婚約破棄
「アイリーン・ウェインス!そなたとの婚約を破棄する!」
「…はあ」
フローレンス子爵主催の夜会に、珍しく婚約者を伴って登場したベンジャミン王子はなぜかその婚約者とは一曲も踊らず、黙々と飲み食いを続け、夜会の終盤でフローレンス子爵の『殿下から大切な発表があります』という宣言と共に会場の中央にある階段の踊り場にフローレンス子爵の一人娘・フローラを伴って現れた。
「そなたは社交界中の令嬢に私と親しくならないよう圧力をかけていたらしいな!王が側室を持つのは当然の権利である。次期王である私が複数人の女性と親しくすることを妨害する権利はそなたにはない!そなたのような器の小さい女は次期王妃に相応しくない。よって、私は心優しいフローラを妃に迎え入れることにした」
ベンジャミンの腕に抱き着いているフローラは亜麻色のふわふわの髪に、丸い瞳、桃色のドレスを身に纏った愛らしい女性で、アイスブルーのドレスに濃いめ化粧でつり目が際立っているアイリーンとは真逆のタイプだ。
「むろん、婚約解消については陛下の許可も取ってある」
フローレンス子爵家は最近急速に貿易業を拡大させている。将来的な金銭援助はフローレンス家の方が期待できると思ったのかもしれない。
(それにしたって、陛下もこんな阿呆なイベントを開催するとは思ってもみなかったでしょうね)
アイリーンはパンと扇を畳んだ。
「陛下の許可があるのなら、私からは何も言うことはありません。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
そのまま礼をして去ろうとしたアイリーンをベンジャミンは引き留める。
「待て。急に婚約者がいなくなったら君も困るだろうと思って、新しい婚約者を用意した。喜ぶといい、あの名門ベケット家の当主だ」
『ベケット』の名を聞いて会場中の貴族たちがざわつく。
ベケット家は歴史の長い伯爵家だが、十年以上前に事業で大失敗しており取り潰し寸前な上、現当主はアイリーンとは親子ほど年の離れた、評判の悪い男だ。
「さすがにそれは…」「ウェインス家が黙ってないぞ」「陛下はこのこともご存知なのか…?」
しかし、アイリーンは凛とした表情のまま答える。
「お心遣い痛み入ります。しかし、この素敵な夜会を私事で騒がせるのは申し訳ないので、その話は後日父を通してお願いいたします」
「そ、そうだな。この夜会は私とフローラの婚約祝いとさせてもらおう!では、フローレンス家とクレーネ王国の更なる発展を祈って、乾杯!」
貴族たちはぎこちなく乾杯をする。
音もなく会場を後にするアイリーンを追うものは誰もいなかった。
***
『あいつら最悪だよ!』
夜会の様子を偵察しに行ったカラスが腹をたてて帰ってきたので、リリエルはやはりかとため息をついた。
「やっぱり、婚約破棄になってた?」
『それだけじゃないよ。アイリーンはなんかすごい嫌われてるやつと結婚させられるんだって』
「ええ!結婚?相手の名前は聞いた?」
『べけっと?ってやつ』
「ベケット…ってどこかで聞いたような…』
リリエルは考え込むがカラスはぶつぶつ文句を続ける。
『アイリーンはあんな奴のどこがいいんだよ!あんな風にわざと傷つけるようなことするなんて、やっぱり人間はたちが悪い』
「ダメな人だと分かってても好きになっちゃうらしいよ」
『意味わかんない』
「そうだよねえ…」
意外にもリリエルから同意されたのでカラスは少し機嫌を直した。
『だよね!もう薬でアイリーンが別の人を好きになるようにしよう!』
バサッとリリエルの頭に飛び乗るカラスにリリエルは苦笑した。
***
カラスからの報告を聞いたリリエルはもう少し情報を集めようといつもの店へ向かう。
レノなら何か知っているだろうと踏んでいたのだが、店の前の椅子にレノはいない。
「あれ?レノさーん」
リリエルは椅子の下や近くのごみ箱をのぞき込む。
