幕間あるいはベーレでの幕引き
まったく手こずらせる。
馬車の揺れと臀部の痛みにうんざりしながら、アイマーは外を眺めた。
白い建物の隙間から時折、ベーレの藍色の海がのぞく。あいにくの曇りのせいで、どこもかしこもくすんで見えるのが残念だ。
夏になれば建物の白い壁が目に痛いほどに陽光を跳ね返し、遠くかなたの水平線まで綺麗に見えるという。
不覚にも屋敷からエルメンヒルデの脱走を許してしまったことが最大の失敗であった。
籠の中で大切に育てられてきたお嬢様が、まさかあんなお転婆だったとは。
リートベルフ領に逃げ込んだところまでは分かっていた。
エルメンヒルデは逃げるだけの勇気はあっても、知恵が少々足らなかったらしい。
とはいえリートベルフは自分よりもはるかに格上。下手に手出しは出来ない。
しかしリートベルフ侯爵は長いこと中央から離れているうえに、先だって娘の婚約者であったブルンスマイヤー公爵の長男が死んだと聞く。エルメンヒルデを匿う義理もなかろう。
そう思い雇った男たちに見張らせていたのだが、意外なことにリートベルフは侍女を変装させてこちらを撹乱させたり、エルメンヒルデに強い護衛をつけてきた。あの小娘は、あることないこと言って侯爵の同情を買ったに違いない。
雇った男たちをけしかけたが、逆に叩きのめされる始末。しかもその後の足取りもまともにつかめないという体たらくだ。
こうなったらベーレに赴き、自分が陣頭指揮をとるしかない。
他人はまったくもって信用ならぬ。
役立たずもいいところ、金を返せと憤るアイマーに思わぬ吉報が届いた。
よしみのあったボルマン子爵が自領でエルメンヒルデらしき女を捕まえたというのだ。
ちょうどベーレに向かっていたので、確認するためにアイマーはボルマン領へ進路を変えた。
そして昨夜ボルマンの屋敷にたどり着いてみれば、屋敷の前を馬が走り回っているわ、ボルマンはヴァイオリンを持った天使がなどとうわ言を言うばかりで、肝心のエルメンヒルデもいない。
そう!エルメンヒルデはまたしても逃げおおせたのだ!
しかも逃がした責任を取って協力しろと言うと、ボルマンはそれも出来ぬときた!
どうにも彼はヴァイオリンで強く殴られたらしく、そのせいで少し頭がいかれてしまったのだろう。これからの人生は悔い改めて生きていくなどと意味の分からないことを言っていた。もはやあんな者、ただの老いぼれ、いやそれ以下だ。
まったくもって腹立たしい。
「まったく!」
あれはヘスティリアの公爵家の最も血の濃い娘、直系の娘なのだ。
アイマーがそれを知ったのは本当に偶然だったのだが、今思えばあの時から自分に運が向いてきていたのかもしれない。
あれさえいれば公爵家の後ろ盾も得て、自分が、長らく分家に甘んじてきたアイマー家が、ハウスクネヒトの本家に舞い戻ることができるはずなのだ。
だというのに、小娘一人を捕まえるのになぜこうも手こずる。
そして一夜明け。
ボルマン領で歯噛みしながら過ごすアイマーのもとに、雇っていた男たちからベーレ付近でエルメンヒルデをついに見つけたという知らせが入った。
彼が年甲斐もなくその場で立ち上がり、ステップを踏んでしまったのも仕方ないことであろう。
エルメンヒルデが隠れて乗っている馬車の操縦者を脅し、入れ替わり、倉庫に馬車ごと閉じ込める予定らしい。
頼りにならぬ奴らと思っていたが、なかなかどうして。最後の最後にいい働きをしてくれるではないか。
そうしてアイマーはベーレにやってきた。
アイマーを乗せた馬車は、予定の倉庫の前で静かに停まった。
あのいけ好かない小娘をどうしてやろうか。
下卑た妄想をしながら、重たい腹を揺すってアイマーは馬車を降りる。
倉庫番に身元とあらかじめ伝えられていた合言葉を伝えると、貧相な倉庫番はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて彼を通した。なんて下品な男だと腹を立てたが、アイマーの意識はすぐに中で待っているものへ向けられた。
まぁいい。これでようやく一段落だ。
あとは無理矢理婚姻届けにサインさせればいい。
そういえば今回のことでそれなりに金がかかった。このツケは必ず取り戻さなければ…。
いや、エルメンヒルデが手に入ればそう難しくもないか。出生の秘密を使って、実家を強請ってやってもいいのだ。前本家当主がやっていたように。
倉庫の中は埃っぽく、風がないというのに酷く寒かった。広い空間には、雑多に積み上げられた木箱の塔がいくつも乱立している。
そして倉庫の中央。他の荷物に囲まれるようにして、馬車はあった。
きっとあの幌の中では、エルメンヒルデがガタガタ震えているのだろう。いかにも傲慢で我儘そうなあの顔が、恐怖に歪んでいると思うと爽快な気持ちになる。
「ああ、会いたかったぞ」
歌うようにそう言い、アイマーは幌の入り口に手をかけた。
そして勢いよく左右に開き、エルメンヒルデと感動の再会を果たす、はずであった。
「おや?」
誰もいなかった。
大きな木箱がいくつか積まれているだけだ。
なるほど、最後の悪あがきでこの奥にでも隠れたのだろう。
クソッ!どこまでも煩わしい女だ!
そう荷台に片足を乗せた時だった。
「動くな!」
背後から鋭く投げかけられ、アイマーは動きを止めた。
眉間にしわを寄せながら振り返ると、先ほどまで自分しかいなかったはずの倉庫には大勢の人間がいる。しかも皆腰から剣を下げ、この馬車を取り囲んでいた。
あの制服は……まさか海運警備隊?
「アイマー子爵だな」
「…いかにも」
これは一体どういう状況だ。
わけがわからないながらも、落ち着いた様子を取り繕いアイマーは荷台に乗せていた足を下ろす。手荒なことをされたらたまったものではないと、抵抗の意志がないことを示すように腕を広げて彼らと向き合った。
警備隊員たちはそろいもそろって剣に手をかけ、彼が逃げないよう目を光らせている。
なんだ…。一体これはどういうことなのだ…?
正面に立っていた、おそらくリーダーであろう男が持っていた紙を広げてアイマーに見せた。
「アイマー子爵。密輸入の疑いであなたを拘束させていただく」
そしてアイマーは理解した。
自分が嵌められたのだということを。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
思ったより前座が長くなりましたが、次からようやくリジーアとベルンの恋愛パートです。




