問題編3
私は質素なベッドと机しかない、石造りの小さな部屋の中にいた。
頭上よりはるか高いところに申し訳程度の明り取りがあるのだが、唯一の光源である月さえも分厚い雲に覆われた今、部屋の中は自分の指先すら見えないくらいほどの闇に満たされている。
どこからか水が染み出してきているらしく、ぽたぽたと滴る音が断続的にしていた。その音をずっと聞いていると気でも違いそうになるので、私は聞こえてくるもう一種類の音に長いこと耳を傾けていた。
それは狭まった気道で無理に息を吸う、明らかに呼吸の主が酷い熱に苦しんでいるとわかる、ヒューヒューという嫌な音。
呼吸の主は粗末なベッドに横たわって、純粋な寒さではなく熱による悪寒に体を震わせていた。彼の足元に腰かけている実体のない私にも、その体の震えが伝わってくる気がした。
最初は普通だったらすぐに治ってしまうような風邪だった。
けれど彼にはそれを治す環境もなければ、気力も意志もなかった。
きっとこの人はもう死んでしまいたいのだろうな。
そう気づいたのはいつからだったか。
不思議というか、やはり夢というか、現実で私が眠っている時間と、夢の中での時間は決して対応していない。数時間のうたた寝でも、夢の中では一週間経つこともあった。それはおそらく、今も。
私は真っ暗な闇を見つめながら、早く目が覚めて欲しいと願う。
肉体的に疲れはしないが、正直しんどいと感じる。
だって、私には何もできないのだ。
彼に触れることも、話しかけることもできず、ただ幽霊のように存在するしかない。そんなことはこの繰り返す悪夢の中で嫌というほど理解していた。
彼の苦しみをどうしてやることもできない絶望と、まだ生きているという喜びが交互にやってきて、胸が張り裂けそうになる。けれど彼にとって死は救いであるのも、また事実なのだ。そこまで考えついてしまうと今度は、まるで開かない箱に閉じ込められて、にっちもさっちもいかなくなってしまったような酷い閉塞感と虚無感に襲われるのであった。
せめてもの救いは、真っ暗闇のおかげで彼の病み衰えた姿を見ずにすんでいること。
もうすぐ、彼は死ぬのだろう。
そしてその瞬間まで。彼が息を止めて、すっかり冷たくなってしまうまで、私はこの悪夢を見続けるのだろう。
不思議と涙は出なかった。
それはこれが夢だとわかっているからなのかもしれなかったし、泣いたところでどうしようもないとわかっていたからなのかもしれなかった。もしくはこの長い悪夢に、すっかり感情が麻痺していたからなのかもしれない。それとも私は自分が思うよりも、薄情な人間だったのか。
もうすぐ、彼は死ぬのだろう。
私はそっと目を閉じる。
もうすぐ、私の知らなかったベルンハルトの人生は終わるのだろう。
ガタンと硬い衝撃に体が伝わり、私は現実に引き戻された。
驚いて目を開くが、なぜか細かくて黒い網目に邪魔されてよく見えない。
な、なんだこれ!?と一瞬パニックになりかけたが、すぐにそういえば顔を隠すためにヴェールをしていたことを思い出した。まさしく目と鼻の先でひらひらしているヴェールをびっくりさせやがってと睨み付ける。一瞬、悪夢の見過ぎで目がおかしくなったのかと思った。
それから少し落ち着きを取り戻して、自分が嘆きの孤島に行くために船に乗り、心配していた船酔いどころか波の揺れについうとうとしてしまったこともついでに思い出す。
あー、夢見が悪いから寝ないようにしようと思っていたのに…。結局寝ちゃったのか…。
とにもかくにも、夢から覚めて、自分がどこにいるのかもすっかり理解した私は、ほっと息をついて強張っていた体の力を抜いた。するとだんだんと頭がしっかりしてきて、背中というか体全体が温かなものに包まれていることに気付く。
なんだろこれ。暖かいけどちょっと硬い、ような?
