問題編2
「私ね、本当はそんなに海が好きじゃないの」
ともすれば風や波の音にかき消されてしまいそうな声だった。
ベルンもまるで大声を出すことが禁じられているかのように、どうして?とだけ呟くように聞き返す。
「子供の頃、家族で海水浴に行ったことがあって」
喉がヒクつく。
今ならなーんちゃってで済む。やっぱりやめようか。頭がおかしいって思われたらどうしよう。
いやいやいや、いつまで同じところで足踏みするつもりなのだ。口から出た言葉はもう、戻ってはこない。いい加減、腹をくくらなければ。
それともこんなふうに臆病風に吹かれてしまうのは、私がベルンのことを信じていないからだろうか。
横目で隣にしゃがみ込んだままのベルンを見る。
彼は全く持って、びっくりするくらい無表情だった。
なんでこういう時に限って無表情なのかなぁ!
逆に肩透かしをくらった気になって、私は一度大きなため息をついた。
なんか、うん、まぁ。……言うか。
「その時私はまだ泳げなくて、練習していたらお父さんが急に手を離したの。それで見事におぼれちゃって、それ以来海があんまり好きじゃなくなっちゃった」
もちろん私は海になんて行ったことはないし、だいたいにおいて海に面した領地に住んでいたとしても貴族の子が、それも女の子が、海で泳ぐなんてありえない。ありえないのだ。この世界では。
そしてそんなことは、頭の良いベルンならとっくに気づいているはず。
だというのに、彼は気まずげにだんまりを決め込むばかり。
「聞かないの?」
「リジィは聞いてほしいの?」
なんだそりゃ。
ちょっとイラッとする。
いやだって、こっちはかなりの葛藤の末、打ち明けてるわけじゃん?そりゃ最後の方は、若干の思考放棄感が否めなかったけれども。けれども!
「聞いてほしくなかったら、こんな意味深なこと言ったりなんかしないよ」
「そっか」
そうだよね。そう言って、ベルンは立ち上がった。彼がしゃがんだ時に地面についてしまった裾の汚れを軽くはたくと、パラパラと砂や、小石が落ちる。その行方を目で追うが、すぐに岸壁の岩と同化してわからなくなってしまう。
「前世ってあると思う?」
「前世?」
「そう。人は死んだら、天の国に行くんじゃなくて、また新しい人間に生まれ変わる」
「生まれ変わる…」
「……私には、今の私になる前の人生の記憶があるの」
それからぽつりぽつりと私は断片的な前世の話を彼にした。
世の中は平和で便利だったこと。家族がいて、自分は学生だったこと。この世界を舞台にしたゲームが存在し、私もそれを遊んでいたこと。ライラやヴィオラも、おそらく私と同じ世界で前世を生きていたこと。
ちなみにゲームの趣旨とかは、説明が面倒というか恥ずかしかったので省略させてもらった。
「それって、ボードゲームみたいなもの?」
「うーん。なんていうか、物語の途中に何個も選択肢が出てきて、自分が見たい結末を目指すっていう遊びだったかな」
「ということは、結末は無数にあると」
「無数ってほどじゃないよ」
数えるのが面倒くさくなるくらいには、あったけど。
ベルンは眉間にしわを寄せ、難しい顔をしながらちょっとだけ低く唸った。物凄く難しい問題を解こうとして、頭を悩ませている。そんな感じ。
「君がライラと話す時に、ゲームという言葉を使っていたのは知っていたよ。この世界はゲームじゃないとかね」
だろうね。
「僕はてっきり、一部の女性の間で男を落とすゲームでも流行っているのかなって。まぁなんか違う感じはしていたんだが…。正直、受け入れがたい話ではある」
だよね。ベルンって、結構合理主義というか、現実主義だし。
「けれど、君が時々普段では考えられないくらい察しが良い時があったのは、そういうことだったのかと、少し納得もしている」
「なんか失礼なことを言われてる気がする」
謝罪の代わりにベルンは肩を竦めた。
「色々疑問に思っていたことに、説明がつく。ライラやヴィオラが未来はこうあるべきだと、確証もないのに妄信していたこととかね」
「ベルンってヴィオラと話したことあったっけ?」
「調書を読んだだけだよ。ヴィオラ自身はかたくなに占いの結果だと主張していたけどね」
遠くの島影、嘆きの孤島を見つめながら、私はなんとも苦い気持ちになった。