「お客さん、さすがのレノもそんなとこにいやしませんよ」
壮年のウエイターがリリエルに気づいて苦笑しながら声をかける。
「以前、借金取りから逃げて椅子の下に潜り込んでましたよ」
「あのダメ男…お恥ずかしいです。実はあいつ、数日前から休暇を取っているんですよ。なんか実家がごたついてるとかで」
「へえ…」
リリエルは少し考え込む。
「あの、答えづらかったら答えなくてもいいんですけど、オーナーの娘さんのご様子いかがですか?その、ある噂を小耳に挟みまして」
「お嬢様は本日もいらっしゃってるのですが、とても気落ちしていらっしゃる様子で…。お客様はレノとお嬢様とよくお話されてましたね。お嬢様に声をかけてきますよ」
ウエイターが話をしてくれたらしくアイリーンが店から出てきた。濃紺のワンピース姿のアイリーンは確かに元気がなさそうに見える。
「こんにちは。すみません、なんかお呼びたてしてしまった形になって。アイリーンさんの様子が気になったもので」
「いえ、お会いできて嬉しいです。その、もうすぐこの店に視察には来れなくなってしまいますので」
「あの、実は知り合いにフローレンス家の使用人がいまして小耳に挟んだのですが、ベケット家との縁談は本当に…」
「はい、なぜか父が乗り気で。まあ、結婚は貴族令嬢の義務ですから、覚悟はできてましたし」
それにしても相手が王子から貧乏なおっさんになるというのは急転直下が過ぎると思うが、アイリーンは落ち着いた様子だ。
「だから、レノさんにもご挨拶したかったんですけど、お休みらしくて…」
「珍しいですよね。いつもいるのに…仕事はしてなさそうですけど」
「本当に困った人ですよね」
アイリーンは溜息をついた。
「ベケット家との顔合わせとかって日にち決まってるんですか?」
「ええ。来週の頭です」
「そうですか」と微笑んだリリエルの真意はアイリーンには分からなかった。
***
「お嬢様、ごゆっくりお休みください」
「ええ、ありがとう」
侍女のノーラが明らかに気を遣った様子で部屋から出ていくのを見てアイリーンは溜息をつく。
(やっぱり、心配かけちゃってるよね。しっかりしないと)
リリエルや他の友人には『覚悟ができている』と言ったものの、実のところアイリーンはこんなに早く結婚することになる覚悟はできていなかった。
心を落ち着けようと好きな本を開くと、中から色紙で作った花が出てきた。
「これ…」
幼い頃、父につれられて店に行った時に相手をしてくれたレノが作ってくれたものの一つだ。
『はじめまして、アイリーンお嬢様。お父様がお仕事している間、俺と遊んでくれますか?』
10年間前、初めて会った頃のレノは今に比べるとまともだったなあとアイリーンは思い返す。
レノは当時15歳くらいで、髪も短くて背も今よりは全然低かった。借金はその頃からあったようだが、大人になるにつれて怪しげな人との付き合いが増えて、サボり癖がついて、酔っぱらってることが多くなった。
(そういえば、一時期接近禁止令がでたことがあったなあ)
レノが煙草を覚えた頃、アイリーンの健康と情操教育的な面を気にした店の者たちがレノをアイリーンから遠ざけたのだ。
『レノさんは私のこと嫌いになっちゃったんだ…』
『お、お嬢様。あんなダメ男予備軍忘れてマリと遊びましょう?』
『うん…』
アイリーンが落ち込んだまま元気にならなかったので、結局レノは禁煙を条件にアイリーンとの接近禁止令が解かれたのだ。
『俺、煙草止めたんで、またお嬢と遊んでいいそうです』
『本当?!レノさん、もう絶対煙草吸わないでね。ずっと一緒に遊んでね』
『はい。約束しますよ』
その時から、レノは律儀に禁煙しているらしい。
(今思い返すとなかなか恥ずかしい思い出ね…)
とにかく、子供の頃のアイリーンにとってはレノは大好きな兄のような存在だったのだ。
(結婚する前にもう一度会いたかったなあ)




