第7話 エスエスの水晶
ようやく主人公が登場します。
月が出ている。
やけに明るい月だ。
ここは、異世界のランドにあるチルシュという街の貧民街。
この世界は夜が早い。
まだ日が沈んでからそれほど時間は経っていないが、街の中は真っ暗である。
所々、かがり火のような炎が見えるが、ほとんどの家に明かりは点いていない。
日の入りと共に寝て、日の出と共に起きるのが当たり前なのだ。
貴族が使っているような明かりを灯すアイテムは高価過ぎて、貧民街では全く見かけない。
明るい月が貧民街を照らしている。
月明かりがあれば、何とか歩いて移動することは出来る。
もしかすると、地球から見る月と明るさは変わらないのかも知れない。
街の明かりが暗すぎて、月が明るく見えるのだろう。
貧民街には獣人が多く住んでいる。
夜目の効く種族なら、暗くても活動に困らない。
しかし、わざわざ暗い中を活動している者は少ない。
そういう輩は、大抵悪い事を企んでいるものだ。
今も、息を殺すようにして、貧民街の一角を移動している数人の人影がある。
ラナリアとシルコ、エスエスの3人は、家でグッスリ眠っている。
昼間は色々あって疲れていた。
いつもより深く眠りに就いていたかもしれない。
ドン、ドン、ドン
突然、ドアを乱暴に叩く音がする。
深い眠りの海底から急浮上させられ、海面に飛び出した。
3人は飛び起きる。
「えっ、えっ……?」
声を出したのはエスエスだけである。
状況が掴めていない上に、熟睡していたのだから無理もない。
しかし、ラナリアとシルコは声も出さずに、体勢を低くして身構えた。
伊達に何年も貧民街で暮らしているわけじゃない。
深い眠りの底にいても、どこかで警戒しているのだ。
ドアの向こうで声がする。
「おい、ラナリア。出て来いよ。急ぎの用があるんだ」
聞き覚えのある声だ。
貧民街の中でも乱暴者が多く、暴力沙汰を繰り返している地域のチンピラだ。
確かエドキとかいう熊の獣人だ。
そのエドキが続ける。
「ここを開けろよ。何なら蹴破ってもいいんだぜ」
更にドアをドンドン叩いている。
「ドアを叩くのをやめな!近所迷惑だろ」
ラナリアが答える。
シルコやエスエスに話す時の優しい口調ではない、ドスの効いた声だ。
「こんな夜に何の用だい」
ラナリアはドアを開ける。
杖を構えて、いつでも魔法を放てる構えだ。
魔法の詠唱は済んでいる。
この状態だと、いつでも魔法が撃てる代わりに、魔力を消費し続けてしまう。
体力の無いラナリアにとってかなりリスキーなやり方だ。
「変なマネをしたら火だるまにするよ」
家の前には、エドキの他に数人の獣人がいた。
なぜか高級アイテムのはずの明かりを持っている。
どいつもこいつも人相が悪い。
この世界では、ほとんどの獣人は火に弱い。
だから、ラナリアのこのやり方はかなり効果的なのだ。
ただし、ラナリアのなけなしの体力と引き換えだ。
「俺たちは取引に来たんだぜ。杖を降ろせよ。辛いんだろ。知ってるんだぜ」
「余計なお世話だよ。で、何の取引だい」
ラナリアは杖を降ろさずに言う。
痩せ細った顔付きは、衰弱の様相を隠せない。
それでも目は爛々と輝き、赤い髪は燃え上らんばかりだ。
今にも杖の先から炎が吹き出しそうだ。
実はこの時にはもう、ラナリアは魔法の発射準備を解除していた。
長い時間は保たないのだ。
でも、外の獣人達には分からない。
いつでも火魔法が撃てるように見せかけているラナリアのブラフである。
エドキは言う
「お前らには借金がある。金貨1枚分だ。それを今すぐ払ってもらおう」
「バカな事を言うんじゃないよ。お前らなんかに誰が借りるか!」
「バカはお前だぜ。俺達はある貴族のお偉いさんに依頼されて来てるんだ。ちゃんと証文もあるぜ」
エドキはヒラヒラと一枚の紙を見せる。
それは確かにラナリアには覚えのある証文だった。
バギー商店から借りた金貨の借用書だ。
そのやり取りを見ていたシルコが堪らずに声を上げる。
「それはバギー商店との契約書でしょ。貴族なんて関係ないわよ」
エドキは、フンッと鼻で笑い
「よく見ろよ。債権者が代わってるだろ。バギーなんて知らねぇよ。なんかあったんじゃねぇのか」
とニヤニヤしている。
シルコがよく見ると、借金の受取人が変えられている。
いかにも付け足したような書き方で、怪しいことこの上ない。
しかし、新たに債権者になっている人物が問題だった。
トルーレ伯爵
このキャベチ領を治めるキャベチ公爵の側近で、かなりの権力者である。
ドスタリア共和国のそれぞれの領内では、領主は国王と同様の力を持っている。
従って、キャベチ領内ではキャベチ公爵の側近は王族に等しい。
シルコは脳内の情報を引っ張りだす。
トルーレ伯爵は評判の悪い貴族だ。
