ろく
「お嬢様、勝手にいなくなるから心配しましたよ」
誰が誰のお嬢様だって!?
よくわからないが、絶対やばい。校舎の方へ引っ張っていこうとする男に、精一杯の抵抗をするが悲しいかな今の私は十歳の子供。抵抗むなしくずるずると引きずられてしまう。
「離して!私、あなたなんか知らないわ!」
「まったく、聞き分けのないことをおっしゃらないでください。帰りますよ」
周囲に助けを求めるが、ただでさえ少ない人たちは男の演技のために、私たちを我儘なお嬢様とその従者と勘違いして遠巻きに見ているだけだ。
かくなる上は足を踏んづけて逃げようと右足を振り上げたが、その瞬間に抱き上げられてしまった。
「いやっ!離して!!」
知らない男に抱きかかえられていると思うと、身体が強張って悪寒さえする。恐怖が全身を駆け抜けて、
「ベルン!」
勝手に一人になった癖に私が無意識に助けを求めたのはベルンだった。来てくれるわけないのに。そう思うと、果ての無い絶望が押し寄せてくる。
その間にも男は私をどこかに運んでいく。
必死にじたばた暴れていると、男は人目がほとんどなくなったことをいいことに私の口を手で覆い、抱きかかえる腕できつく腹部を締め上げた。潰されたカエルみたいな声が出て、あばらが軋み息苦しさに襲われる。
ようやく大人しくなった私を男は校舎に入ってすぐあった空き教室に放り込んだ。
床に叩きつけられ一瞬息が止まる。それでなくても腹部を締め上げられていたせいで、酸欠の身体が空気を求めて激しくせき込む。
なんなんだこの状況は。
わざわざ一人になったところに現れた以上、この男が私を狙っていたことは確実だ。だが、理由がわからない。お父様は侯爵ではあるが権力には興味のない人間だし…。
「あなた、誰。何の用なの」
扉のある方を背にじりじり近づいてくる男から起き上がり距離を取る。
「そんなことはどうでもいい。ただお前には痛い目に遭って、ブルンスマイヤーの長男との婚約破棄を誓ってもらえればいい」
「はぁ!?」
たぶん今までの人生で一番大きな声がでた。いやだって、婚約破棄って。
まさかベルンがやたらと周囲を気にしていたのは、このことだったのか。
だとしてもどうして彼は私が狙われると知っていたのか。手荒な手段を使っても婚約破棄を望んでいるのは誰なのか。
目の前の男は答える気がないようだし、情報のない私には推測のしようもない。
とにかく今は逃げなければ。
男は懐から何かを取り出した。窓からの光に輪郭が鈍く光って、それが初めてナイフだとわかる。
「誰か!助けて!!」
後じさりしながら無意味と思いつつも叫ぶ。男はそんな私を馬鹿にするように嫌な笑い方をした。
一歩。また一歩下がって、背中に冷や汗が伝う。
全身の血が抜かれたみたいに寒くて感覚が鈍い。
ガタンッ!
下げた足が机に引っ掛かりよろめいた。
男はその隙を逃さないと俊敏に襲い掛かってくる。
突き出されるナイフが、やけにはっきり見えて、私は身を捩って床に倒れこむ形でナイフをよけた。男は私を殺すよりも痛めつけるつもりらしく、よけたナイフは腕のあったあたりの空間を切り裂く。
「っつう!」
ガッターン!と足に引っかかっていた机もろとも床に倒れ、急いで立ち上がろうとするが、男はすでに体勢を整えていて逆に腕を掴まれたかと思うと力任せに引き上げられた。
乱れた茶色い自分の髪の隙間から、男の氷みたいに冷たい瞳と視線がかち合う。本能的な恐怖が足元から這い上がり、身体を貫いた。
男がナイフを握った拳を振り上げ私を殴りつけようとして、ヒュッと空を切る鋭い音がした。その次の瞬間、男の肩から細長い銀色の物が生えて、男がうめき声をもらす。
男の背後には、いつの間にか黒い影が立っていて、男は振り返りざまに影を切りつけようとしたが、逆に横っ面を殴りつけられ盛大にたたらを踏んだ。
黒い影に見えたその人物は、ベルンだった。
彼の灰色の瞳はいまや氷のように冷たく、ギラギラと輝きながら男を見据えていた。
理解が追い付かず呆然とする私の目の前で、ベルンはさらに追い打ちをかける。
よろけて前のめりに崩したままの男の後頭部に踵落としをきめ、ナイフを持った手を踏みつけた。
そして、肩に刺さっていたナイフを無造作に引き抜く。
血しぶきが美しい放物線を描いて宙を舞った。
ベルンはナイフを寸分たがわぬ動きで男の首筋に当て、二人はピタリと動かなくなった。男は喉の奥でぐうぅと獣のような声をあげ、ベルンを睨みつけている。
ベルンは無表情にナイフを振り上げると、手首を返してナイフの柄を男のこめかみに容赦なく沈めた。
男が昏倒し、重たそうな音を立てて倒れると、教室には私とベルンの荒い息遣いだけが残る。一枚薄い膜を隔てたように音が遠くて、現実が遠のく。
