ムラサキツユクサ
”恋”
特定の人に強く惹かれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。
辞書に記してあった一語一句がまさに今の自分の心境と重なっていると思い、人生で味わったことのない新たな感情に出会った。無性に少女漫画や恋愛映画を見たくなったり、インターネットでモテる服装などと調べている自分に恥ずかしくなりながらも、学生時代にできなかった青春を取り戻している感覚が自分の中で渦巻いているのを強く感じた。松谷すみれは、人生初の恋愛を体験することになる。
金木犀の匂いに包まれ、疲弊したからだを芯まで温める。金木犀の香りがする入浴剤を棚の奥にしまい込んでいたことに気付いた。
唇がお湯に触れるか触れないかのあたりまで浸かりながら彼との時間を振り返る。いつしか彼のことを思うこの時間がルーティンになっていた。
彼が会社の同僚に見せない顔を自分だけが知っていて、親でも友達でも踏み込めない彼の悩みまでも自分だけが知っている。あの居酒屋にいる時間はふたりだけのものであって、他人が入り込む隙は一切合切ない。この特別感がまた自分の恋心に火をつける。
しかし自分が彼に好意を伝えてうまく事が運ばなければ今までの関係が破綻してしまうかもしれないと考えるとこのまま自分の胸中を明かさずに今まで通り楽しくご飯を食べに行くという報われない幸福を選ぶのが賢明だと思い、恋心を必死に鎮めようとしていた。
日曜日を迎えた。仕事は忙しく大変だったが大きな原動力が自分を奮い立たせていて心臓に突き刺す上司の針も普段より軽減されていた気がした。
今までとは違う感情を秘めた自分が彼に会うのは1週間ぶり。新しく買った服装は白を基調とした、いわゆる清楚系で今流行っているなんとか坂46にいそうな女の子を意識した。眉毛は平行、アイシャドウはブラウン、アイラインは細めに、オレンジ色のリップ。女性が憧れる女優のメイク術という記事をすべて鵜呑みにしたのが吉と出るか凶と出るかはさておき前日に使った韓国製のパックが肌を若干潤わせている気がした。
定位置で彼を待つ、この間まで自分がどんな声色で挨拶をしていたのか、開口一番に何を言っていたのか普段は考えることのないテーマについて真剣に悩んでいたところに彼が到着した。
いつもと明らかに様子が違ったのを察知し思わず挨拶より先に彼を心配していた。
「楓さん顔色悪いですね、体調大丈夫ですか」
私の心配をよそに彼は大丈夫ですとだけ言い、いつもの居酒屋へと吸い寄せられるかのように向かった。弱っている彼に何が起きたのか、どんな言葉をかけようか、今日は早めに切り上げたほうがいいなと考え込む。彼の負担にだけはなりたくないという思いが強くあった。
いつもの席に座り注文をした。店主が少々お待ちと言って席を離れ、彼が重たい空気を裂くように話し始めた。
「この1週間仕事がかなり忙しくて、毎日のように残業。帰れば夜中の2時。出社は8時。そんな生活がずっと続いてたんですよ。自殺するより先に過労死で逝くかと思いました、ほんとに。」
彼を心配する気持ちより先に自分と彼の気持ちにあまりにも大きなズレがあることを強く実感して切なくなった。そして次の瞬間には彼のことよりも自分のことを優先している自分に気付いて嫌気がさした。今彼に向ける言葉は何が適切で、どうしたら救えるのか夢中で考える間に包丁で何かを切り刻む音や、曲名の分からないBGMがふたりの空気を埋めるかのように響いている。
「すみません、店主さんおすすめのお酒私と彼にお願いします」
必死に考えた末の言葉はきっと正解でも不正解でもなかった。ただどうしてもシラフでこの場を乗り切るのはあまりに耐えがたかった。彼はというと少し驚いた顔をしていたが、数分後に届いた日本酒をおいしそうに勢いよく呑んだ。沈んだ気持ちをお酒と自分のトークでなんとか盛り上げようとした。私のことを好きになってほしいという邪心を捨てて、ふたりだけの励まし会のような空気感を創り出そうとおいしいお酒と数少ない自分の面白エピソードを話してみせた。
「すみれさん、暴露大会しませんか」
少し酔っている彼の口から出た王道の展開に嫌がることもなく先攻後攻どちらにするかのじゃんけんをして先攻になった私は、間違えてツイッターの別アカウントで上司の悪口を呟いてしまったという若干弱めのエピソードを話して大会のハードルを下げた。自分の保守的な話を聞いて彼はそれって暴露するようなことか、とニヤニヤしながらお酒を呑んだ。そういう彼も私の話のレベルと同じくらいの、例えばアダルトサイトを見ているときに親が部屋に入ってきたとか学校の先生のことをお母さんと呼んでしまったみたいなありがちではあるがクスっと気軽に笑えるネタを話し始めるのだろうなと構えていた。枝豆と刺身盛り合わせを注文したあとに後攻の彼にバトンが渡った。
「えー、私石井楓こと石井楓は、お母様のお腹から出てきた時からゲイであることを松谷すみれ殿に暴露いたします。」