エミーリアの日記14
結論から言うと、ルーシェは命を取り留めた。
ボートハウスに在中していた医者が言うには、予断を許さない状況ではあるらしい。
それでもひとまずは助かった。
安堵のために膝から崩れ落ちそうになりながら、私はベッドに横たわるルーシェの白い手を握る。
ほのかに温かいが、唇は真っ青なままだ。
私が必死に水を飲ませたことに関しては、むしろ窒息のおそれがあるので今後はしないようにと怒られた。私が今にも死にそうな顔をしていたから、必死に助けようとしたあなたの気持ちもわかりますとも慰められ、本当に消えてしまいたいと思った。
「エミーリア」
ベッドの横に置かれた椅子に座って俯いていると、名前を呼ばれて後ろから腕が回される。
振りむかずともルーカスだとわかった。
この部屋には付き添いをかってでた私たちしかいないからだ。
「逃げよう」
耳元で懇願して、ルーカスは抱きしめる力を強める。
私のルーシェを王妃にする計画は上手く行っていた。
けれどそのルーシェが死に瀕していては、もうどうしようもない。
だから二人でこのまま逃げよう。
そう、ルーカスは考えたらしかった。
「絶対に苦労させないとは言えないけど、僕があなたを必ず守る。この混乱にまぎれてひとまず身を隠そう。それから国境を越えて、ずっと遠いどこかへ行くんだ。……エミーリアのことを信じていなかったわけじゃないけど、そうするための用意もしてある」
私はルーカスの誘いをぼんやりと聞きながら、ルーシェの手を両手で握り、私の生命力みたいなものが彼女に流れてくれればいいのになどと夢想した。
もちろんそんなことをしても何の意味もない。
どんなに願おうが、人は死ぬときに死ぬのだ。たとえ乙女ゲームの世界だとしても、これがまぎれもない現実である限りは。
だから逃げるのもきっと一つの選択肢なのだろう。
私は目を閉じて、自分自身に問いかけた。
ルーカスに手を引かれて逃げるかどうかではなく、お前はまだ戦えるか、と。
答えは是だ。
「いいえ、まだよ。まだ、私はあきらめない」
「エミーリア……」
「毒はケーキに入っていた。そしてテアはあの時不自然にケーキを取り換えた。絶対に何かある。ルーシェをこんな目に合わせた犯人には、きっちり落とし前をつけさせる」
立ち上がって振り返ると、ルーカスは途方に暮れたような顔をして私を見つめた。
「……あなたは僕と一緒に逃げてはくれないんだね」
「本当にそれしかなくなれば、そうするわ」
「じゃあ」
「でもそれは今じゃない。まだ手はあるはず」
腹の底で熱く、煮えたぎるものがあった。
怒りだ。
私の友人をこんな目にあわせたことへの怒り。
上手く行きかけていた計画を邪魔された怒り。
こうなる可能性を全く考えていなかった自分への怒り。
このまま引き下がるわけにはいかない。
「お願い、ルーカス。もう少しだけ時間をちょうだい」
激しい怒りのためにぶるぶると震える腕で、私はルーカスを強く抱きしめた。
そっと背中に抱き返される感触。
「……わかった。でも万が一の時のために、僕は逃げる用意を進めておくから」
かまわないと頷いて、どちらともなく抱きしめあう腕をほどく。
不安げな顔のルーカスを安心させたくて少しだけ微笑むと、ぎこちなくだが笑い返してくれる。
「ルーシェのこと、お願い」
最後に眠るルーシェの頬を撫でて、私がドアノブに手をかけるのと同時に、ドアが勝手に開いた。
「ルーシェ!」
私を押しのけるようにして部屋に入ってきたフリッツ殿下は一目散に、ルーシェのもとへ駆け寄った。
そして彼女の細い手首をとって、手の甲に自らの額を押し付けくずおれる。
「すまない、ルーシェ……」
すまないと繰り返す殿下の背をルーカスがさすってなだめる。
私は彼にかける言葉が見つからなくて、無言で今度こそ部屋を後にした。
そもそも私が二人を引き合わせなければ、こんなことにはならなかったのだから。
少し沈んだ気持ちで廊下に出た私は、扉の横に誰かが立っているのに気が付いた。
壁に寄りかかっていたクレイグは腕組をほどいて、何か言いたそうな目でこちらを見つめてくる。
殿下の付き添いできたのか。それともその前からここにいたのか。
何やらかかわると面倒そうだったので、私は彼を無視してずんずん歩き出した。
だが相手と私の脚のリーチの差は思ったより大きく、易々と追い疲れてしまう。
「何か用?」
ギロリと横目で睨みつけるが、クレイグがひるむ様子はない。
むしろえらく真面目な顔で、行く手を阻むように私の前に立ちふさがってきた。
「何をするつもりなんだ」
「犯人を捜すわ。そして償わせる」
「なぜ君がそんなことをする?」
「大切な友人を害した犯人を捜すのはそんなにおかしいこと?だいたい、あなたには関係ないでしょ」
ルーカスの前ではなんとか納めていたいら立ちが噴出して、ついついきつい物言いになってしまう。
腹の底では怒りがマグマのようにふつふつと煮えたぎって、油断すると飲み込まれそうだった。
これではよくないと、一つ深呼吸して落ち着こうとした矢先、クレイグから新たな質問が投げかけられる。
「君がそこまでルシア・ヴェーナーに執着する理由はなんだ?」
私がルーシェと殿下をくっつけようと画策していることはクレイグにはばれていた。
彼は面白がって私たちの手伝いを進んでしてくれたので、まさかこんなふうに真面目な質問をされる日が来るとは思っていなかった。
いつもひょうひょうとして、ふざけている彼にしては珍しく固い雰囲気に、少しだけ気後れしてしまいそうになる。
「……それこそあなたには関係ない」
「そうかな?君たちがルーシェと殿下をくっつけようとする手伝いをした記憶があるんだけど」
「それはそっちが勝手にしたこと。他にも理由がないなら、どいて」
「いいや、ある」
「へぇ?それは知らなかったわ。どんな理由か教えてくれる?」
「君が好きだからだ」
「は?」
君が好き?
