エミーリアの日記13
六日目の朝は曇りだった。
昨日までの快晴が嘘のように、空はどんよりと低く、暗い。
天気につられてか、体調のほうもあまりよくなくて、咳が止まらず少し熱っぽい感じもあった。
「今日は休んだ方がいい」
私の額に手を当てて熱を測っていたルーカスは、口を渋そうにゆがめて言った。
毎朝起きたら当たり前のようにいるので、もう不法侵入がどうのとか言うのはだいぶ前にあきらめた。
「なに言ってるの。こんな大事な時に休めるわけない」
「今日はなんだか嫌な感じがする」
「へぇ、占いでも始めた?」
「茶化さないでくれ」
珍しく真剣な調子で言われ、ちょっとたじろいでしまう。
誰かに心配されると嬉しいような、申し訳ないような複雑な気持ちになるから、あまり好きじゃない。
本当は体がだるかったのだがそれがバレないようにわざと元気よく起き上がった。
そして安心させるために、彼の頬に手を添えしっかりと目を合わせる。
重たい前髪の奥で艶々と光る黒い瞳は、忠実で賢い犬を連想させた。
「明日の舞踏会で殿下はルーシェにプロポーズする。それを見届けたら、ゆっくり休むから。せっかくだし療養の名目でどこか田舎へ旅行でもいこうか?」
「……あなたがそう言うのなら」
不服そうではあったが、ルーカス自身も今休むわけにはいかないことを理解しているのだろう。渋々といった様子で頷いた。
私は窓を開け、風を感じようと手を伸ばした。しかしほぼ無風なのか、空気は湿っぽく腕にまとわりつくばかりだ。
ルーカスの言う通り、確かにあまりいい感じのする天気ではなかった。
「それでね、殿下がこれをくださったの」
湖畔をぐるりと回りながら、ルーシェはそっとハンカチに包んだカフスを見せてくれた。
はめ込まれた青い石は角度によって、緑にも黄色にも光る。
「綺麗でしょう?お揃いのブローチを作らせて贈るから、その時まで約束の証として持っていて欲しいって」
「見かけによらずロマンチストよねぇ」
「そういうところが素敵だと思うわ、私」
ルーシェはカフスをつんつんと突いて、はにかんだ。
殿下の方にはルーカスとクレイグをいかせているが、案外同じ話を聞いているところかもしれない。
いやぁしかし、自分で仕組んでおいてなんだが、まさかここまで上手くいくとは思っていなかった。
殿下がルーシェに好意を持つのは十分可能性のある話だったが、ルーシェが殿下を好きになるかは賭けだったのだ。
だが結果はこの通り、上々すぎるほどである。
「明日の舞踏会の約束はもちろんしているのよね?」
「ええ……」
舞踏会という言葉を聞いたとたん、表情を曇らせ、彼女は歩みを止めた。
白い睫毛を伏せ、落ち着かないふうにカフスをいじっている。
「不安?」
「……私ごときが殿下の妻に選ばれるなんて、信じられなくて。夢を見ているんだと言われたほうがまだ信じられるくらい」
「夢じゃないわよ。殿下はあなたに恋してるんだもの」
真っ赤になった頬を隠すようにルーシェは顔に両手を添えた。
うーん、可愛い。
「私、上手くやれるかしら」
「それはわからないけど、殿下も私もルーシェの側にいるわ。私、あなたが王妃様になったら王宮に連れて行ってもらおうと思っているの」
「え!?それって……」
「あなたの私室付き侍女になってあげるってこと」
「でもエミーリアは公爵様の長女でしょう?それに、大切なお友達のあなたを侍女にするなんて」
「どうして?私が侍女になれば、ずっと一緒よ?それに私、お金が必要なの」
あっけらかんと言い放った私に、ルーシェは目をぱちくりさせる。
そりゃそうだろう。お金に困ることなど一生ないはずの公爵令嬢の口から、お金が必要なんて言葉が飛び出すなんて思いもしてなかっただろうから。
「自分のお金で叶えたい夢があるの」
「夢?」
私は自分の夢をルーシェに語ってみせた。
他愛もない小さな夢だけど、彼女は聞き終えるなりふんわりと優しい微笑みを浮かべる。
「凄く、素敵な夢。私が王妃になって、あなたが私の侍女になったら、その夢も叶う?」
「ええ」
