そして、リートベルフの冬
凍てつくような寒さだった。
吐いた息さえも氷になって地表に落ちてしまうような、そんな寒さ。
あたりには葉が落ちて裸になった木々が立ち並び、昨日降った雪がまばらに地面を白く覆っている。
彼はその真っ赤になった手をぶらんと垂らし、ぼんやりと空を見上げていた。
どれくらい前からこの場所に立っていたのか、鼻の頭は真っ赤になってしまっている。
どこにもいないから、まさかさらわれたなんて物騒なことはないとは思いつつも、心配していた私はあちこち探した末にようやく見つけた彼の姿にほっと胸をなでおろした。
もう、すぐいなくなるんだから!
「ヴィクター!」
父親によく似た、彼の灰色の瞳がきょろっと動いて私を認める。
彼が父親に似ているのは瞳だけではない。
真っ直ぐな黒い髪に、子供らしいあどけなさがありながらも涼し気に整った顔立ち。
あと、すぐぼんやりするところもそっくりだ。
本当に、私の遺伝子はどこに行ってしまったのだろう。
やっぱりモブの遺伝子だから負けたのかなぁ。
でも下手に私に似て、アホになってしまったら困るから、むしろ似なくてよかったのかもしれない。
「母様」
今年七歳になる私の息子は、家庭教師の授業をサボっているところを見つかったというのに、全く悪びれた様子もなく呑気にも寒いねなんて言ってくる。
まったく…。
私も呑気だとか能天気だとかよく言われるが、この子はちょっとマイペースすぎるのではないだろうか。
まぁ、お説教は後でするとして。
「こんな薄着で外に出て、何をしていたの?」
ヴィクターの小さな体を引き寄せ、自分が身に着けていたショールをかけてやる。
それからしもやけですっかり赤くなってしまった小さな手を両手で挟み、少しでも温まるようにと息を吐きかけた。
されるがままのヴィクターの手は、表面こそ冷えていたが、すぐに子供特有の燃えるような温かさを取り戻していく。
「帰ってくるのを待ってたんだ」
「帰ってくるって、もしかしてお父様?」
「うん」
ヴァイス領へ行っていたベルンから、仕事が終わったからリートベルフへ帰るという旨の手紙が届いたのは一昨日のことだ。
この国は南北に長く、うんと北のほうにあるヴァイスから帰ってくるとなるとあと二日はかかるはずである。
そのことを伝えると、ヴィクターは落ちていたちょうどいい長さの枝を拾ってきて、地面に何やら描き始めた。
私も一緒になってしゃがみ込み、彼の描くものをじっとと見つめた。
縦に長くでこぼこした形には、どこか見覚えがある。
「これって、地図?」
「うん」
「上手ねぇ」
凄い。ところどころ簡略化されているが、一目見て地図だとわかる。
我が子ながら天才なんじゃないだろうか。
いや、ベルンと私の息子なんだから天才に決まっている。根拠はないけど。
私が心底感心して褒めると、ヴィクターはそんなことないと突っぱねた。
しかし、なんだかんだいって嬉しいのだろう。頬が緩んでいる。
素直になれないお年頃に彼も差し掛かりつつあるのかもしれない。
可愛いなぁ、このこの~。
我が子の成長が微笑ましくて、頬をつんつんしていたら、物凄く鬱陶しそうに手で払われた。
冷たい…。
ヴィクターは気を取り直すように、縦に長い地図の真ん中よりやや右によったあたりを枝でグリグリとえぐって言う。
「リートベルフがここで」
今度はだいぶ上のかじられたクッキーみたいにへこんだ部分のある辺りをグリグリやる。
「ヴァイスはここらへんでしょ。父様は馬車じゃなくて馬に乗って行ったから、帰りも馬だ。それにルーカス叔父様も一緒だから、普通は海側からぐるっと回ってくるところを、近道して山を越えてまっすぐ帰ってくるはず」
ヴィクターは枝でえぐった穴同士をよれた直線でつなげた。
彼の言った通り、その直線上にはいくつかの山があるが、ルーカスとベルンなら山越えはそう難しいことではないだろう。
あの二人はなんだかんだ言って、頭脳派に見せかけた肉体派だ。
「で、父様からのお手紙が一昨日届いたから、父様たちが出発したのはそれより三日くらい前だから…えっと」
小さな指を折り数えて、彼はニ足す三が五であることを確かめて、五日前だととても真剣な顔で教えてくれた。
「父様たちの馬は凄く速いから、もう帰ってきてもいいはずなんだけど…」
「でもゆっくり帰ってくるかもよ?」
「それは絶対ないね」
ヴィクターはベルンによく似た顔に、ちょっと小憎らしい表情をのせる。
それから屋敷の方を見て、自信たっぷりにこう言った。
「ルーカス叔父様はレオノーラに会うためなら空だって飛ぶよ。たぶん」
レオノーラは彼の四つ年下の妹であり、私とベルンにとっては二人目の子供で、ルーカスにとっては待ち望んだエミーリアの血を引く女の子である。