君が好きって、なんじゃそりゃ。
信じられない思いで私はクレイグを見上げた。
彼はちょっとたじろいてしまうくらい真剣な顔をしていた。
薄い青の瞳は愛の告白をしたとは思えないほどに、静かに揺らぐことなく、真っ直ぐに私を見ている。
「冗談に付き合ってる暇はないんだけど」
「ああ、俺も冗談を言うほど暇じゃない」
つまりは本気ということだろうか。
それにしてもタイミングといい、流れといい、全くもってわけがわかならい。
私が好きとか、女の趣味が悪すぎる。
ルーカスも私のことが好きだと言ってはばからないが、それはそれだ。
相手にするだけ馬鹿らしいと思い、横を通り抜けようとしたのだが、向こうのほうが体が大きいのでなかなか上手く行かなかった。
通り抜けるのはそうそうに諦めて、私は腰に手を当てため息をついた。
「この際、あなたが私のことを本当に好きかどうかはどうでもいいわ。それよりもどうやったらどいてくれるのかしら」
「俺の質問に答えてくれたら」
「……わかった。私がルーシェにこだわる理由を言えばいいのね」
肩をすくめるジェスチャーをして、クレイグは話すよう促してくる。
私がルーシェにこだわる理由は、元をたどれば前世とか乙女ゲームとか、彼からすればチンプンカンプンな内容になってしまう。それに一から説明してやる義理もない。
考えた挙句、最もシンプルで分かりやすい理由をあげることにした。
「実家から逃げるためよ」
端的にそう伝えると、クレイグの眉間にぐっとしわが寄る。
「弟と一緒に?」
その言葉はどこか非難めいていて、心臓の裏側がざわざわとした。
さっきからなんなんだ。
私が好きだかなんだか知らないが、こっちはそんなおふざけに付き合っている場合ではないのだ。
「前々からうっすらとは感じていたんだが、さっきの君たちの会話を盗み聞きさせてもらって確信したよ。君とルーカスの関係は異常だ」
腹の底でマグマ噴き上がるのが分かった。
私は衝動のままにクレイグの胸倉を引っ掴んで、腹が立つほどに整ったその鼻先めがけて声を荒げた。
「誰であろうと、私たちのことをとやかく言われる筋合いはない!私はあの子のために生き残るって決めたの。そのためならどんなことだってするわ」
ベルンハルトやエドウィンといった本来生まれるはずの命をなかったことしてでも、自分の願いのために殿下やルーシェの気持ちを操ってでも、誰かの夢を踏みにじってでも、私は生きると決めた。
「ルーカスを愛しているから」
胸を張ってそう宣言すると、クレイグは呆けたみたいに口をぽかんと開けて固まった。
少し留飲の下がった私が力いっぱい突き放すと、よろめいた彼は一歩後退する。そしてしばらく固まっていたのだが、唐突に何がおかしいのかふふふと笑いをこぼし始めた。
私が怪訝そうな顔をすると、彼はふわっと相好を崩した。
「参ったな。惚れ直したよ」
その瞬間、私は腕を引っ張られて彼の胸の中にいた。
さらりと銀色の髪が揺れて、吐息がかかる。
クレイグは無理やり私を上向かせると、私の唇に自らのそれを重ねた。
ようは彼は私にキスしたのだ。
「なにすんじゃボケェ!」
突き出した右の拳が、クレイグの鼻っ面に見事に命中する。
私の非力なパンチでも、そこそこに痛そうな音がした。
握りしめた拳をわなわなと震わせながら、私は顔面を抑えてその場にしゃがみこんだクレイグから距離をとる。
し、信じられない……!
普通あの展開でキスしてくる!?
まさかこんなに頭のねじがぶっ飛んだ奴だったとは。
クレイグはしゃがみこんだまま、赤くなった鼻をさすって愉快そうに笑った。
「俺も手伝うよ。犯人捜し」
「いらん!あっちいけ、この変態!」
乙女の純情をもてあそぶ悪魔め!
いちおう今の、エミーリアとしてはファーストキスだったんですけど!
というかこのことをルーカスに知られたら、確実に殺される。もちろん私ではない。クレイグがだ。
「いいの?俺は結構役に立つと思うよ。こう見えても顔は広いからね。とりあえず、当時の状況を教えてよ」
そう言って立ち上がった彼は、格好つけるように口の端を片方だけ吊り上げてみせる。
腹立たしいことに、少しだけ頼もしいなどと思ってしまう自分がいた。




