意中の相手に恋人がいることを知ったストイック女子が闇落ちする話
なんの競技かは分かりません
「二人とも行ってらっしゃい!」
母の声を背中に受け、俺は歩き出した。
なんの変哲もない一日。俺の知る限り、俺ともう一人の人間を除いてはそんな日。俺にとっては五十%くらいが特別な日で、もう一人にとっては百%……いや、あの子のことだから「まだ世界一になってない。喜ぶには早いかな」なんて言うかもしれない。
だったら、今日は俺にとって特別な日だ。
教室に到着した俺は、少しばかり緊張していた。俺がなにを成したわけでもないのに。
教室では、誰かを囲うように生徒が密集していたが、俺が近づくや否や、彼らは蜘蛛の子を散らしたように各々の持ち場へ戻ってしまう。
「おはよう」
俺がそう言うと、生徒たちに祝いの言葉をかけられていた生徒が「おはよう」と返す。
彼女の凛々しい顔立ちが少しだけ和らぐ。
「大変そうだな」
「こういう時だけ、ね」
苦笑を返答にしつつ椅子に腰かけた俺は、鞄の中から小さな箱を取り出すと、彼女にら「ん」と手渡す。
「なにこれ?」
先ほどまで他の生徒から祝われていたのだから、普通なら連想できそうなものだが、彼女は首を傾げている。
「なにって、お祝いに決まってるだろ」
「あぁ、そういうこと。まだ世界一に――」
「なってないから喜べないって言いたいんだろ? でも、何にもない俺からすれば、日本一になるってだけでも途方もない偉業なんだよ」
「そんな、あなたが何もないなんて、そんなわけ――」
「あーあー、今はそんなことはいいから。ほら、余計な荷物を増やして悪いけど、受け取ってくれよ」
「余計な荷物だなんて……開けてみてもいい?」
頷くと、俺の渡したそれを大切そうに開く。
「なににしようか迷ったんだけど、ハンドクリームにしてみた。ほら、手が命だろ? 気が向いた時とか、何にも触りたくない時があれば使ってみてほしい」
「……すっごく嬉しい。ありがとう」
彼女は滅多なことでは笑顔にならない。つまり、プレゼントを喜んでくれたのだ。
これが見れただけでも、プレゼントに悩んで駆けずり回った甲斐がある。
「大切にする。ずっと、ずっと」
「いや、ちゃんと使ってくれよ」
「そうするね。……あのさ、もし、私が次のコンクールで良い結果を……いや、最高の結果を残せたら、その時は――」
言葉の続きは、力強く開かれた教室のドアと、教師の挨拶によってかき消されてしまう。
「持ち時間を過ぎちゃったね。また今度、ちゃんと伝えるよ」
「ん、おお? よく分からないけど、楽しみにしてるよ」
そうして、俺たちは自分の席に座った。
窓から差し込む朝の日差しが、妙に眩しかった。
・
世界一を目指す私にとって、それ以外の全ては通過点に過ぎない。それなのに、私は高校に入学してから最初の一年間、満足のいく結果を残すことができなかった。どれだけ練習を重ねても夢に近付けない。真っ暗闇の中で階段を登っているような感覚。私をそんな地獄から救い上げてくれたのは、彼の言葉だった。
「そうやってストイックに生きれるのって、本当にすごいよな」
確か、夏休み前の最後の日だ。偶然、教室で鉢合わせた時、彼はおもむろにこう言った。
言葉としては、私が普段から向けられている言葉と変わらないように聞こえるかもしれない。しかし、言葉が向けられる方向が違った。
私も、私の親も、そして私を評価する人も、全ての言葉は私の技術や結果に向けられていた。何かを成した人間が評価されるのは当然のことだし、劇的な過程というのは成功者にしか伝えることを許されない創作物。
だけど彼は、私の生き方を評価してくれたのだ。過程や結果の外側にある、人間本来の部分を。
その日から私はスランプを脱するようなにり、彼との距離も日に日に縮まっていった。
彼に褒められれば嬉しいし、ふと肌が触れた時に、発表にも似た胸の高鳴りを感じる。上手く言語化することができないが、彼への気持ちは特別だ。
今日は贈り物なんてされてしまって、危うく告白するところだった。よく耐えた……というより先生が良いタイミングで入ってきてくれて本当に助かった。
ともかく、この気持ちを伝えるのは世界一を獲ってから。改めて練習を続けようと、そして貰ったハンドクリームの感想を伝えようと思っていたのだが、翌日、彼は学校に来なかった。
「あれ、今日〇〇は休みなのか?」
誰も理由を聞いていないと知って、私はいてもたってもいられなくなった。
学校の授業だって欠かすことのできない成長の要素だ。どんなに関係のないように思えるものも、すべて繋がっている。私が得た知識が、教養が評価の向上に役立つ。
だというのに、気付けば私は教室から飛び出し、彼を探しに行っていた。
幸いなことに、いくつか目的地の候補はある。
好きな場所、思い出のある場所、落ち込んだ時に来る場所。
もしかしたら、彼の力になれないかもしれないという恐怖が胸中に燻っていたのかもしれない。私が最後に訪れた場所に、彼はいた。