私たちの体験したことは、到底理解されないことだろう。第一に、人は死んだら生まれ変わるという考えから理解してもらわなければならないのだ。天の国を信じる人々には、受け入れがたい話であろう。
嘆きの孤島を眺めながら、物思いに沈んでいると目の前にすっとベルンの手が差し出された。中腰になって私に手を差し出す彼の表情は、いや私の考えすぎなのかもしれないのだけれど、もう気は済んだかとでもいいたげな感じで、なんだか物凄く腹が立った。
「結局ベルンは信じてくれるわけ?」
下から睨み付けるようにして問いかけると、彼はちょっと面食らったような顔をした。
「リジィが信じて欲しいなら。それに一応筋は通っているし」
一応、なんだ。
というか、私が信じて欲しいならって、それ結局どっちなんだ。
いやわかっている。ベルンはたぶん本心からそう言っているのだ。
それでよしとできないのは、私のほうの問題だ。だって今までも、何度もそうじゃないんだけどなぁって思うことはあった。その度に、仕方ないかって飲み込んで、時間をかけてわかってくれればいいって流してきたのだ。だから今回だって…。
そう思うのに、私はベルンの手を無視して立ち上がり、彼に背を向けた。
腹の底でざわざわと何かが騒ぎ立てている。目頭にぐっと力がこもって、油断すると涙が出てきそうだった。
そんな自分が嫌で、知られたくなくて、私は大股で歩き出した。後ろからベルンの戸惑ったような呼びかけがあったが、構わず進み続ける。どうせその長い脚なら、私に追いつくのだって簡単だろう。
私はやけくそになって、わざと明るい調子で冗談みたいに言う。
「私、最初はあなたのこと、凄く怖い人だって思ってた。私の知るベルンハルトは、そういう人だったから」
「リジィ」
「それにライラのことも、もしかしたら私と同じで前世の記憶があるんじゃないかって。きっと私がもっと頑張っていれば、きっと…!」
「リジィ」
「私は馬鹿で、本当は覚悟なんて全然できなくって、そのくせ中途半端に自分の出来る範囲で未来を変えよう、私にできることなんてたいしてないんだって、自分で自分に言い聞かせてた。馬鹿で、傲慢で、臆病」
「リジィ!」
後ろから強い力で腕を掴まれ、私は立ち止まった。その瞬間、ほろほろと熱い涙がこぼれだして、頬を伝う。
「なのに誰も知らない。誰も叱ってくれない」
それは凄く、寂しいことだった。
私は……私は、寂しかった。
「たぶん、黙っていてもよかったんだと思う。ベルンはそういうこと気にしないんでしょ?私も隠し事をしちゃいけないなんて、思わない。それでも私は、ベルンに聞いてほしかった。知ってほしかった。…他の誰でもなく、あなたに」
真っ赤な夕日が照らす中、私たちは少しの間、黙って立ちすくんだ。沈黙を埋めるようなざぁざぁという波の音が、嫌にうるさい。
私が鼻をすすって、乱暴に涙を拭った時だった。途方に暮れた様子で、ベルンが言う。
「僕はどうすればいい?」
その言葉に、頭をガツンと殴られたようだった。
どうすればいい?
どうすればいいですって?
そんなの私にだってわからない。
でもそれを私に聞くのは、どうなのだろう。私がして欲しいようにするだけだなんて、そんなのただの人形だ。私はそんなものを彼に求めてなんかいない。
そう思うと同時に、ギリギリ冷静な自分が言う。
私が一生懸命言ったって、彼にはわからないのだ。私がどんな気持ちで言っているのかなんて。
薄々気がついてはいた。
ベルンは人の気持ちを理解するのが苦手な人だ。
いや、ちょっと違うのかも。彼は相手が怒っているとか、悲しんでいるとか、そういうことは理解できるけれど、どうしてなのかがわからない。表面上のものごとを理解できても、その裏にある本当に大切なところがわからない。
さっきの言葉だって、ベルンなりに真摯に考えた結果なのだろう。
だから私はベルンと少しすれ違いがあるかもしれないって思っても、黙っていた。
仕方ない。根気強くやっていけば。私が合わせれば大丈夫。
そんな気持ちで、ずっと正面からぶつかるのを逃げてきた。
ベルンからも、現実からも。
だって私には、どうしたらいいのかわからなかった。わからなかったのだ。
けれど!
