エミーリアの日記18
フリッツ殿下の婚約者の座を巡って、令嬢同士が殺し合う。
そんな恐ろしい事件が判明した明けの日には、ボートハウスに残っている人間は数えるほどになっていた。大半は夜のうちに早々に引き上げてしまっており、王都に戻り次第このスキャンダラスな出来事を吹聴するのだろう。
私は午前の光に輝く湖をボートの上からぼんやりと眺めた。
小舟が揺れ、ちゃぷちゃぷと涼しげな水の音が耳をうつ。
普段はおしゃべりなルーカスは、ボートに誘った時から、怖いくらいに黙りこくっている。
私もその沈黙に甘えて、もうずっと湖と彼の顔だけを眺めていた。
いつかの昔。
彼と二人でバスタブに入って、まるで夜を渡る舟みたいだと笑ったことがあった。
私はあの時、初めて生きようと決めた。
ルーカスのために生きようと。
それが間違いだったとは思わない。でも正しくもなかったのかもしれない。まぁ、今となっては全部後の祭りだ。
「私、結婚するわ」
ルーカスは何も言わず、じっと濡れた瞳で私を見つめるだけだった。
「クレイグと結婚するわ」
「あいつには婚約者がいるはずだよ」
「そうね。でもたぶん結婚するわ」
「……好きなの?」
「誰が?」
「クレイグ」
「まさか!」
あははと声をあげて笑うと、凄く不満そうな顔をされた。
好きでもないのに、もう決まっている婚約者から奪ってでも結婚するなんて変な話よね。でも、ベルンハルトの母親はそういう設定だったから、きっとそうなるのだと思う。
ルーカスが一緒に逃げようと言い出す前に、私は彼の名を呼んだ。
「ねぇ、ルーカス。私、心臓が悪いんですって」
「え?」
「昨日、お医者さんに診てもらったでしょう?その時にわかったの。数年もつかどうかですって」
「そんな、どうして……どうしてすぐに言わなかったんだ!」
ルーカスが急に立ち上がったので、小さな船はぐらぐらと揺れた。
見上げるルーカスは随分と大きく見えて、ああ、こんなに大きくなったんだなぁと妙に感慨深くなる。
「私も昨日知ったの」
「そんな……」
ルーカスの手を引いて、その場に座らせる。このままじゃボートが転覆してしまいそうだ。
力が抜けるように座り込んだ彼を抱きしめ、私は深く息を吸う。
私の体がひ弱なことは知っていたけど、心臓までポンコツとは思わなかった。
まさか何もしなくても、数年後には死んでしまうなんて!
本当に、私はなんて馬鹿馬鹿しい努力をしてきたのだろう。
私は、なんて愚かだったのだろう。
「私、子供を産むわ」
「駄目だ!子供なんて産んだら……!」
「死ぬでしょうね」
さらりと言ってのけた私に苛立ったように、ルーカスは私を引きはがした。
「エミーリア!」
顔を歪めて叫ぶ彼の顔を両手で挟んで、黙らせる。
「どのみち私は死ぬの。だから私の子供をあなたに託す。あなたが私の子供を守って。誰にも負けないように鍛えて。そして、愛してあげて」
「どうして、どうして、そんな酷いことが言えるんだ……。他の男とあなたの間に生まれた子供を僕に託すだなんて……そんなのあんまりだ。酷すぎる。そんなもの僕はいらない。一緒に逃げようよ。どこか遠くに。空気の良いところにいこう。僕のそばにいてよ。数年でも一年でも半年でもいいから」
「そうしたら私が死んだら、ルーカスも死ぬでしょう?」
「当たり前だろう!」
つくづく馬鹿な奴だ。
なんだってこんな酷い女のために死のうだなんて思うのだろう。
でも、少なくとも私は彼のこういうところが好きだったのだ。
一途で、不安定で、目を離したらどうにかなってしまいそうなくせに、意外とマイペースで、凄く頑固。
とても理想の王子様でも、素敵なヒーローでもない。
弱くて、優しい人。
「私はルーカスに生きていて欲しい。私より大人になって、お爺さんになって欲しい。だから、私の子供をあなたに愛して欲しい」
「どうして!」
「あなたは誰かを愛していないと生きていけない人だから」
ぽろぽろとルーカスの目から涙がこぼれた。
私は彼のうざったらしい前髪をかきわけ、何にも邪魔されずにその顔をまじまじと見つめる。
そしておもむろに顔を寄せ、彼に口づけた。
もっと早くにこうしてあげればよかった。
きっとルーカスは、私の知らないルーカスになるのだろう。
本来ならなるはずのなかった、本当の意味でのレトガー家の人間になるのだろう。
どのみちもうその道は避けられない道だ。
ならば、せめて意味を与えてあげたかった。
私が生むであろう、ベルンハルトを彼はきっと愛してくれる。
困難しかない彼の人生をきっと支えてくれる。
私が無いものにしようとしたベルンハルト。
私の息子。
びっくりするほど私に似た青年に彼はなるだろう。
破滅することが決まっている哀れな悪役に彼はなるだろう。
でも、ルーカスがいればきっと大丈夫だ。
ルーカスもベルンハルトがいれば、きっと大丈夫。
「ああ、でも絵だけは描き続けて欲しいな」
こうなったら最後まで我儘放題だ!