強引な手法でライバル達を蹴落として出世したという噂だ。
自分の利益の為なら手段を選ばないらしい。
しかし、キャベチ公爵の信頼は厚い。
あまり褒められないような、汚れ仕事もこなし、公爵の裏の顔を支えている人物。
出世の為、キャベチ公爵の為なら何でもやるという噂の人物。
冷酷でプライドが高く、平民には容赦無い、という話もある。
「最悪ね……」
シルコが呟く。
これだけ大物の貴族の署名がある限り、書類の怪しさなどは問題にならない。
この証文に文句をつけるということは、トルーレ伯爵に文句をつけるということになる。
平民が大貴族に文句をつけることなど許される訳がない。
更に、たかが金貨1枚の貸し借りの証文に、大物貴族が絡んでくることが異常なのだ。
金以外の目的があるはずだ。
「やっぱり目的はエスエスね」
シルコは結論に達する。
数日前、エスエスはキャベチ公爵の手の者に襲われている。
その時は、謎の女冒険者のおかげで返り討ちに出来た。
この時の話と、今回のトルーレ伯爵の件が、全くの無関係とは思えない。
キャベチ公爵がエスエスを手に入れたがっていていて、その為にトルーレ伯爵が動いている、と考えるのが自然である。
「分かってんじゃねぇか。そこにいる小人族のガキを渡せば、この借金の件は無かったことにしてやってもいいんだぜ。ま、その小人族は奴隷落ちするだろうけど、死ぬわけじゃないしな」
シルコの言葉が聞こえたエドキは、勝ち誇ったかのように言う。
ラナリアとシルコはエスエスを見放すに決まっている、と思っているようだ。
ところが
「ふざけんじゃないよ!」
ラナリアが叫ぶと、構えていた杖の先から炎が吹き出す。
「うおっ」
エドキは驚いて飛び退る。
「仲間を売るようなマネは出来ないね」
と、ラナリアが告げる。
「正気かよ」
エドキは信じられないようだ。
「仲間ったって、まだ付き合い出したばかりだろう。こんなマネをして、お前ら生きていけなくなるぞ」
ここで、今まで黙っていたエスエスが口を開く。
「ボクが行くことで収まるのなら、ボクは構わないです」
「あなたは黙ってて!」
シルコが叫ぶ。
「あなたは奴隷のことが分かってない」
感情的に叫んだように見えるシルコだが、実は冷静に状況を分析していた。
エスエスがこう言うことは、予測出来ていた。
そして、それを止めなければいけないことも。
それから問題がもう一つ。
ラナリアが限界なのだ。
長い付き合いのシルコには分かっていた。
ラナリアは強く見せかけているが、さっきの火魔法でもう立っているのもやっとのはずだ。
ラナリアが倒れたら、エドキ達は強硬手段に出るかもしれない。
そうなったら勝ち目はない。
時間を稼がないと……このままでは逃げることも出来ない。
シルコが前に出てエドキに言う。
「ちょっと3人だけで話し合いをさせて。半刻、いやその半分でもいいわ」
この世界の一刻は約1時間なので、半刻は約30分である。
この異世界が地球と同じ位の大きさの星ならば、時間の長さもほぼ同じになる可能性は高い。
「もう、やっちまおうぜ。めんどくせぇよ」
エドキの後ろにいた犬の獣人が口を出す。
エドキは呆れたように言う。
「じゃあ、最初にお前が火だるまになれや。俺はごめんだがな」
やはり獣人は火が苦手なのだ。
「よし、分かった。時間をやる。よく考えろ。まあ、考えてもどうにもならんと思うがな」
エドキ達が下がったので、シルコはドアを閉めた。
「逃げようと思うなよ!無駄だぜ」
外でエドキの大声がした。
「……フゥ……」
閉じたドアに寄っかかり、シルコは溜息をついた。
その時ラナリアが、膝から崩れるように倒れる。
何とか抱き止めるエスエス。
やはりラナリアは限界だったようだ。
「すいません、ボクのために…」
ラナリアの痩せた身体をベッドに寝かせ、心配そうに表情を歪ませるエスエス。
「大丈夫」
シルコはジャクの干し果実を取り出して、ラナリアに食べさせる。
「う、んぅぅ」
ラナリアは朦朧としながらも、ジャクの実を何とか呑み込んだ。
「もっと食べなさい。無茶するからよ」
シルコは次々とジャクの実をラナリアの口に入れる。
ラナリアは次々と噛んで飲み込む。
その度に、少しづつだが回復するラナリア。
カロリーを補給すれば、ある程度は回復するようだ。
「ちょっとだけ休ませてもらうわ。シルコ、後をお願いね」
ラナリアは寝てしまった。
家の外ではエドキ達が騒いでいる。
下品な笑い声が聞こえる。
この件の報酬の使い道についての話でもしているのだろう。
「ボクは……ボクせいで……」
エスエスは混乱している。
その姿を見たシルコは、少し悲しそうな顔をするとエスエスに近寄る。
シルコは、エスエスの小さな顔を、正面から両手で包み込むように自分の顔に近づける。