「どうせ言ったって、その通りにするつもりなんかないくせに!」
大きな声をあげた私に、ベルンは目を見開き、息を吸い込んだ。私の腕を掴んでいた手が、力を失って離れていく。
身の内から何かが爆発しそうで、でも爆発できなくて、苦しい。今までどこにあったんだって言うくらい大量の感情が押し寄せて、飲み込まれてしまいそうだ。
「いっつもそう!ベルンは私の言うこと聞く振りして、本当に大切なことは何もわかってない!結局自分のしたいようにして、それに私が気づいたら僕のこと嫌になったかって試すようなこと言って…。私があなたのことを嫌になんてなるわけないじゃない!そんなものなれるならとっくになってるわよ。私のこと馬鹿にしてるの!?」
「馬鹿になんてしてな…」
「そんなことわかってるし!」
我ながら意味不明だ。これぞヒステリック。
しかしすぐに怒鳴ってしまった罪悪感が襲ってきて、私は言い訳というか釈明のようなものを言わなければと焦った。
「というか、私はただ前世の話とか、自分の情けなさについて話したかったのであって、それでベルンが全然私の気持ちも知らないで、どうしたらいいって聞いてくるから腹が立って、でもよく考えたらベルンが私の本当に言いたかったことをわかってくれたことなんてないなって余計腹が立って、えっと、えっと…」
私はとうとう頭を抱えて、泣いているんだか、呻いているんだかわからない状態に陥った。
もうダメだ。考えすぎと怒りのせいで、脳みそが溶けてる。
ライラやアロイスに対して怒った時とは違い、ベルンに怒ってしまった自分がとんでもなく酷い奴に思えて、このままスライムみたいに溶けて、海に流れ出て、そして消滅してしまいたいなんて馬鹿げたことを夢想してしまう。
この場の収め方よりも消えることばかり考えていると、私に怒鳴られてから石になってしまったみたいに、全く動かなかったベルンが唐突に口を開いた。
「わかった。問題をまとめよう」
「はい?」
何言ってんだこいつ。
いや、おま、え?
「リジィは前世の記憶がある」
「あ、うん」
「その記憶の中で、君はこの世界によく似た物語を読んだことがある」
まぁ、若干違うんだけど、とりあえず頷いておく。
「その知識を一部は使い、一部は使わなかった。君はそんな中途半端な道を選んだことを後悔している」
「…後悔は、してない。でも、もっといい方法があったのかもしれないなって」
消え入りそうな声で言うと、ベルンはなるほどと一つ相槌を打つ。
「そしてそのことを誰にも言えなくて、苦しかった」
「た、たぶん」
こうも冷静に分析されると恥ずかしいのだが、まぁ、そういうこと、だよね。
というか苦しかったなら、はよ誰かに言えやってことなんだよなぁ。でも今言ったわけだし。あーでも、こういうところが良くないわけであって、でもなぁ。
我ながらでもでもうるさい。
「あと僕にも不満がある」
不満…。不満、になる、のかな。
「けれど僕のことが嫌になったわけではない?」
急に疑問形だ。
「だからならないって」
「わかった」
何か勝手に納得して、ベルンは遠くを見つめた。それから何やら熟考し始める。
展開が意外過ぎるというか、一人取り残された私は、ぽかんと考え込むベルンを見つめるしかなかった。
なんだろう、このビジネスライクな会話は。私たちさっきまで喧嘩してたよね?喧嘩という、一方的に私が怒っていただけなんですけども。
よし。と結論がでたらしいベルンは私に向き合って、子供に言い聞かせるみたいな調子で言った。
「とりあえず、いったん宿に戻ろう」
ベルンが苦笑しながらあたりを見回すので、私もそれにならうと、近くの倉庫で働く人たちがちらちらと心配と好奇の混じった目で私たちを見ていることに気付いた。
う、うわぁああああ!なんてこった!
人前だということをすっかり忘れていた。いや、まぁ通りとかに比べればかなり人が少ないけれど、こ、これは、相当恥ずかしいのでは…。
真っ赤になって、涙の代わりに冷や汗を流し始めた私は背中に添えられたベルンの手が促す通りに俯きながら従う。
羞恥のせいで、すっかり怒りはしぼんでいた。
「僕は港に行って、船を出してくれる人を探すから、その間君は休んでて」
「船?どういうこと?」
眉を寄せると、目の周りがピリピリと引き攣る感じがした。これは後で腫れちゃうな…。
そう思っていると、ベルンの石みたいに冷えた指先が私の目尻を撫でた。たぶんちょっと前までだったら、なによ!って叩き落としていたんだろうけど、今はそんな気持ちも全くわかず、かと言って冷たくて気持ちいいなんていう呑気さも湧いてこない。
「まずは確かめに行こう」
何を。どこに。
ベルンは水平線へ、迷いなく指をさす。
「嘆きの孤島へ」