私は金縛りにあったみたいにその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「…リジィ」
ベルンは先ほどと別人とも思える気遣わし気な灰色の瞳で、さっと全身を見て私に怪我がないことを確認し、心底ほっとしたような表情をした。
そして彼がもはや癖のように私の手を取ろうとして、私は思わず肩をびくりとはねさせてしまった。
私はただ単に金縛りが解けて跳ねてしまっただけなのだが、彼は自分の手を見て別の理由だと思ってしまったようだった。
ベルンの手には、男の肩からナイフを引き抜いたときに吹き出した血がついていたのだ。
彼が悲しそうに目を伏せ、そっと手を引っ込めようとした。
私はそのまま彼がいなくなってしまいそうで、慌ててその手を両手で引き留めた。
少量だが生ぬるくぬめる血の感触に手が震えたけれど、彼が逃げないように強く握りこむ。強く。どこにもいかないように。
男を倒した時はあんなに強くて怖かったのに、今のベルンは叱られる前の子供のように小さくなってしまっていた。
「リジーア」
彼は手を放すよう言う。私は首を振って、彼の手を掴んだままずるずると床に座り込んだ。今更ながら腰が抜けてしまったのだ。
「リジーア、手が汚れてしまうよ」
頑是ない子供のように首を再び振ると、ベルンが困惑したように息をのむ音がする。
「…ごめん。君を巻き込んでしまって」
大丈夫だよ。怒ってないよ。そう伝えたいのに私の唇は震えるばかりでちっとも役に立たなかった。
さっき彼が戦っているのを見て、私は気づいてしまったのだ。
彼が命のやり取りに慣れているということに。ナイフと一緒に殺気を向けられることに少しもひるまなかったことも、相手を傷つけることにためらいがなかったことにも、嫌でも気づいてしまった。
彼はまだ十三で大切に育てられてきたはずの貴族の子だというのに、戦いを知っていた。それは、つまり―――。
「君はわからなかったろうけど、ここが王立学園じゃなかったら僕はこの男を殺していたよ」
諭すようにゆっくりとベルンは言う。
彼は今までそうしたことがあるということを暗に示した。まるでわざと私を怖がらせようとするかのように。
「僕が怖くなっただろ?」
気付くと私の手の震えが感染したみたいに、一回りは大きいベルンの手も小さく震えていた。震えるくらいなら聞かなきゃいいのに。馬鹿だなぁ。
「怖いに、決まってるじゃない。…でも今は、あなたを一人にすることの方が怖い」
本当は怖くないと言った方がよかったのかもしれない。けれど、彼に嘘をつきたくなかった私は正直に答えた。
怖いに決まってるじゃない。だって人が死ぬとかそういうのはどこか遠い所の話で、私は何にも覚悟していなかったのだ。
答えるのと同時にボロボロと目から涙がこぼれだす。目頭にぐっと力を入れて止めようとしたけれど、どうにも止まりそうになかった。
馬鹿みたいに涙を流す私にベルンはどうしたらいいのかわからないようだった。
仕方ないと思う。だって、私自身どうしたらいいのかわからないのだ。
「ごめんなさい」
私はゲームのベルンを知っていて、それでベルンのことをわかったつもりでいた。
なんて愚かだったのだろう。仲良くなりたいと思いながらも、将来悪役になってしまう彼のことを色眼鏡で見ていた。なにが悪役だ。なにがゲームだ。
彼は誰かに命を狙われて、誰かの命を奪ってここにいる。そんな世界で生きてきたのだろう。
それなのに、私を巻き込んだと謝ってくれて、彼はいつも本心がわからなくて、作り笑いばかりして、でも私に向けてくれた優しさは本物だった。それを私は素直に受けとめることができなかった。
あーもう、考えがまとまらない。同じことばかりぐるぐる考えてしまうし、泣きすぎてしゃっくりもとまらない。最悪だ。
とにかくわかっていることと言えば、悲しくてたまらないということだけ。
助けてくれてありがとうとしゃっくりに苦労しながら伝えると、握られるままだった彼の手が私の手を握り返してくれた。
「馬鹿だなぁ」
ベルンは繰り返す。
「ばかだなぁ…」
そうして、彼は泣きながら笑うなんて器用なことをしてみせたのだった。
男を王宮から派遣されている警備に引き渡し、私たちは馬車で私の屋敷へ向かった。ベルンがブルンスマイヤーでは事情を話せないといったからだ。ブルンスマイヤー家が今回のことに関与している、ということなのだろう。
「今日君が襲われたのは、僕のせいなんだ」
「それはそうかなぁとは思っていたけど、どうしてなの?」
「僕に子供ができると困る人がいるから」
こ、子供?それってもしかしなくても、ベルンと私の間にってことですか?や、やだ~!