「じゃあ、私頑張るわ!でも、侍女になっても私にはお友達として接して頂戴ね。私にとってあなたは何があっても大切なお友達だから」
「わかった」
不安がっていても、殿下の妻の座を辞退する気はないらしいことにほっとする。
さすがあの野心家ダリウスの実家である、ヴェーナー家の娘とあって、案外肝が据わっている。
くすぐったい気持ちになって、私はルーシェを軽く小突いてみた。
するとなぁに?と小突き返すので、私たちはクスクス笑ってお互いを意味なく小突き合う。
まるで学生時代に友達と廊下をくだらないおしゃべりをしながら歩いていた時のような、そんな感覚だった。
「エミーリア様!」
突然名前を呼ばれて振り返ると、こんな曇りだというのに日傘をさしたレネがいた。
そばかすの浮いた顔は相変わらず不健康そうな、暗い色をしている。
まぁあんなヒステリックな姉と四六時中一緒じゃ、顔色も暗くなるというものだろう。
「えっと、ルシア様もご一緒のところごめんなさい。お姉さまがぜひお茶をしたいと」
うわ、面倒くさ。
率直に言って、行きたくない。どうせ明日にはけりもつくし、適当に理由をでっちあげて断っちゃおうかな。私の方が身分は上なわけだし。
「まぁテア様からお誘いが。エミーリア、私のことは気にせず行ってきて」
「ルーシェ……」
見捨てられたような気持ちになるけど、伯爵令嬢のルーシェが侯爵令嬢のテアの誘いを自分より優先させるのは仕方のないことであった。
「あ、その、ルシア様もご一緒にいかがですか?きっとお姉さまも喜びます……」
「そんな私なんて……」
「……実はこの間のバラの騒ぎ以来、みんなお姉さまを遠巻きにしていて。お願いします!」
ぺこぺことレネが頭を下げるので、二人で慌ててやめさせる。
バラを取り違えて騒いだのはテア自身だが、発端のバラを用意した人間として、そういうことを聞かされると罪悪感を覚えないでもない。
結局、四時から約束があるからそれまででもいいかと確認し、私たちはテアとお茶をすることになってしまったのであった。
「来てくださって嬉しいわ、エミーリア様。それと……ごめんなさい、どなたかしら?」
「ヴェーナー伯爵の娘、ルシアと申します」
「そう、ルシアね。どうぞ楽しんでいってちょうだい」
いちおうテアとルーシェは恋敵ということになるのだろうが、テアはそんなこと露とも知らず伯爵家の娘だからと余裕たっぷりに接している。
ルーシェほど容姿が目立つ人間をテアが知らないとは思えない。名前を聞いたのはわざとだろう。
なんだか難儀な人だなぁと思う。
ルーシェはルーシェで自分が隠れて殿下と仲良くなっていることに負い目を感じているのか、テアに対しては及び腰だ。
やはり私が側について、支えてあげなければ。
お茶会といえば、根も葉もないうわさ話に花を咲かせ、姦しいものだというイメージがあったのだが、実際はほとんどテアが話して、それに頷くだけでいいというものだった。
残念ながらお茶会に招かれた経験が圧倒的に無いので断言できないのだが、テアのお茶会はきっと多くの令嬢方から不評を受けていることだろう。面白い話ならいざ知らず、テアの話はほとんどが彼女の自慢話なのだから。
「いよいよ明日の舞踏会で婚約者が決まるのね。皆の前で名前を呼ばれるのかしら?返事はした方がいいと思う?それとも静かに頷くだけの方が上品かしら?」
テアの話は自身の自慢話から、自分が殿下の妻に選ばれたらというテーマへと移っていた。
「私と殿下の間に王子が産まれたら、その子がこの国を継ぐのよ。凄いことよね。名前ももう決めてあるの!」
そりゃ随分と準備のいいことで。
だけど殿下に選ばれるのはルーシェだ。
などと意地の悪いことを考えていた私は、テアの発した名前に見事に固まった。
「エドウィン」
「ぶっ」
「きゃあ、どうしたのエミーリア?大丈夫?」
紅茶が変なところに入ったむせた私の背をルーシェが甲斐甲斐しくなでてくれる。
「賢王エドウィンにあやかった名前よ。きっと殿下も気に入ってくださるわ」
賢王とかそんなのどうでもいい。
そうか。やっぱり、この女が『王妃』だったのか!