生まれる前からルーカスが彼女を溺愛するだろうということはわかっていたが、そりゃもう凄い。もはや耽溺といってもいい。
隙あらばうちに来てレオノーラと遊んでは、デレデレとだらしのない顔を見せている。
目に入れても痛くないってこういうことを言うんだなぁと、私はレオノーラにメロメロなルーカスを見てしみじみ理解したものだ。
ただ誤解してもらいたくないのは、ルーカスはヴィクターのことも大変可愛がっていて、二人を可愛がる姿は親戚の叔父さんというよりも、お爺ちゃんに近い。
ルーカスとレオノーラについてもう少し詳しく話すと、彼女の名前をつける時、前々から宣言していたとおりルーカスはエミーリアにして欲しいと懇願してきた。
懇願と言うか、駄々を捏ねたというか…。
三十をとっくに超えた成人男性が、やだやだと駄々を捏ねる姿はなかなかに壮絶であったが、こっちもそう簡単に折れるわけにはいかなったので、結果としてミドルネームをエミーリアにすることで決着がついた。
ちなみにそのレオノーラ・エミーリア・リートベルフは、現在お昼寝中である。
「でも、きっと叔父様はヴィクターに会うためでも、空を飛ぶわよ。それはそうと…」
私の声が低くなったことを敏感に察知して、ヴィクターはぎくっと体を強張らせる。
「私の記憶が正しければ、あなたはまだ授業中のはずよね?もう!すぐ逃げ出すんだから。ガウス先生が申し訳ありません、また逃げられてしまいましたってしょんぼりして私に謝りに来たのよ」
ヴィクターは唇をとんがらせて、地面に丸やら四角やらをよくわからないぐにゃぐにゃしたものを量産し始める。
つたないところはあるが整然と描かれた地図とは大違いの、意味のないかわいらしい落書きたちだ。
「ちゃんと課題はやったもん」
「そうね。それは偉いわ。でもこうやってあなたが、いつお父様が帰ってくるか計算できるようになったのは誰のおかげ?」
「僕の頭がいいから」
「こらー!」
調子乗んなー!と、軽くげんこつしておく。
するとしぶしぶといった様子で、ヴィクターは自分の先生の名前をあげた。
「……ガウス先生のおかげです」
「じゃあ、もっといろいろなことがわかるようになるために、授業を受けなきゃね」
「うーん」
もうひと押しかな?
「はぁ…。とりあえず、いったん家に戻りましょ」
「うーん」
「お母さん、寒いからホットミルクを飲もうと思うんだけど」
落書きする手が止まる。
「いまから大人しく授業を受けるなら差し入れしてあげないこともないよ」
「…じゃあ戻る」
やれやれ。
ちょっと甘かったかなぁ。
でもガツンと怒るの苦手なんだよなぁ。
いや怒らなきゃいけない時は私も怒りますとも、ええ。
ヴィクターもレオノーラも歳のわりに賢いから怒らなければならないこと自体少ないのだが、それでもやはり子供なので、いまみたいに授業をサボったりすれば私が探して、叱ることになる。
その点ベルンはめったに怒らない。
基本的に彼は怒らない人だし、私なんかベルンに怒られた記憶すらない。
そんな彼でもいまや二児の父というわけで、いちおう子供を叱る時もあるのだが、これがまぁめちゃくちゃ怖い。
ひたすら理詰めでこんこんと説教される我が子の姿が、あまりにかわいそうなので、私なんかはすぐ、もういいじゃないとか助け舟を出してしまうくらいなのだ。
うーん、やっぱり甘いのかなぁ…。
わからん。
ヴィクターをガウス先生のところへ連れて行って、約束通りホットミルクを差し入れてやった。
しばらくは家のことをしていたのだが、お昼寝から目覚めたレオノーラにねだられ本を読んでやっていると、いつのまにか授業を終わらせたヴィクターがそこに加わっていた。
けれど彼には小さい子むけ、特に女の子むけの話はつまらないらしく、ソファの上に寝っ転がってぽけーと口を開けている。
「ヴィクター、行儀が悪いわよ」
「うん」
うんじゃなくてだな。
「おかあさま、つづき!」
「はいはい」
白雪姫に似た物語の絵本はもう何度も読んでいるが、美しい挿絵はレオノーラのお気に入りであった。
「こうしてお姫様は王子様と楽しくいつまでもいつまでも暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
そんなお決まりの言葉で締めくくった時だった。
「あ!」
と、大きな声をあげてヴィクターが跳ね起き、窓辺に走り寄った。
「帰ってきた!」
「え、本当?」
本当に帰ってきたのか。
ヴィクターに並んで窓から外を見ると、たしかに馬に乗った二人の黒い人影が屋敷目指して走ってきている。
ベルンが一か月ぶりに帰ってくる。
嬉しくて呆けたように見ていた私は、はっと自分の隣にヴィクターがいないことに気が付いた。というかレオノーラもいない。
慌てて居間を出ると、手を繋いで階下に走っていく二人が見えた。
「こらー!」
置いていくとか酷くない!?
