1995
僕がもっと幼く、もっと傷つきやすかったころ、父が僕に幾つかの助言を与えてくれ、爾来僕はその助言を何度も心の中で繰り返すこととなる。
「誰かを批判したくなった時はだな」父は言うのである。
「世界中の人々がお前の持っているようなアドバンテージを持っているわけではないのだと思い出してみるといい」
アドバンテージがどういう意味かわからず僕は尋ねた。人より優れている点という意味だそうだ。父のその助言が『グレート・ギャッツビー』という小説からの剽窃だと知るのはずっと後になってからのことだが、僕は父の教えに従って人を批判したくなった時は自分のアドバンテージというものをその都度考えてみるようになった。
だが、学力も運動神経も人並み、中肉中背の一山いくらの容姿、歌を歌えば高音域がでないが低音域も出ない、ギターはGコードでなぜか関係のない人差し指がつる、花瓶を写生すると謎の球体が描き上がる、なんら芸術的に光る才能があるわけでもない、そんな平凡にすら辛うじてしがみついているような自分に、人が持っていない何かしらのアドバンテージがあるとも思えずにいた。
僕がそんな砂上の楼閣のような自分のアドバンテージについてひたすら思いを巡らせる時期があった。一九九五年のことだ。
その年は厄災の年だった。一月に阪神淡路大震災が、三月に地下鉄サリン事件が起きた。テレビでは連日地震で崩れた阪神高速道路の映像が流れ、それが落ち着くと今度は上空から撮影された霞ヶ関駅の映像、そして上九一色村の映像へと変遷を遂げ、某教団幹部がフリップを後ろへ放り投げていた。六月には少年ジャンプでドラゴンボールの連載が終わり、一年中どこへいっても小室哲哉の曲がかかっていた。
そんな年の四月、僕は高校二年に進級した。そして、小川に出会った。