だが殿下はもうルーシェにぞっこんで、俗世と離れたボートハウスでちょっと浮かれポンチ気味。
テアの頭上に王冠が輝くことはないのだ。
テーブルの下で小さくガッツポーズをして、私はむせて荒れた呼吸を整えた。
「ええ、きっと気に入ってくださることでしょう」
そんな嘘を平然とつきながら。
テアがそろそろ甘い物が食べたいという言うので、私たちはそれぞれケーキを頼んだ。
バターケーキとラズベリーのタルト、レモン風味のケーキがあるらしく、私とレネはレモンを、ルーシェはバターケーキ、テアはラズベリーを頼んだ。
最初は私もラズベリーを頼むつもりだったのに、どの味にするかおしゃべりしていたらいつのまにかレモンになっていた。なんでだ。いやまぁ酸っぱいのが食べたかったからいいけど。
テアは少し怖いくらい上機嫌でしゃべり続けていた。
口では強気な事ばかり言っているけれど、本心では自分は選ばれないかもしれないという不安に押しつぶされそうだったりするのかもしれない。
だからか私たちは彼女からは、ちょっとしたことで爆発してしまいそうな危うさを感じていた。
そうしているうちに紅茶とケーキが運ばれてきた。
金のツタが縁を飾る美しい食器の上に、ちんまりとケーキがのっていて、果物が彩として添えられている。
ふとレネがテーブルを見つめて、こうつぶやいた。
「あ、逆だわ」
見ると、私の紅茶の持ち手が逆向きになっている。
よくそんな細かいことに気が付いたなと感心していると、テアの顔色が変わった。
何故か怒ったような顔をして、彼女はさっと腕を伸ばして、自身の皿とルーシェの皿を入れ替えた。
「私のはこっちみたい」
茶色いバターケーキを手に、テアはとりなすように笑う。
なぜそんなことをするのかわからず、ルーシェはポカンとしていたし、レネは恥ずかしそうに顔を伏せていた。
理由を尋ねようかとも思ったが、テアの機嫌が悪くなることを考えると億劫になり、結局誰もなぜケーキを取り換えたのか尋ねないまま、各々フォークを手に取ることとなった。
バターケーキを食べるはずがラズベリーケーキに変えられてしまったルーシェだったが、その艶やかな美しい赤い表面を彼女は気に入ったようで、目を輝かせながら一口二口と食べ進めている。
そして異変が起きたのは、テアがおしゃべりの合間に自身のケーキを一口かじってこう言ったのとほぼ同時だった。
「なにこれ、味が変だわ」
ガチャンとフォークが皿とぶつかる乱雑な音。
驚いて音のしたほうに目を向けると、ルーシェが真っ青な顔をして自分の手から抜け落ちたフォークを凝視していた。
「ルーシェ……?」
彼女の手は強張り、震えている。
そこだけ地震でも起きているかのように、体がぐらぐらと揺れている。
「きもち、わるい」
明らかに呂律が回っていない。
あ、あ、と何かを言いかけて、バタンと額からルーシェは机に突っ伏した。
「ルーシェ!」
急いで立ち上がり、私は彼女を抱き起そうとした。
後ろで椅子が倒れるけたたましい音がしたが、そんなものに構っている段ではない。
ルーシェの体は酷い風邪にでもかかったみたいに小刻みに震えていて、なんとか抱き起して見えた唇は真っ青だった。そしてびっしりと冷や汗をかいている。
「ルーシェ!しっかりして、ルーシェ……!誰か医者を呼んで!」
私の脳裏に毒という言葉が閃いていた。
とっさにテーブルの上にあった水差しをひっつかんで、そのままルーシェの口を開けて流し込む。
「飲んで!飲んで、ルーシェ!」
私がほぼ怒鳴るようにそう言うと、半分以上口からこぼしながらもルーシェは水を飲む。
しかし意識がもうろうとしているのか、目の焦点はあっていない。
耳鳴りが酷い。
周囲が慌ただしいのに、私とルーシェだけが薄い膜の内側にいるようだ。
私はただただ祈るように、彼女の名を呼び、水を飲ませ続けた。