でも相手は七歳児と三歳児、すぐに追いつ…追いつけ、ない!
え、待って、足めっちゃ速い!
日頃の運動不足がたたって、ぜぇぜぇいいながらも玄関で子供たちに追いつく。これ以上勝手に走って行かないように、肩をがっちり掴んで捕獲する。
これからどんどん大きくなる子供の元気についていけるのだろうか…。不安だ。
ふと視界の端で白い物がちらついていることに気が付く。
「おかあさま、雪がふってるわ」
レオノーラが嬉しそうに、私の袖を引いた。
彼女の灰色の瞳はよくよく見ると、瞳孔の周りがすこしだけ茶色い。つくづく不思議な色合いの瞳だが、彼女自身はその瞳をいたく気に入っている。
もちろん、私やベルンも。
ベルンとルーカスは屋敷の正面で馬から降り、肩や髪についた雪を払った。
馬が嘶き、真っ白な息を列車が蒸気を噴出させるように吐き出す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
まず私を抱きしめて、ベルンはほっとしたように体の力を抜く。
「仕事はどうだった?どこも怪我してない?」
「してないよ」
そう優しく告げる瞳にはどこか陰りがあった。
何か嫌なことでもあったのだろうか。
「僕が留守の間、何か変わったことは?」
「特には。強いて言えば相変わらずヴィクターがガウス先生を困らせているくらい」
「困らせてないよ」
ついさっきも授業を抜け出した癖に…。
じとっと見つめたがヴィクターは気にした様子もなく、私の拘束からするっとたくみに逃げ出した。
それからベルンの脚にしがみついて、器用に彼の体をよじ登り始める。
理由は良く知らないのだが、ベルンが帰ってくるとその体によじ登って肩車してもらうのがここ最近の彼の流行りなのだ。
「ヴィクターやめなさい。やめ…こらっ」
いちおう危ないからやめるように言うのだが、結局いつものごとくベルンが折れて、ヴィクターが登りやすいように体をこちらも器用に屈めたり反らしたりしてやる。
そうして肩に無事辿り着き、肩車をしてもらった私たちの息子はとても満足げに頬を紅潮させて、父親の頭にしがみついた。
ベルン大の上に、ベルン小が乗っかっているみたいだ。
トーテムポールをほうふつとさせる。
「景色はどう、ヴィクター?」
ヴィクターは明確な返事はせずに、ニコニコしながらベルンの頭に乗せた顎をがくがくさせて遊び始める。
「視界ががくがくする」
そういうベルンの口調は憮然としていたが、顔は緩く微笑んでいた。
隣ではルーカスがレオノーラを抱き上げて、くるくると回っていた。
彼女のフリルのたくさんついたパステル色のドレスの裾が、ちらちら降る雪と相まってまるで絵本の挿絵みたいだ。
ルーカスは回るのをやめ、きゃっきゃっと喜んでいるレオノーラを自分の片腕に座らせ大切なもののように抱える。
「僕の小さなお姫様、ご機嫌うるわしゅう。元気にしていたかい?」
「うん。ふつう」
「そっか~!普通か~!うんうん、普通が一番だとも!」
いいのかそれで。
あとレオノーラがわりと塩対応気味なことも気になる。
