029 食い下がるにも材料がない。 そう、思ったときだった。
フエルテさんはいつも通り執務室にいた。
ベリーショートの金髪と、翡翠色の瞳。
淡いクリーム色のスーツ。
こんな女性が上司だったら……いや、それはそれで緊張するか。
書類に目を通していたけれど、案内されたのがわたしだと判ると顔を上げてくれた。
「おや。久しぶりだね、子猫ちゃん」
「ご無沙汰しております」
わたしは今まで編んできたレースモチーフを、デスクの上に積み上げた。
「お願いがあります。わたしと取引をしてください」
「断る」
「ありがとうございます。……って、えぇ!? 断るだなんて」
ちょ、ちょっと!?
二つ返事で受けてくれると思ったのに!
なんだか恥ずかしい! 顔が熱い!
わたしが勝手に自爆しているのも気に留めず、フエルテさんはチェアーに体を預けて天井を見上げた。
「アービルがどうなったか知っているか」
どきっ。
まさしく、アービルのことをどうにかしたくって来ました。
「……はい」
「罪状は、聖女への不敬」
「はい」
「この国で最も重い罪だ」
フエルテさんが視線を下ろし、わたしを真っ直ぐに見つめてきた。
「メヌー・デル・ディーアとはそういう国だ。子猫ちゃんもしっかりと己の役割を全うして、逸脱しないことだ」
己の役割。
デセオの言葉が、脳裏に蘇る。
『お前にできる唯一のことは、身代わりとして民へ希望を与え続けることだけだ』
ほんとうに?
それだけしか、ないの?
「ということで、イロハ。取引は不成立だ」
「フエルテさん。どうかお願いです。わたしに手を貸してください」
「断る。私だって処刑されたくはないからね」
デセオだけじゃない。
フエルテさんですら、聖女に対しては慎重にならざるを得ない。
改めてこの国における聖女の立場を思い知らされる。
……万事休す。
食い下がるにも材料がない。
そう、思ったときだった。
「何者だっ」
「捕らえろ!」
どたばたどたっ!!
ばんっ!!
部屋の外がにわかに慌ただしくなって、最高潮に達したとき、執務室の扉が開いた。
「だったらおれと取引しましょう」
「……キエトさん……?」
黒髪黒目、わたしと同じ転移者。
キエトさんが立っていた。
一瞬誰か分からなかったのは、いつもの恰好じゃなくて、全身真っ黒な装いをしていたからだ。なんなら眼鏡もかけていない。
に、忍者?
ぽかんとしているわたしと視線が合って、キエトさんは強く頷いた。
それからすたすたと歩いてきて、フエルテさんの前に立つ。
キエトさんは机の上に右手を置いて、身を乗り出した。
キエトさん?
こ、こんな大胆なキャラだったっけ?
まるで別人みたいだ。
わたしの驚きそのまま、キエトさんははっきりとした声で告げた。
「イロハに手を貸せないとしても。今、この場所では何も起きなかったこととしませんか。それくらい、貴女には容易いでしょう? ギルド長」
★ ★ ★
そしてわたしは今、山道を歩いている。
正しくはキエトさんの後をついていったら山に入ってしまった、んだけど。
雨はいつの間にか止んでいた。
ただ足元はぬかるんでいて、パンプスだと微妙に歩きづらい。
キエトさんはレザージャケットと、ファスナーが至るところについているズボン。ごつごつとして重たそうなブーツ。
長い髪の毛はひとつに束ねている。
猫背ではなく、ぴんと背筋を伸ばして歩いている。
絵描きでも花売りでもない今のキエトさん。
『おれはこの国に来て、それなりに酷い目に遭ってきました。ようやく落ち着いて暮らせるようになってきたところです』
前にそんなことを言っていたけれど。
ほんとうに一体、何者なんだろう……。
やがて、道の終着点が見えてきた。
「よ、要塞……?」
第一印象はコンクリート。いや、この世界にはないだろうけれど。
鈍色の四角い建物は緑のなかで明らかに浮いていた。
「キエトさん。あなたは、一体」
振り返ったキエトさんは髪の毛をわしゃわしゃとかきむしった。
「絵描きも花売りも仮の姿のひとつ。この世界での主な職業は、盗賊です」
「盗賊!?」
平和な日本に暮らしていたはずなのに何故……?
わたしの疑問は顔に出ていたみたいで、ふっとキエトさんは表情を和らげた。
「経緯は気が向いたら話します」
「は、はい」
建物内もやっぱり打ちっぱなしのコンクリートみたいに無機質。
わたしは階段を昇った先の部屋に案内された。
リビングルームというよりは、仕事部屋っぽく感じる。盗賊のではなくて、サラリーマンの部屋。パソコンがあってもおかしくない雰囲気だ。いや、ないけど。
部屋の中央、黒い椅子に座るよう促されて大人しく従った。
会議机みたいな楕円のデスクには、本や何かの道具が置かれている。
「緑茶でいいですか」
「緑茶があるんですか!?」
「羊羹もあります」
「すごい……」
まさか異世界で羊羹を食べられるとは思ってもみなかったぞ。
キエトさんは頷いて一旦部屋から出て行った。
奥の壁は一面が窓になっていて、森が見える。
「お待たせしました」
マグカップで出された緑茶は爽やかで、どこか懐かしい香りがした。
視界が滲んだのは湯気のせいだ。きっとそうだ。
「いただきます」
ひと口サイズの羊羹にデザートフォークを刺した。
まったくざらついていない、滑らかなあんこの舌触り。
ぶわっと広がる豆の風味。
日本にいた頃はたいして美味しいと思っていなかったけれど、いくらでも食べられる優しい食感の羊羹だ。
濃厚な緑茶と交互に無言で味わう。
張りつめていた色んな想いが解けていくようで、鼻をすすった。




