ボルマン子爵領5
エルメンヒルデがいるはずという部屋のドアにベルンは手をかけ、ノブを回したが開かなかった。
やはり、鍵がかけられているのだろう
「どうするの?」
もちろん鍵なんて持ってないし、扉を壊せそうな物もない。
ベルンは肩を竦め、私を扉から遠ざけた。
あー、これは…。
「エルメンヒルデ、ドアから離れろ」
警告して一分も経たないうちに、ドアはベルンによって蹴破られ無残な姿になった。
もうバキバキのベコべコである。かわいそうに。
「どうして…」
部屋の隅に避難していたらしいエルメンヒルデは、呆然とした面持ちでつぶやく。
エルメンヒルデの部屋は窓が打ち付けられ、僅かな光しか入らないようになっていた。しかし部屋自体は清潔で、結構広い。
とりあえずなんだか感極まってしまって、私は彼女を抱きしめた。自分でも驚くくらいに、私は彼女に会えたことが嬉しいかったのだ。
ヴァイオリンがめちゃくちゃ邪魔だったけれど。
「あなたなんでヴァイオリンなんか持っているの」
「転職したの」
経緯を説明するのが面倒で、適当なことを言っておいた。
もちろんこいつ適当なこと言いやがってみたいな顔をされた。
「どうしてあなたたちが」
きっと心細かったのだろう。
彼女の瞳は潤んで、廊下から入った光に、キラキラ光っていた。
ベルンも軟禁されているだけだと言っていたけれど、見た感じ手荒いことをされたという風もない。本当によかった。
「私たち、あなたのことを頼まれたの」
はっと息を飲む音が、彼女の口からもれる。
「わたくしの本当のお父様…?」
「知ってたの?」
エルメンヒルデは力なく首を横に振った。
そういえば旅の途中から思っていたけど、髪の毛のドリルも巻きが足りなくて普通の巻き髪になってきている。
「いいえ。でもボルマン子爵が…」
「そっか」
彼女はこの暗い部屋に一人でいる間、ずっと考えていたのだろう。ただ困ったように眉を寄せ、それでも自分なりに受け入れているようだった。
「わたくしはヘスティリアの公爵家の直系の娘、だったのね」
エルメンヒルデはハウスクネヒト伯爵の本当の娘ではない。
彼女の母親が伯爵家に嫁いだ時、すでに妊娠していたのだ。
父親は不明。
ということになっているが、ルーカスからの手紙には父親はエルメンヒルデの母の兄だと記されていた。公爵家のほうも、そういう認知らしい。
つまりエルメンヒルデは兄妹間で産まれた子供。混じりない公爵家の直系の娘だったのだ。
彼女も周囲も直系の娘というのは、当主とその正式な妻の娘という意味だと思っていた。しかし、一部の人間は知っていたのだ。例えばハウスクネヒト伯爵や、分家の当主などは。
もちろん多くの国で、近親間の交わりはタブーとされているが、隣国は信仰されている宗教で禁止されていることから特にその傾向が強い。そのためスキャンダルを恐れた公爵家は彼女が生まれる前に、母親を我が国の伯爵家に厄介払いのような形で嫁がせたのだ。
タブーの子であっても、血統を重視する公爵家にとって、エルメンヒルデは最も血の濃い子供である。殺すのは惜しい、となったのかもしれない。
もしくは純粋に、エルメンヒルデとその母親に、公爵家から離れて安全に生きていて欲しいと願った人がいたのかもしれない。
結局は向こうもお家騒動で正当な血統がどうのという状況らしく、ぜひとも迎え入れたいのだそうだ。
そしてルーカスのほうに秘密裡で、エルメンヒルデをベーレまで送り届けて欲しいという依頼が回ってきたというわけである。
「すまないが、話しは移動しながらにしてもらえるかな?」
あ、そっかドアを蹴破った時に結構な音がしたから、誰かが来てもおかしくない。
「荷物は?」
「ないわ」
「よし、行こう!」
「ちょ、ちょっと待って。ここからどうやって逃げるの?」
エルメンヒルデを脱出させる方法はちゃんとある。
ただ私だったら遠慮したいなぁと思う。思うのでもう少し黙っておくことにした。
「ああ、うん、たぶん大丈夫」
「たぶんって何よ!ねぇ、下には行かないの?」
「大丈夫だから」
先導するベルンに続いて、彼女の手を引いて走る。
「ねぇ、エルメンヒルデ。私、あなたのこと最初嫌な奴だって思っていたし、時々面倒臭いし、何捕まってんだとも思ったけれど、お婆さんを助けるためなら仕方ないかなって」
「…ごめんなさい」
エントランスとつながる階段を上がってくるいくつもの足音を後ろに、屋敷の北側へ移動を続けた。
人間不思議なもので、誰か引っ張っていかなければいけない相手がいると足の震えがぴたっとなくなる。
「私は怒ってないよ」
他の人がどう思うかは別として。
「私こそ、あなたが大変だった時に寝こけてたんだし。あと、看病してくれてありがとう。…言い忘れてたから」
エルメンヒルデは何も言わなかった。
廊下を走っているうちに、遠くから馬の嘶きがいくつも重なって聞こえてきた。遅れて屋敷の外にいた警備の叫び声も。
タイタスは上手くやったようだ。
エントランスから上がってきた人たちは、エルメンