恋と言うには穏やかで 愛と呼ぶには儚くて 原初
蝉の命を掛けた演奏が夏空に溶け、多くの音に混ざる。どんなに足掻いた結末も、その他大勢のひとつとしてしか記憶には残らない。
例年の夏も、果たして蝉の声等覚えていただろうか?夏の音だな、としか記憶になかった。過去に混ざる、名もないキャストの一人。
鳥居の傍に座り、そんなふうに黄昏れる青年の元に、ヒョコリと少女が顔を出した。
『久方ぶりなのだ』
「やぁ、本当に。いつぶりだろう」
『お主が来なくなってからだ。ざっと...二年か?』
「そんなにか、とても長かったろう」
『そうでも無いとも。儂の歳月、甘く見積もるなよ?』
「ふふ、そうだったね。でも、そんなに会っていなかったのは、なんだか残念だなぁ」
『そういうものか?』
「そういうものさ」
小首を傾げ、頭上の愛らしい耳を動かす彼女に、青年は柔らかく微笑んだ。彼女の新しい知識、それを己が齎せた事に。
現代には珍しい和服に身を包んだその少女は、黄金色の尾を青年に押し当てる程の距離に座る。そして青年の視線を追い、一様に頭を下げて呟く者たちを眺めた。
『ところでな?これは何をしているのだ?』
「これかい?人の弔いだよ」
『弔い...聞かぬなぁ』
「いなくなってしまった人に、ありがとうとさようならを伝える儀式さ」
どこか寂しそうに、しかし嬉しそうに。いつもの柔らかく、それでいて読めない笑みで青年は言う。神社の下、道路を挟んだのは、葬儀場だ。
『いなくなった後にか?なんの意味があるのだ』
「無いよ。でも、少しだけ整理出来れば、その人の事を思い出す時、少しでも長く笑顔でいられるだろう?人に思い出して貰うなら、笑顔で語られたいものだよ」
『そういうものか?』
「そういうものさ」
心底理解が出来ない、と言ったように首を捻る彼女に、きっと己が消えたら、等という考えは無いのだろう。
自分とは根本的に違う者、だが、いやだからこそか。青年は妙な心地良さに身を委ね、彼女の口が再び開かれるまで、その空間と時間を堪能した。
『そうだ、先日はお主以外の者が来たぞ!三年前にお主が連れてきた、何といったか...そう、ジュケンセイちゃんなのだ』
「それは名前では無いよ。妹ちゃんと呼ぶようなものだ」
あんまりな覚え方に、つい笑みがこぼれる。先程までの、真顔の代わりとばかりに貼り付けられた笑みでは無く、心から零れた笑顔だ。
しかし、タイミングがタイミング。唯一己と語らえる人の感情より、バカにされた様な苛立ちが優ったのか、少女は頬を膨らませていた。
『むぅ...笑わずとも良かろうに』
「でも、そうか...なんだか、その繋がりの中で僕が生きている様で嬉しいな。葬式に人が集まるのは、そういった意味もあるのかな」
『嬉しいのか?』
「もちろん。何も無くなる様に消えていくのは寂しいものだからね」
『そういうものか?』
「そういうものさ」
一転、嬉しいのだと確認した彼女は、花が咲いた様な笑顔になる。
良く分からない。だが、青年が喜び、嬉しいと感じる事は心地よい。彼等は、それを仮に友情と読んでおり、彼女は心の中で友達と呟きつつ噛み締めた。
『確か、お主が初めて来たのも、人に連れられてだったな』
「そうだね、隣の家のおじさんに、近所を教えて貰っていた時だ」
『あやつな?儂の所なぞ、年に一度と顔を出さんのにしたり顔で語るだろう?おかしかったぞ』
伝承で伝え聞いただけの彼女を、居もしない方を示しながら語る。本堂の様子を覗きながら、角でクツクツと笑う彼女を、当時は不思議に思った物だ。
本堂の後ろ、御神体のある小さな本殿の中で、我慢しきれずに笑い転げている彼女を見た時は、何事かと思った。
「だから笑ってたんだね。とても素敵だったよ」
『今日は口が軽いのぅ。しかし、儂はいつも素敵だろうて』
「違いない」
『笑うところでは無いぞ』
「ごめんね」
変わらない彼女に、変わってしまった自分。まるで宛もなく流される様だった心に、小さな命綱が繋がった心地でつい頬が緩んだ。
自分の事を笑われたと思ったのか、少しむくれる彼女のフワフワな髪を撫でてやれば、目を細めて受け入れてくれた。
『しかし、長いなぁ。人は不可思議な事に労力を使うのだな』
「そうかもね。大きすぎて、複雑すぎる感情って宝を、持て余してるんだよ。でも、それが良さなんだろうね、きっと」
眩しいような、羨むような、そんな視線を下に向けて青年は呟く。正面に周り彼の胸に手を添えれば、静かな静かな凪を感じる。
それでも、そこにも彼の言う宝はあるのだと信じながら、彼女は彼を見上げて何度目かの問を掛けた。
『そういうものか?』
「そういうものさ」
背中に手を回し、優しく微笑む彼には、きっと十分の一の意図さえ通じていないだろうが。それでも、伝える事が大切なのだと、いつかふとわかる時があるかもしれないからと、そんな言葉を覚えていた。
あれは、誰が言ったのだったか。もう記憶にはないが、この者はそうやって薄れることも無さそうだと、理由のない漠然とした予感があった。
