001 なにはともあれ、異世界転移に関する基礎知識があってよかった。
★ ★ ★
神さまとやらが実在するなら、もう少し気を利かせてくれたってよかったのでは?!
「あ、あ、あ……」
現在。
人間は驚いたり困ったりすると声が出なくなる。だから子どもには防犯ブザーを持たせなければならないんだっていうのを体感中
なんて、声はうまく出せないけれど頭のなかはひどく冷静だった。
何故なら。
わたしの右手には金色に光るかぎ針。
左手には、編みかけのレースモチーフブランケット。
そして目の前にはわたしよりも遥かに巨大な、狼。しかも銀色。
さらには鬱蒼と生い茂った森。
ここでわたしの脳は、どうやら現実だと認識した模様。
充満しているのは、久しく嗅ぐことのなかった土や木のにおいで。
パジャマのハーフパンツは、湿った地面の感触を伝えてくる。
……結論。
これは俗にいう『異世界転移』というやつである。
スマホ小説で読んだことがある。
えっ、ほんとに?
だってさっきまで、自分のアパートでレース編みをしながらのんびりとテレビを観ていたんだよ?
いくら夜更かししてもいいって思える金曜日の夜が、わたしは好きだ。大好きだ。
趣味はレース編み。ひそかな楽しみは完成した作品をSNSに載せること。
もちろんアカウントは知り合いに教えていない。
会社では、大きなミスもしなければものすごく仕事ができる訳でもない、普通中の普通という立ち位置にいるのだ。そんな趣味があることは絶対に言いたくない。
そんなわたしがどうして異世界に……?
いや、っていうか転移した瞬間、森で襲われるなんてありきたりすぎでは……?
※ここまでの思考、わずか一秒。
銀色の狼は確実にわたしをロックオンしている。
このままでは異世界に来たのに即死だ。
元の世界に帰れるかどうかもわからないし、こんなところで死ぬのはいやだ。
神さま。
異世界に転移させるなら、せめてチート能力くらい与えてくれたっていいのでは。
今のところ漲るパワーみたいなものは何も感じないんですが。これはどういうことですか。
立花いろは、二十五歳。
友人からは「時々あんたってとんでもなく豪快な行動をするよね」と称されている。
だからって訳でもないけれど、賭けに出ることにした。
足に力を込めてゆっくりと立ち上がる。
立ち上がっても銀色の狼の方が大きい。圧倒的に大きい。
息を呑む。視線は、逸らさない。
ぐっ、と左手に力を入れた。
「とりゃーっ!!」
出したことのない大声で精いっぱい威嚇して、投げるのはブランケット!
す、る、と。
きらきらきら……。
わたしの手から離れて宙を舞うブランケットから、溢れるように光が生まれ――
きらきらきら……。
音もなく銀色の狼を覆った。
まるで、網のように。
「チ、チート……?!」
真偽は分からない。だけど、きっと、今なら逃げられる!
ありがとう神さま! さっきは文句ばっかり言ってごめんなさい!
ブランケットが輝いているおかげで明るくなった森のなか、踏み固められただろう道を見つけて地面を蹴った。
かぎ針を握りしめ、泥だらけのパジャマで。
走る。走る。
裸足でひたすら走っていくと、急に視界が開けた。
「わぁっ!」
躓いてころびかけ、なんとか踏みとどまる。
「……!」
空を見上げると自分の知っているものによく似ていた。
藍色の夜、月、星。
どうやらこの異世界は、元の世界と同じ構造のようだ。それだけでも安心できて、深く息を吐き出すことができた。
だって、夜があれば朝が来るということだから。
さぁ、夜通し歩くか、この森の際で休むか。
視界の端に大きな岩を見つけて、すぐに決めた。休んだ方がいいだろう。
森には銀の狼がいたのだ。もしかしたら盗賊だっているかもしれない。
大岩に隠れて朝を待ってから対策を考えよう。
どこでも寝られるのは、人様に誇れる特技である。
ふらふらと岩に向かって歩きはじめた、ときだった。
「何者だ?」
低く圧のある声がわたしを地面に縫い留めた。
恐る恐る、振り返ると。
「わっ!」
目線の先は黒。黒く煌めく双眸。馬だ。黒い馬。
獣臭が鼻をつく。
瞬きして見つめ直すと、正しくは、馬に乗っている人物から声は発せられていた。
視界が悪くて顔はよく見えない。
ただ、着ているものの装飾が月光を受けて輝いている。たぶんファンタジーにありがちなごてごての装飾。
イメージだけで判断すると、騎士……?
「聞こえなかったか? 貴様は、何者だ」
声色だけで判る。向けられているのは、疑いと、敵意。
だけどわたしは安堵していた。
どうやら言語も通じる状態になっているらしい。
それだけで十分だ。
会話ができれば、あとは探ればいいんだから。この世界のことを。
なにはともあれ、異世界転移に関する基礎知識があってよかった。
「……あの……」