「大丈夫?」
もぞもぞしていると、暖かさの正体、毛布の上から抱きかかえるようにしていたベルンが、私が起きたことに気付いて声をかけてきた。
うわぁとか、うひゃあとかよくわからない間の抜けた叫びをあげる私に、ベルンはおはようと返す。
なんでこういうことをさらりとできるんだろう。この人、羞恥心とかないのか。あ、でも、変なところで赤面していたような。いやいや、今はそれよりも。
「どれくらい寝てた?」
「たいした時間じゃないよ。そろそろ起こそうと思っていたんだ。ほら」
ベルンが指さす先に目を向けると、出港した時は親指の先ほどの大きさだった島が、もうずいぶん近くまで迫っていた。
近づくにつれあらわになる島の表面は、黒々とした岩肌で覆われており、植物の緑はほとんど見えない。まるで海底の隆起というより、神様がめちゃくちゃに石を積んでできたのだと言われた方がしっくりくる。
監獄塔は小さな島に生えた巨木のように、ずっしりと海のただなかに根を下ろしていた。
根っこの部分、足場にあたる陸地が小さいせいで、見ていると不安な気持ちになる。特に船で島の南側へ回り込むために、ちょっとした崖下を通らなければならなかったのだが、いまにも頭をもたげて倒れてきそうで酷く怖いと感じた。
というように塔の見物をしつつ島を半周して、南側にある桟橋と呼ぶのもおこがましい今にも崩れそうな船着き場へ私たちを乗せた船はついた。
ベルンに半分抱き上げてもらう形で、ぐらぐら揺れる不安定な船から桟橋になんとか移る。
たぶん昨日まで着ていた、一般的な旅装束なら動きやすいからこれくらい一人でいけたのだろうけれど、今日の私はちゃんと貴族らしいドレスを着ていた。とは言っても、簡素で装飾とかも最低限のものだ。しかも顔を隠すヴェールまでしているもんだから、全身全霊でお忍びです!と宣言している人になっている。
ベルンのほうも私と同様に、地味だが決して安物ではないコートを羽織り、深々と帽子を被っていた。これで全身でお忍び宣言をしている人間が二人に増えたことになる。
つまり自分たちは何らかの理由で監獄塔を訪れたやんごとない身分の人だと、見た目からアピールしながら私たちは嘆きの孤島へ上陸したわけである。
それはこの方が余計な詮索や邪魔が入らずいいという、ベルンの考えからであった。
遠くから見ている時はこじんまりとした島に見えたが、上陸してみると案外広い気がしてくる。いや、まぁ人が住んでいるんだから当たり前っちゃ当たり前なんだけれども。
船着き場と監獄の正面入り口は繋がっており、すぐに門番が声をかけてきた。
門番とのやりとりをやるつもりもなければ、おそらくさせてももらえない私は、ついにやってきた監獄塔をしみじみと見上げる。
塔のわりには高くない方だろうが、こうして足元からでは首を直角に曲げないとてっぺんまで見ることができない。
もとから黒かったわけではなく、長い年月のすえに苔むし、変色したのであろう。塔の表面の石は、海から吹き付ける風のために常に湿って、爬虫類のように光っていた。まるで塔自体が一つの意思を持った生き物のであるかのような…
ぽかーんと口を開けて見上げていると、名前を呼ばれた。
門番と話をつけたらしいベルンがおいでと手招きしている。
それに逆らう理由などもなく、私はいよいよこの陰気でどことなく恐ろしい、一生のうちに顔を合わすこともないだろうと思っていたヴィオラのいる、この監獄塔に足を踏み入れることとなった。
そもそものことの起こりは、皆さんもご存じ、昨日私が侯爵領の港でベルンに対して自分でも気づいていなかった怒りをぶちまけたことであった。
一方的に怒ったり泣いたり言い訳したりした私に、彼は物凄くビジネスライクな感じで返してきたわけなんですけれども。うーん、一晩あけて冷静に考えると、ちょっと腹立たしいぞ。まぁ、それはおいといて。
ベルンが私の悩みを解決するために提案したのは、監獄塔にいるヴィオラに会うことだった。
いわく、
「たぶん僕には、リジィの悩みを取り除いてあげられるようなことは言えないと思う」
からだそうだ。
そっかぁ。いやごもっともだけど、諦めるのがちょっと早い気がするのは私だけだろうか。
それから彼は自分から提案した割には、あまり気乗りしないふうに。
「それにその前世っていうのが本当にあると仮定して」
「仮定なの?」
「僕にはどうやっても確認しようがないからね」
「え~…」
頭の固い奴め!