そして、優しくエスエスに語りかける。
「とても大事なことを伝えるね」
エスエスは少し驚き、目を逸らそうとするが、シルコはそれを許さない。
「私達は、エスエスを見捨てない、絶対に。これからもずっと。だから、自分を犠牲にするようなことは言わないで。私達は仲間なの」
シルコは立ち上がり、着ているシャツの胸のボタンを外していく。
シルコの胸には奴隷紋が刻まれている。
「見て、これは奴隷の証しなの。あなたは奴隷のことが分かっていない。あなたはこんなものを刻まれてはいけない。お願いだから諦めないで」
シルコは涙を流している。
エスエスも泣き出した。
「分かりました。もう諦めません。そんなに思ってもらえて嬉しいです」
「分かってもらえて良かった」
シルコは涙を手で拭うと、キッと顔を上げた。
もう泣いていない。
「脱出の方法を考えましょう。先ずはここを抜け出さないと。その後のことはそれからよ」
「なかなかのラブシーンだったわね」
ラナリアも起き出してきた。
まだ辛そうだが、動けるようにはなったらしい。
「裏から抜け出すのは無理みたいね」
気配を探ると、この家は囲まれているようだ。
「一か八か、強行突破しかないか……」
「勝率は低いけど、ゼロでは無いしね」
覚悟を決めていくラナリアとシルコ。
その表情は硬く、明るいものではない。
すると、エスエスが自信が無さそうに口を挟む。
「ボクに案があるんですけど」
エスエスの案とは、以前に助けてもらった女冒険者を呼び出すことだった。
エスエスは、その女冒険者を召喚するアイテムをもらっている。
白く濁ったような水晶に見えるそのアイテムは、事前に登録しておいた魔力を辿って、その魔力の持ち主を召喚するアイテムだということだった。
ハッキリ言って眉唾ものではある。
エスエスもこれを使うつもりはなかった
アイテムに詳しいエスエスの目から見ても、この水晶にそんな力があるとは思えなかったし、初対面のエスエスにそんなレアなアイテムをくれたのも気前が良すぎる。
まあ、記念品というか、お守りみたいな物として、エスエスはこの水晶を大事に持っているのである。
「それ、ホントに使えるの?」
ラナリアは、ジトッとした目をエスエスに向ける。
「ははは、まあ、やってみるだけ……やってみようかと……」
エスエスの持つこのアイテムについては、ラナリアとシルコも聞いてはいた。
だが、本気にしてはいなかった。
どう考えても、何時、何処に呼び出されるか分からないような物を、初対面の相手に渡すとは思えない。
たまに、エスエスがその水晶を見ながらボーッとしているのは知っている。
エスエスが喜んでいるみたいなので、余計なことを言わずに放っておいたのだ。
「じゃ、やってみてよ。上手くいったら儲けものよ」
「分かりました!それじゃ」
エスエスは水晶に魔力を流してみる。
エスエスが魔力を込め始めてすぐに
ガクッ
エスエスの体から力が抜ける。
「あれ?うわっ!」
体力が根こそぎ水晶に取られてしまいそうだ。
そして、水晶は淡い光を放ち始め、どんどん白い光を増していく。
部屋の中は白い光で満たされてしまった。
光を放つ水晶は、エスエスの手を離れ部屋の中央に浮かんでいる。
あまりの出来事に、ラナリアもシルコも声が出ない。
シルコの全身の毛が逆立っている。
ラナリアとシルコの魔力も吸い取られているようだ。
やはり、体から力が抜ける。
エスエスは床に座り込んでしまっている。
幻想的な、荘厳な雰囲気が部屋の中を包む。
この光は、家の外にも漏れ出しているらしく、外では騒ぎになっている。
「おい、何やってやがる。何だこの光は!」
エドキが叫んでいる。
「うおっ!力が抜けるぞ」
「何だこれ、立ってられねぇ」
エドキの仲間の獣人たちも、口々に異常を訴えている。
エスエスの水晶が暴走しているのは明らかだった。
水晶の光はラナリア達の家を中心に、その貧民街の区画一体に広がり、そこにいる生き物の力を奪っていった。
夜の闇が支配している貧民街が、昼間のような明るさに包まれている。
光に触れた者は、ことごとく力が抜けてしまう。
衰弱し切ってしまって命を失う者はなかったが、元々の力が強い者ほど奪われるエネルギーが大きかった。
その光はある程度まで広がると、今度は逆に縮み始める。
まるで、十分なエネルギーを集め終わったかのようだ。
光は急速に縮んで、空中に浮かぶ元の水晶に吸い込まれた。
一瞬の間の後に、再び水晶がパアッと光り、その光の中に人の形をしたものが浮かび上がった。
そして、光はスッと消えて、後には一人の人間がそこに座っていた。
そこに現れたのは、女冒険者ではなく、不安そうに辺りをキョロキョロと見回す男だった。