012 ビールが飲みたいです。枝豆付きで。 言いかけてぐっと飲み込む。
どぅっ!!
バルコニー側の窓が開けられた途端、音の波が飛び込んできた。
すごい歓声だ。
こんな歓声、聞いたこと、ない。
声って混じり合うと、ただの感情の波になるんだ……。
足が、足が震えるぅぅ……。
「手を」
能面のデセオが、すっと右手を差し伸べてくる。
震えている手を載せると、温かくてごつごつとしていた。
少しだけ緊張が和らいだような気がしてくる。
すごいなぁ、デセオ効果……。
バルコニーは中からの見た目以上に、広くて奥行きもあった。
ゆっくりと歩いて、十歩ほどでようやく手すりまで辿り着いた。
歓声と拍手が一層大きくなる。
……ヴェールで隔てられていて、よかった。
今、初めてヴェールの利点を見いだせたような気がする。
歓声でかき消されているけれど心臓の音は大きく聞こえるし、心臓が口から飛び出そうだし、足はがくがく震えている。
固まっていると、デセオがわたしの隣で片膝をついた。
ごくり。唾を飲み込む。
やるしか、ないのだ。
衣食住、おやつ付きで保証されている今の生活の、これが労働なのだから。
週五日、八時間労働、残業月二十時間の日々に比べればなんのその!
「皆さん、こんにちは」
腹をくくった途端、ふしぎと大きな声が出た。
ぴたりとやむ歓声。
「ヨマの月もこうして穏やかに迎えられたことを、嬉しく思います。メヌー・デル・ディーアに、光あれ!」
ぐわぁぁっ!!
そして再び熱気の波。
聖女万歳、と皆が口々に叫んでいるのだけは理解できた。
わたしは両手を重ねて、深く深くお辞儀をしてから、ゆっくりと背中を向けた。
再びデセオの手を取って、バルコニーから部屋へと戻る。
……ぺたん。
窓が閉められて部屋に静けさが戻ってくると一気に力が抜けて床に座り込んでしまった。
「よくやった」
そんなわたしの頭に、デセオが触れる。
言葉通りの感情が込められた触れ方。
おそらく、彼は当代聖女に対しても同じように……ううん、それ以上に優しくするのだろうけれど。
見上げると仏頂面の騎士団長は、仏頂面のままだったけれど。
「これが、聖女の国だ」
「デセオ……」
う。ちょっと泣きそう。
鼻の奥がつんとするので、ずずっとすする。
軽やかに扉がノックされると同時に、入ってきたのはグラシア王子だった。
デセオよりもグラシア王子の方が、ノックの間隔が短いので判る。
王子は薄い笑みを浮かべてゆっくりと拍手してきた。
「すばらしかったよ」
「グラシア王子」
「あ、ありがとう、ございます」
「及第点には程遠いがな」
「うぐっ」
「デセオは厳しいなぁ。イロハ。君を労いたいんだが、欲しいものはあるかい?」
「ビ」
ビールが飲みたいです。枝豆付きで。
言いかけてぐっと飲み込む。花見に想いを馳せてしまったせいだ。いや、そもそもこの世界にビールってあるんだろうか。
「ビ?」
「いえ、及第点に程遠いと言われてしまいましたし……」
ちらりとデセオに視線を遣る。
ばちっと目が合って、ふん、と鼻を鳴らされた。
「真面目だなぁ」
「この者にはそれくらいが丁度いいでしょう」
「デセオは真面目の度がすぎる。もう少し肩の力を抜けばいいのに」
グラシア王子がいつものように軽口をたたく。
見ていて分かったけれど、他の人たちはデセオに対して一歩引いているところがある。
騎士団長だから、というのもあるだろうけれど。
こうやって気さくに接しているのは、王子だけなのだ。
「そうだ、イロハ!」
グラシア王子がわたしに向かって何度目か分からないウインクを飛ばしてきた。
「それならとびきりのアフタヌーンティーに招待しよう。ちょうど、会わせたい者がいるんだ」
★ ★ ★
数日後。
塔までグラシア王子が迎えに来てくれた。
真っ黒なわたしが連れて行かれたのは、まさかの城内。
だけど、初めて訪ねる部屋だった。
今日のグラシア王子はマントを着けていないし、普段よりもラフな格好に見える。
わずかに煌めく白色のジャケットとズボンはやはり高貴な雰囲気で、王子以外に着こなせないとは思うけれど。
軽く素早く、グラシア王子が扉をノックする。
「入るよ、レフィナド」
許可が返ってくる前にグラシア王子は扉を開けた。
同時に、ふわっといい香りが放たれた。
それから鮮やかな色彩が視界いっぱいに飛び込んでくる。
ビビッドな赤、紫、黄色、オレンジ、緑。黒まで鮮やかに見える。
……ん? 黒?
部屋の中央に、違和感たっぷりな黒い布のかたまりがあった。違う、いた。
もぞもぞ。
黒い布のかたまりが動く。
「……貴女が偽物の聖女?」
もぞもぞ、と黒い布のかたまりが動く。
いつの間にか扉を閉めていた王子が肩を竦めた。
「偽物だなんて言っちゃいけない。身代わり、さ」
「お兄様は少し黙っていてくださるかしら」
まるで高級な楽器のような声。
黒い布から発せられている。
ばさぁっ!
布を宙へ飛ばし、立ち上がったのは朱色の髪と瞳の少女だった。
艶のある巻き髪は腰まで届く長さ。
ボリュームと長さがしっかりとある睫毛に縁どられた大きな瞳。
目に眩しい金色の服は、どう見ても寝間着だった。
朱色の髪と瞳は王族の証。
そして、グラシア王子を兄と呼んだ、ということは。
「あたくしはレフィナド・ドス・レイナ・アンテパサード」
両腕を組んで、見下すように見つめてくる。
名前だけはシェフから聞いていたので知っていた。
十四歳の第一王女は、我儘だと。
自身の存在に基づく確固たるプライドがなせる、生まれながらの王女様だと。
なるほど。
確かに、生まれながらの王女様。
可愛いし強そうだ。
わたしのことを認識しているというならヴェールに意味はないだろう。
顔を出して、深々と頭を下げた。
「はじめまして、レフィナド王女。イロハと申します」