と悪態をつきはするが、それだけ真面目に取り合ってくれているのだと思うと嬉しいような、少しいたたまれないような、そんな気持ちになる。
「とにかくヴィオラはとても貴重な話し相手になるだろう。そして僕たちは運よく急ぎではない旅の途中で、嘆きの孤島もすぐそこだ」
そう言われると、確かに行くしか選択肢はないように思われてくる。
よく考えなくとも、私はヴィオラと話すことは一生ないだろうと諦めていたわけなのだし、そのヴィオラに勝手に負い目のようなものを感じていたのだ。
けれど彼女と話すことで、なにか変わるのだろうか?
私は何か明確な答えが欲しいわけではない。それでも、この心に積もったもやもやが解決する何かを得ることができるのだろうか。
わからない。
わからないから、行ってみるしかない。
いつもそうだったではないか。一人でうだうだ考えたって仕方ない。何があるのかわからないけれど、とにかく行動してみる。飛び込んでみる。
そういうわけで私はヴィオラに会いに、嘆きの孤島へ行くことを決意したのであった。
「でも意外だったなぁ」
私たちは門番から看守に案内を引き継がれ、ここで一番偉い人、つまりここの管理をしている典獄の部屋に連れていかれた。
部屋は通ってきた監獄の無機質で冷たい感じとは一転、それなりに高価な家具がそろえられ、暖炉には火がくべられている。
典獄が来るのを待っている間、上の言葉をもらした私にベルンは何がと返した。
「ベルンのほうからヴィオラと話してみないかって言われるなんて、思ってもみなかった」
私一人だったら、とてもじゃないけど、よっしゃ!ヴィオラに会いにいっちょ嘆きの孤島に行こう!なんてならなかっただろうし、思いつきもしなかったことだ。
ちらりとうかがったベルンの横顔は暖炉の火に照らされてもなおやや青白かったが、至って健康そうだ。私の言葉にちょっとというか、だいぶん不服そうな顔をしてはいたのだが。
だというのに病み衰えた彼の苦しそうな息遣いが耳元で聞こえた気がして、一瞬氷の手で背筋を撫でられたようにゾッとする。
夢は夢だ。そう割り切っているつもりなのだけれども…。
自分で思うよりももしかしたら、まいってきているのかもしれない。
「本当は嫌だよ。だって、ヴィオラと話せばリジィはきっと傷つく。それに嘆きの孤島なんて陰気臭いところ、誰も好き好んで来たりなんかしない」
自分から話題を振っておいて別のことを考え出していた私は、はっと我に返った。そしてびっくりして目をぱちくりさせながら、ベルンを見上げる。
なんというか、ベルンの口から陰気なんていう言葉が出たことに驚いてしまったのだ。
だってあなた、墓場でも必要があればピクニックできそうな人間から、陰気臭くて嫌なんて出たらびっくりするだろう。いや、墓場でどんな必要があればピクニックするんだよって話なんだけど。
私の驚きをどう受け取ったのか知らないが、彼はぼそぼそと自信なさげに言いつのった。
「リジィが怒っている理由を僕はたぶんまだちゃんと理解できていないと思う。それに昨日も言ったけれど、たぶんこの機を逃せばヴィオラに会うことは一生ない。それをわかっていてもなお、僕がここで君をヴィオラに会わせないことを選ぶのは、君の気持ちを無視することになるのかなと、思って…」
私が思っているよりもずっと、彼は彼なりに物凄く一生懸命に考えくれているらしい。
そして自分のためにこんなに悩んで、考えてくれる人がいるって実は凄いことなんじゃないだろうか。そんな思いが湧き上がって、私は諦めるのが早くないかとかつっこんだ自分を恥じ、小さくありがとうと呟いたのだった。
典獄はまだ初老に届くか届かないかくらいの、どちらかというと肉体よりも書類作業が得意そうな男性だった。
看守の長なんていうくらいだからてっきり厳ついゴリラとかヤから始まる系の人が来ると思っていたので、少し拍子抜けしてしまう。