そうして、互いに静寂と安心に身を委ねるうちに、葬儀場から人が出てきた。火葬場へ行く車が、棺を乗せている。
地図を開いて、道を確認している。この後は、それぞれで車を走らせて着いていくのだ、と青年は語った。そしてゆっくりと、ゆっくりと立ち上がると、背を向けたまま石段を下りていく。
「ごめんね。そろそろ、行かないとかな。ありがとう」
『のぅ、主。次はいつ来る?』
「...ごめんね、約束は出来ないかも。でも、覚えていたら。きっと真っ先に行くだろうさ」
『そういう...ものなのだな?』
「そういうものにするさ」
少し潤んだ彼女の瞳は、見ないように。声にだけ耳を傾け、まっすぐ前だけ見て歩く。伺えない青年の顔は、どんな想いを映しているのだろうか。
伝えてくれないのならば、その分伝えてやろう。胸いっぱいに息を吸い込み、遠くなったその背に叫ぶ。
『儂はな、お主を忘れんよ。来るのを楽しみに待つとも。それは、嬉しいものか?』
「そうだね、とても。でも、それが苦しみになるなら、捨てて...と言いきれない弱い男だけどね、僕は。それでも待つかい?」
『無論だとも。早く来いよ、若いの』
「そうするよ」
青年は呟くような声だと言うのに、それはとても良く聞こえた気がした。
今年も蝉が煩い。その音色を聞く度に、叶わぬ過去を思い出しては苦しくなる。人の心に近づいたからか?その容姿は無垢な幼子から成長し、少女とは呼びがたくなっていた。
これを成長というか、老いというか。それはどちらでも良かったが、また逢えても膝に乗るのは難しいだろう、とだけ思えた。
そんなふうに、目の前を見ながらも意識は過去を思っていた彼女は、珍しく訪問者に気づかなかった。おかげで、その少年の声にビクリと肩を震わせる。
「おねえさん、そこでなにしてるの?」
振り向けば、元気そうで抜けていそうな、そんな少年が一人。少し唖然とするが、この辺りは子供一人で出歩いても問題無いことに思い当たった。
人探しの願掛け等もされるが、基本は隣に引っ越した子供を連れ回してお菓子を上げて送り届けるおっさんが住んでいる様な地域だ。親は来ていないのかもしれない。
『うん?そうだな、人を待っておる。坊はどうしてここへ?』
「ここね、おばあちゃんの、思い出のばしょなの。初恋の人と、おねがいしに来たんだって。ぼく、こっちにこしてきたの」
『そうか』
「おじいちゃんには、しー、だよ〜って言われたの。そういうものなのかなぁ?」
『そういうものなのだろうな』
ここに二人で祈りに来るものは少ない。稲荷神社...即ち生成。生存と成長を望む願いは、一人で祈りにくるか、夫婦と赤子で来るものが多い。
故に簡単にその者は分かった。なるほど確かに、はるか昔の故人とはいえ、奥さんの初恋の相手との場所など、あまり良い気はさせないだろう。
「ここ、どんな所なの?」
『妾の家なのだよ、ここは。おばあちゃんも少しばかし知っておるぞ』
「そうなの!?おねえさん、すごいんだねぇ」
『覚えていてくれる人がおるからな』
「わすれられないと、すごいの?んー?...そういうものなの?」
『そういうものだとも』
一度目はただの偶然でも、二度となると話は変わってくる。何だか懐かしいその確認の問いかけに、ついあの頃に良く聞いた答えを返してしまう。
「おねえさん、どんな人を待ってるの?」
『いつも、「また来たよ」と餡団子を三人前持ってきて、二人前食べるような奴だ』
「ぼくも好きだよ、あんだんご〜」
『そして、従兄妹を魅了しても、気づかんような罪深い鈍い男だ』
「みりょ...つみ?」
『バカな者、という事だ』
「そういうものなの?」
『そういうものなのだ』
何も分かっていない少年に、こういう所は変わらない、等と重ねて見る男を思う。直系ではないが血縁者という事もあってか、顔も似ている。
かつての仕返しだと言わんばかりに髪をクシャクシャにしてやってから、彼女は空を示した。
『ほれ、童は帰る時間ぞ』
「あ、ホントだ!ごめんね、おねえさん」
慌てるように、此方を振り返らずに石段を駆け下りる姿に、つい『...あぁ』と声が漏れた。それは彼への相槌なのか、己の内からでた落胆なのか、少し判断がつかない。
そんな彼女の想いが通じたのか、少年は足は止めなかったものの勢いよく振り返った。
「あ、そうだ!」
『前を向け!転ぶぞ!』
「明日もね!ぼく来るね!また来たよ、ってあんだんご、あげるね!」
叫ぶ少年に、あの時の己が重なった。であれば、彼はこんな思いで旅立って行ったのかと、己の胸に手を添える。
トキントキンと、正しい脈拍。きっと彼の言う宝とやらは、今は自分の胸にもある。
『お主に言われれば、満足だろうな...』
呟いた声は、果たして届いたのか。それは分からないが、手をめいっぱいに振りながら走る少年に、己の手も大きく掲げて振ってやる。
どうせ己を見える者も少ないのだ、外聞など気にするものではない。そんな僅かな吟味より、無くしてしまうまでの一瞬一瞬を味わいたかった。
「おねえさん、またね!」
『あぁ、またな!』
神様の顔には、数十年ぶりに無邪気な笑顔が浮かんでいた。