海の見える公園で、柵に肘をついている。
その背中は寂しそうで、なんて声をかけたものか、私は悩んでしまう。
これまで幾度となく私を励ましてくれた言葉を生み出すのが、これほど難しいとは思わなかった。
彼自身は自分のことを「何もない」と評価しているが、そんなことは絶対にない。それだけは伝えたくて、惑う心を落ち着けながら一歩踏み出そうとすると、彼の隣に誰かが座った。
「――もうっ、学校に連絡くらいは入れたほうが良いですよ! お母さんを誤魔化すの、大変だったんですから」
誰かはわからないが、私や彼とは違う学校の女子のようだ。制服が違う。
「あー、悪い悪い。わざわざ探してくれたんだな、ありがとう」
「スマホの電源くらい入れておいてください。でも、〇〇がここに来ることはわかっていたので」
「ははっ、さすが幼馴染だな」
「幼馴染だからわかったんじゃありません。彼女だから、わかったんですー!」
彼女の横顔、そして言葉に、一瞬世界が止まったかのような錯覚を受けた。
彼女? 自分にそういったイベントがなかったから、尋ねるという思考に至らなかったのだ。てっきり、彼も恋人がいないと思い込んでいたが、こんな――。
両足が震え、立っていられなくなる。
彼の恋人は――ある分野で世界一に輝いている。
「いやぁ、敵わないな」
「〇〇のことだから、また『自分には価値がない』とか思ったんでしょう? 私が愛してる時点で、そんなわけないのに」
「まぁ、確かにな」
「そういえば、お友達にプレゼントは渡せたんですか?」
「あぁ、おかげさまでな。友達も喜んでくれたみたいで、本当に良かった」
友達。そう呼ばれるたびに、身体の奥深くにドス黒い感情が渦巻いているのを感じる。
「彼女としては、彼氏が他の女の子にプレゼントを渡すのは良い気分じゃないですけどねー」
「俺が浮気なんてしないって、一番分かってるだろ?」
「当然です。そもそも、世界一の私を差し置いて浮気する相手なんて、いるはずがありませんから」
その後、とりとめのない話をして彼の気持ちは落ち着いたのか、二人で手を繋いで公園を後にした。私はというと、それから三十分が経ってもなお、その場を動けずにいる。
自分が動けなかったばっかりに、躊躇してしまったせいでこんなことに――いや違う、彼には最初から恋人がいたのだ。
一体いつから? そんなことを考えても意味はない。いつからだろうが、彼らの間には、私とよりも遥かに強固で深い絆があった。
もし、二人が付き合ったのが最近だったら?
私たちが出会ってから、既に一年以上経っている。もしかしたら、手を繋いでいたのは私だったかもしれない。考えても無駄だと、過ぎた時間は戻らないのに、何度も思考が戻ってきてしまう。
私にできることは何もないのだろうか。コンクールや試合ならば、一度失敗したとしても、次がある。その間に積み上げた努力が自らの結果に繋がる。でも、恋は?
開催される時期が明かされているわけではない。彼が恋人と別れるとは決まっていない。あんなに素晴らしい彼なのだから、もしかしたらもう、私にチャンスは巡ってこないかもしれない。
なにより、人生のモチベーションががっくりと落ちてしまったのが分かった。いまだに世界一を獲るという目標は心に根付いているが、いつしかそれと同じくらい、彼の隣に立ちたいという気持ちが大きくなっていたのだと、やっと分かった。
このままじゃダメだ。自分が崩れていってしまいそうだ。どんな練習をすれば、何を目指せば彼を手に入れられる?
考えるんだ。なにか、ヒントが残っているかも――。
「…………あっ」
脳裏に、ある言葉が浮かんでくる。
『世界一の私を差し置いて浮気する相手なんて、いるはずがありませんから』
「…………そっかぁ!」
私にもまだ可能性が残されていた!
今までの努力が、私の危機を救ってくれた!
私がこのまま世界一になれば、彼を振り向かせて、奪い取れるかもしれない。
あまり気にしたこともなかったが、私はかなり容姿が優れているらしい。人によって好みはそれぞれだが、多分、彼の彼女にも負けてない。
昨日だってプレゼントを渡してくれたし、何度も何度も私のことを褒めてくれた。そんな相手に好意を抱いていないというのは嘘だ。今はまだ恋にも満たない感情かもしれないけど、きっと大きく成長させることができる。
だんだんと身体が軽くなってきた。不思議と笑みが溢れてしまう。
まずは、このまま「友達」として彼の好みを探ろう。時間はある。効率的な生活をしていない人間は時間が足りないと言うが、それは怠けているだけだ。今までの練習を継続しつつ、健康面に不足を出さず、かつ彼好みの自分を作り上げることはできる。
今は相手の方が上だとしても、私が負けるわけがない。どんな手を使ってでも勝つ、それが戦いだ。
一年後、彼女は世界一の称号を手にすると同時に、一線から退くことを表明した。
その理由を問われた際、彼女は「他に一番を取りたいことがある」と答えたが――その目はこれまでで一番強く輝いていた。