彼は最初突然訪ねてきたお貴族様こと、私たちを持て余しているようであったが、ここまでの旅で使っていた旅行券とは違う、特別な旅行券をベルンが見せると一気に扱いがただの貴族から、機嫌を損ねるとまずい上司に対するものに変わった。ハエみたいに、揉み手を始めるのも時間の問題といった感じだ。
旅券の何がどう特別なのかは、法外な権力、例えばどこかの狸公爵や頭のネジが緩んでいる美術教師の匂いがするのであまり深く考えないでおくことにする。
人間生きていくには、鈍感になることも大切だと思うんですよ。ええ。
話しのあいまあいまにやたらと砂糖菓子やら葡萄酒を勧められたりしながら、こちらの要件を伝えると、典獄は二つ返事でヴィオラとの面会を許可してくれた。
それから注意事項をいくつか伝えられる。例えば囚人と触れ合うのはダメとか、物を直接渡してはダメとか、考えられうる禁止事項だ。
「なにかご質問は?」
あのと一声あげてから、恐る恐る聞いてみる。
「面会室では囚人と私たちだけにして欲しいのです」
聞かれてもたぶん意味がわからない会話になると思うのだが、だからといっていいというわけでもないだろう。
典獄は困惑したように、視線をうろつかせた。
「それは…」
「面会室に入る前に身体検査して下さってもかまいません」
典獄が規則が責任がと渋っていると、ベルンがすっと懐からそれなりに厚みのある封筒を取りだした。そしてそれを無言でテーブルの上に滑らせる。
ま、まさか…!?
「我々男にはわからない女性同士でしかできない会話というものもありましょう。それにその囚人はただの女詐欺師。共犯の男の力も借りられないいま、何ができるというでしょうか?」
ベルンは、ね?と念押しするようにそれは親切そうに微笑んだ。
「というと、あなたは面会せず、そちらのご婦人だけ?」
一瞬ベルンは答えに迷って、
「ええ。私は部屋には入らず、入り口で見守るつもりです」
え!?あ、そうなの?
私、一人で話すのか?話しちゃうのか!?
典獄はしばし自分の職務と封筒の中身とを天秤にかけて迷っているようだったが、天秤は物欲に傾いたらしい。
「なるほど。…では特別にそのように配慮しましょう」
ああ〜!!
それなりに分厚い、何が入っているとは明言できないが、何となく中身がわかってしまう封筒が典獄の懐にしまわれていく。
あ〜、あぁ〜…。
堂々たる不正な取引を見届け、でもまぁ事を穏便に運べるならと自分に言い聞かせて、というか見て見ぬふりをするわが身の罪深さを恥じながら、私たちは面談室へ導かれた。
途中ここには、貴族の囚人が多く、五メートル四方ほどの広い牢獄には家具が持ち込めたり、食事も金次第では豪華なものに変えることができるのだという説明をうけた。言われてみれば塔の見た目に反して、中は寒々しいが決して不潔な感じはしない。
面会室は長方形になっており、錆びついた格子が二列、真ん中に一メートルほどの間をあけて部屋を分断していた。囚人が面会人かどちらかが腕をいっぱいに伸ばしても、届かないようにという計算なのだろう。
典獄はわざわざ私のために、白い漆喰で塗り固められた何の飾りもない部屋には不釣り合いな、猫脚のふかふかした椅子を用意してくれた。別に普通の椅子でよかったのに。
「入り口は開けたままにしておくからね」
「うん」
「僕は入り口に立っているから、なにかあったらすぐ呼んで」
「わかった」
「あと絶対椅子から立ち上がって、ヴィオラに近づいたりしないで」
「わかったから」
なんていう問答をひとしきり済ませ、後はヴィオラを待つのみとなる。
自然と緊張はあまりなかった。
どちらかというと自分が嘆きの孤島にいるなんて信じられなくて、現実味がまったくない。
意味もなく掌をグーパーして時間を潰していると、格子で遮られた向かいの部屋のほうの入り口がノックされた。
はっと息が詰まる。今まで仕事をサボっていたとでもいうように、心臓が急にバクバク鳴り始める。
軋んだ音を立てて、ドアが開く。
そして看守に前後を挟まれて現れた彼女の、美しい金色の瞳がヴェール越しの私の瞳とかち合った。