そう笑う私に、ルーカスは今度は自分からキスをした。
「知ってる?僕はあなたのそういう自分勝手で、我儘なところが大好きなんだ」
「この変態め」
「酷いなぁ」
その通り。
だから私は、結局最後まで彼に好きだとは言わずじまいだった。
ボートから降りた私を、クレイグが待ち構えていた。
「何か用かしら?」
つっけんどんな私の言葉に、彼はにっこりと微笑む。
「何か聞きたいことがあるんじゃないかなと思って」
むかつくが本当に顔だけはいい。
本当に顔だけは。
「あなたは結局、誰の味方だったわけ?」
「別に。特定の誰かの味方だったわけじゃない。ただ最終的に勝ちそうな人間の尻馬に乗せてもらっただけさ」
「いつからテアが色の区別がついていないことに気づいていたの?」
「結構前から。実は一時期テアとは仲良くしていたんだ」
「そう、仲良く、ね」
「テアは自分が色の区別がついていないことを知られるのを酷く恐れていた。ばれたら殿下の婚約者にはなれないってわかっていたし、何より恥じていた。完璧な自分でないことが許せなかったんだろう」
「レネはずっとテアの手助けをしていたのね」
「まさか従順なレネが自分を裏切るとは思っていなかっただろうな」
妹が自分をはめたのだとわかった時、テアはどう思ったのだろう。
色の区別がついていないことを言えば疑惑は晴れる。
しかし殿下の婚約者にはなれず、今度は妹が捕まることになる。それはキルステン家の終わりを意味する。
それともただ単に自分の欠点を知られるのが耐えられなかったのだろうか。
案外どっちもな気もする。
「フリッツ殿下はレネを選ぶだろうな。ルシア・ヴェーナーを心から愛するゆえに殿下は彼女を遠ざけるだろう。それにもともとテアを選ぶ予定だったんだ。姉だろうが妹だろうがキルステンならこの際どっちでもいい」
「……そうね」
その場合、テアは証拠不十分で罪には問われないだろう。むしろテアのことで、キルステンの弱みを握ったつもりなんだ。その優位もずっと続くとは思えないけれど。
「あなたって本当に嘘つきの最低男ね」
「お褒めいただき光栄です」
きざったらしいお辞儀をしてみせて、クレイグはふっと真剣な顔になった。
「でも、君のことが好きなのは本当だよ」
「あなたの婚約者より?」
「他のどんな女よりも。君は俺が嘘つきの最低男だって知っていてくれるから」
口の端をつりあげて、クレイグは笑おうとしたらしかった。しかしできたのは自嘲するような、ともすれば泣き出しそうな歪な笑みだった。
そんな顔をするくらいならば、いまからでも誠実になればいい。
そう言おうとしてやめた。
代わりに私は彼に手の甲を差し出し、言った。
「なら、私と結婚してちょうだい」
クレイグは一瞬面食らった顔をして、それから恭しく私の甲に口づける。
「仰せのままに」
そうして間違いは終わり、私は本来あるべきエミーリアになった。