あ、でも、迂闊に寂しかったとか言うと面倒臭いことになる気もするから、これはこれで正解なのかもしれない。
我が娘ながら、頭いいなぁ。
いや、ベルンと私の娘なのだから以下略。
そんなこんなで本格的に雪が降り始める前に、私の家族は勢ぞろいすることができたのだった。
燃える暖炉の前で、レオノーラはさっそくお土産で貰った人形のための家を積み木で作っていた。
暖炉の赤い炎に照らされてもなお、彼女の黒髪はつやつやと黒い宝石のように輝いている。
人形のように大きな目と小さな口。
鼻だけは私に似たのか少し低く、それが逆に愛嬌があって彼女の魅力の一つだった。
「おじさま、あーん」
いつのまにか家の建築からおままごとに路線を切り替えたらしく、レオノーラは無邪気な顔で積み木をルーカスの口にぐいぐいと押し当てた。
ルーカスはでろでろに溶けた顔を痛みにしかめているが、何も言わずされるがままになっている。
「レオノーラ、叔父様が痛がっているからやめてあげなさい」
「あ、いいのいいの!僕は全然痛くないから。むしろ嬉しいし」
「いや、どう見たって痛いでしょ、それ」
明らかに三角形の一番鋭い角が頬に刺さってるし。
レオノーラも手加減なしにぐいぐい押し付けてるし。
ベルンの意見を求めて横を見ると、ベルンも、その膝の上に座ったヴィクターも呆れたような胡乱な顔をしてルーカスを見ていた。
「ぶふっ」
私はこらえきれず吹き出した。
だって二人とも見た目はそっくりだから、同じ表情をしているとまるでマトリョーシカを並べたみたいなんだもん。
「どうしたの?」
不思議そうにきょとんと私を見てくる姿までもが奇跡のシンクロを見せたので、もうダメだった。
ひぃ~!お、おもしろ…!
ひとしきり笑って、過呼吸になりつつもなんとか落ち着く。
はぁ面白かった。
なんでこんなに笑ったのかよくわからないけど、なんかツボにはまってしまった。
「なんか凄い笑われてるね、僕ら」
「なんでだろうな」
「なんでもないから、気にしないで」
ダメだ。気を抜くと笑いそうになる。
このままでは無限ループで笑いのツボにはまりそうだったので、そういえばとやや強引に私は話題を変えることにした。
「カテリーナから手紙が届いてね」
「なんて?」
「ようやくイオニアスとの婚約の目途がたったみたい」
「カテリーナ叔母様の結婚式では、僕とレオノーラでベールの裾を持つんだよ」
そうかそうかとベルンが頭を優しく撫でてやると、ヴィクターはうつむいて小さな足をパタパタとご機嫌に動かす。
それから恥ずかしくなったのか、お土産の北の方でよく食べられているアホみたいに硬いクッキーのような棒をバリバリ食べ始めた。
よしよし、顎を丈夫にするんだぞ、息子よ。
暖炉の前で微笑ましく遊んでいるルーカスとレオノーラ。
バリゴリ物騒な音を立てながらお菓子を食べるヴィクター。
最後に私を見て、ベルンは満足したようだった。
しかしすぐに眉間にしわを寄せ、何事かを思い悩みだす。
どうしたのだろうか。
何か心配事?