まぁおふざけはこのくらいにしておいて。
「僕の本当の母親は国王陛下の三番目の妹なんだ」
何だそれ。初耳。
「陛下の妹君は二人しかいないんじゃ」
「母は先代の王が侍女に手を付けて生まれた子で、その侍女、僕の祖母は母を産んですぐに自害してしまった。理由はわからないけどね。それで母は縁起の悪い子だと産まれてすぐ臣籍降下されて、存在は知られていないんだ」
ちょっと話が予想外に大きくなる気配を察し、へーとアホみたいな相槌を打ってしまった。
「母は傲慢な人だった。自分は王女だというのに、物心ついた時には家臣の子供だったというのが許せなかったんだろう。身分をかさに着てやりたい放題だったらしい。そして年頃になった母はある男に一目ぼれしてしまった。僕の父だ。父には当時結婚間近の婚約者がいたから、母は二人の仲を裂く形で無理矢理父と結婚した。そうやって手に入れたくせに母は僕を産むのと引き換えに呆気なく死んでしまった。まるでそういう呪いみたいに…」
う、うわぁ。ヘビーだ。
「つまり、ベルンには王族の血が流れていると」
「そういうことかな。だから、王妃は僕が恐ろしくて仕方ないのさ」
王族の血を引く、エドウィン殿下と同じ年の男の子。それがベルンの抱えている秘密。
彼が望んで、それを支援する存在がいればベルンは王になれるかもしれない。それが、王妃には恐ろしいのだという。
「え、でも第二王子がいるじゃない」
「第二王子?」
ベルンが怪訝そうな顔をする。
…ん?
あ、まだ第二王子産まれてなかった…。お、おばか〜!
「い、いや~第二王子が産まれればいいのにね~」
「…そうだね」
危なかった。危うく預言者(笑)になってしまうところだった。ベルンは変な顔をしていたけど、突っ込むつもりはないらしい。
「そうすれば君も危ない目に遭わなかっただろうに」
「私のことはいいわ。ベルンが助けてくれたわけだし」
床に二回くらいぶっ倒れたから、主に体の側面が痛いのは言わないでおいた。
「そういう問題じゃないと思うけど…。まぁ、いいか。うん、僕もいまさら婚約破棄するなんて言われたら嫌だし」
ふーん。へー。嫌なんだ。にやけるのを我慢する。
どうも命の危機から解放されてちょっと頭のネジが緩くなっているようだ。まぁ、いいか。
「今日襲ってきたのはたぶんボルマン子爵だ。情報は母が流したんだろう。彼女にとって僕は憎い女の息子だから、ボルマンとは懇意にしているみたいでね。彼は彼で王妃に気に入られたくて仕方ないから、僕を殺すことに一番乗り気なんだ。おかげで僕は強くなったわけなんだけど」
「ボルマン子爵」
会うことがあったら一発入れてやろう。絶対ハゲでデブに違いない。違っていてもそうなるように呪いをかけてやる。
「リジィは僕のこと、嫌にならない?」
「なんで?」
「そのうち本当に命を狙われるかもしれないんだよ」
「でも、それはベルンもでしょ?二人ならお互い助け合えばいいわ。私じゃお荷物かもしれないけど」
「本当?」
「本当」
ベルンの無邪気な笑みのあまりの眩しさに目が潰れるかと思った。
「ねぇ、リジィ。温かいね」
前は何のことかわからなかった。けれど今ならわかる。
「そうだね」
手を繋ぐと温かい。ベルンが手を繋ぎたがる理由はやっぱり寂しがりやだからなのかもしれない。
ベルンの手を掴んだ時の血の感触を思い出す。彼はまたその手を血で汚すかもしれない。でも、ゲームのベルンハルトと彼は違う。今を生きるベルンはここにいる彼一人なのだ。
愚かな私はまだ来てもいない未来を恐れて、目の前にいる人を見ていなかった。
私も覚悟をきめよう。
彼の婚約者として、彼のことを好きな一人の人間として。
「いっそのこと貴族をやめられればいいのにね」
「それは、ちょっと難しいと思うよ」
ベルンにツッコミを入れられてしまった。いい考えだと思ったんだけどなぁ。
カテリーナがリジーアに「お姉様と呼んでいいわよ!」と言ったシーンで、ベルンと結婚するからリジーアが姉なのでは?というご指摘をいただきました。まったくもってその通りです…。
あの、カテリーナはちょっとおバカなので、姉と呼ばれたかっただけということでお願いします。まぁ、本当にバカなのは私なんですが…。
今回説明不足なところはおいおい出していきたいな〜と考えています。
ご指摘、感想ありがとうございます!これからも読んでいただけると嬉しいです!