリリス王女のことを気に掛けていたらしい。
「……貴女の味方、ちゃんといるじゃない」
私がそう呟くと、リリス王女は無言でそっぽを向いた。
――という訳で、私はリリス王女を浴場へと連れ込んだ。
大理石が敷き詰められた大きな浴場。天井はガラス張りになっていて、いまは太陽の光が降り注いでいる。夜になるときっと、星の光が降り注ぐのだろう。
美しい造りの浴場――だが、残念ながら掃除は行き届いていないようだ。このあたりも、使用人は仕事をさぼり気味なのだろう。私は魔術を使って、いま使う範囲を軽く清めた。
「さて、それじゃリリス王女殿下のお体を洗わせていただきますね」
まずは腕まくりして、リリス王女のドレスを脱がして洗い場に行く。
「待って、どうして貴女が洗うのよ! 他にメイドとかいるでしょ!?」
「信頼できる侍女がいないと言ったのは貴女ですよ」
私は有無を言わせず、リリスを洗い場の椅子に座らせた。そうして石鹸を使ってその小さな身体を洗った私は、普段は見えない部分に痣がないことをたしかめてそっと息を吐いた。
「さすがに直接的な虐待は受けていなかったみたいですね」
「……もしかして、私をお風呂に入れたのはそれをたしかめたかったから?」
肩越しに振り返ったリリス王女が問い掛けてくる。
「そうですよ。もしかして、私に襲われるとでも思っていましたか?」
冗談めかして言い放ち、リリス王女の反応をうかがう。
リリスが離宮に引き籠もっている理由。暗殺などを恐れてのことだとしたら、『襲われる』という言葉を、そっちの意味で受け取ると考えたからだ。
だけど、リリス王女は「そんなこと思わないよ」と笑った。その様子からは、自分が命を狙われていると心配しているようには見えない。
もっとも……と、リリス王女がメイドを陥れたときのことを思い出す。
私の存在に気付き、即座に行動を開始する判断力。そして周囲を騙してしまう演技力、どちらをとっても十歳の子供とは思えないレベルだった。いまも、私の思惑に気付いた上で、気付かない振りをしているという可能性は否定できない。
なんて、さすがに考えすぎかな?
「なんにしても、リリス王女が虐待とかされてないようで安心しました」
「それなら大丈夫だよ。使用人は私に敬意がないだけだから」
踏み込んだ言葉にもそつなく答える。おそらく、リリス王女は自分がなぜ使用人に軽んじられているか理解しているのだろう。
「ところで、アルヴェルト王太子殿下がリリス王女殿下のことを気に掛けていらっしゃいましたが、リリス王女殿下はアルヴェルト王太子殿下と仲がいいのですか?」
「うん、大好き。アルヴェルトお兄様はとっても優しいよ。それに、エドワルドお兄様も」
にへらっと笑うリリス王女が可愛すぎる。
にしても……リリス王女殿下は、エドワルド殿下のことも慕ってるんだね。
アルヴェルトは、第二王子派がリリス王女殿下を政治の道具にしようとしていると言ってたけど、エドワルド殿下は、リリス王女殿下に優しかったのかな?
なにか、複雑な思惑が絡んでいそうな気がするね。
「ヴェリア皇女殿下?」
「あっと、ごめんなさい。なんですか?」
物思いに耽っていた私は慌てて意識を戻す。天窓から降り注ぐ光の下。泡まみれになったリリスが私をじぃっと見上げていた。
「ヴェリア皇女殿下はどこでアルヴェルトお兄様と知り合ったのかって聞いたんだよ」
「ああ、失礼しました。アルヴェルト王太子殿下と知り合ったのは、この国に連れてこられる道中です。彼が、護衛騎士のアルと名乗って、私の側にいたので」
「お兄様がそんなことを?」
「ええ。びっくりしましたよ」
私は笑って、そのときのことをリリス王女に話す。アルヴェルトの話を聞けるのが楽しいのか、リリス王女は始終目を輝かせていた。
どうやら、アルヴェルトを慕っていると言うのは本当のようだ。
そんなことを考えながら、リリス王女の身体を洗い終える。そうして泡を洗い流すため、前方にあるシャワーのノズルにあらためて視線を向けた。
「これ、魔導具ですよね?」
「うん、そうだよ。ノクシリア皇国にもあるよね?」
「ええ、術式は違うと思いますが、似たような魔導具はありますよ」
使い方自体はノクシリア皇国にある魔導具とそう変わらない。私は魔導具を起動し、温度が適切なことをたしかめてから、リリス王女の身体に付いた泡を流していった。
とまあ、そんな感じで入浴は終了。
ノクシリア皇国から持ち込んだドライヤーでリリスの髪を乾かし、用意された服で可能な限りリリスの身だしなみを整える。そうして、より可愛くなったリリスをソファに座らせた。
ほどなく、王族に危害を加えた容疑で拘束されていたメイドが連れてこられたので、私はリリスの斜め後ろに立ち、拘束されたまま平伏しているメイドに言い放った。
「さっそくだけど、貴女には離宮の大掃除を手伝ってもらうわ」