もしかしたら、今回の出張先で不穏な物事を拾ってきてしまったのかもしれない。
というのも、彼が今回ヴァイス侯爵領へ向かったのは、その地で領民の蜂起がおこり、領主が殺されたという知らせがあったからだった。
私は彼の肩にそっと寄りかかった。
「大丈夫?なんだかとても疲れているみたい」
「いや…」
それから少し黙り込んで、彼はそっと遊んでいる三人には聞こえないくらいの囁くような、秘密を打ち明けるような声で話し始める。
「領民の蜂起自体はたいしたものじゃなかったんだ。ただ、屋敷は酷い有様だったよ。ヴァイス候も死体を晒され…。僕らの知る限り彼はまともな領主だったのに」
「それって…」
「わからない。だがもしかしたらそう遠くないうちに、なにかしらの大きな争いが起こるかもしれない。まぁそれはいいんだ。それを食い止めるのも僕らの仕事なわけだし。ただその……ヴァイス候の娘の行方が知れないんだ。逃げ延びていればいいが、もしかしたらどこかに売られた可能性もある。ダリウスが血眼になって探しているけれど、あの混乱の中じゃ見つけるのは難しいかもしれない」
ヴァイス候の娘といえば、ダリウスの年下の婚約者だ。
ヴァイスでの知らせを聞いてベルンたちが向かったときから、心配はしていたのだが、事態は私が思っていたよりもひどいらしい。
きっとダリウスも婚約者が行方不明で、たまらない気持ちでいるのだろう。彼はなんだかんだ憎たらしいことを言つつも、根は優しく、身内を大切にする人だから。
そこまで話してベルンはぎゅっと私の手を握りしめ、苦しそうに息を吐いた。
彼がこんなにつらそうな表情をするのは、私の出産の時と、子供たちが酷い風邪をひいた時以来かもしれない。
「それで、もし……もし、僕らの子供たちが同じ目に合ったらって考えたら、自分でも信じられないくらいつらくて恐ろしくなってしまった。いつか僕のしてきたことの報いが、あの子たちにむかったらって…」
恐怖を抑え込むように強く目をつむるベルンの手を、私は握りしめた。
大丈夫。
そう言うと、彼は苦悩を秘めた暗い灰色の瞳で私をじっと見つめる。
「あなたはいい領主で、いい父親で、なにより抜け目のない人だもの。きっと子供たちを守れるわ」
「そうだといいんだけど」
「頼もしい叔父様もいることだし」
私がおどけてそう言うと、ようやくベルンは笑った。
「はは。それもそうだね」
ネガティブな夫はようやく安心したのか私の手を握りしめていた力を弱めて、ぐったりと寄りかかってきた。
屈強な顎でお菓子を食べ終わったヴィクターが、ねぇねぇとベルンの袖をひく。
「父様、しばらく出張はない?」
「うん。ないよ」
ベルンの返答に少し不安そうにしていたヴィクターは、顔を明るくさせる。
そして興奮したようにこう言った。
「じゃあ、剣を教えて」
「剣を?」
「叔父さんが教えてあげようか!」
ベルンが答えるより早く、レオノーラと遊んでいたはずのルーカスが名乗りを上げる。
ヴィクターは、え、あ、うーん…とちょっと歯切れが悪い。
ヴィクターはお父さんが好きだから、ベルンに教えて欲しいのよね~。
うんうん。よきかなよきかな。
ベルンはルーカスの名乗りに、頬をわずかに引き攣らせて言った。
「やめときなさい、ヴィクター。叔父さんはああ見えて、もの凄く、そりゃもう凄く厳しい。僕もお前くらいの時に稽古をつけてもらったが、一回あばらを折られた」
ベルンを挟んでいたけれど、私とヴィクターはあばらを折られたという言葉に、揃ってぎゃー!とあられもない悲鳴を上げた。
ワンテンポ遅れてレオノーラも、ぎゃー!と可愛い悲鳴を上げる。
たぶん彼女は私たちの真似をしたいだけで、意味はわかっていない。
「確かにお前には特に厳しく教えたけれど、ちゃんと綺麗に折っただろう?それにあれは、怪我を負った状態での戦い方を学ばせるためであってだな」
「いやいやいや…」
ほんと、やっぱり、この人変だよ!
だって、あばらって、骨ってそんなボキボキ折っていいものじゃないでしょ!?
苦労をしていたことを知っていたけれど、あばらを折られるなんて痛かっただろうに。そしてそんなことをしてまで強くならないといけなかったなんて…。
幼き日のベルンも、ここにいるベルンもかわいそうになって、私はぎゅっと彼を抱きしめた。
すると反対側のヴィクターも私にならって、ベルンに抱き着く。
「あー!レオノーラもおとうさま、ぎゅっする」
「叔父さんには?」
「しないー」
「そんな~!」
抱きしめるために寄って来たレオノーラを逆に抱き上げ、膝に座らせたベルンは、両側から妻と息子に抱きしめられ、腕の中には娘を抱えて、照れたようなちょっと情けない顔で笑った。
それは本当にどこにでもいる、普通の人間らしい幸福な笑顔で、彼はもう悪役だなんてものとは無縁の、ただの家族を愛する男であった。
そして私は彼にそんな笑顔をもたらしたのは自分なのだと、ちょっとうぬぼれちゃったりなんかするのである。
これにて「婚約者が悪役で困ってます」、完結となります。
長い間お付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました!!
活動報告にあとがきをのせていますので、お暇でしたら覗いてやってください。




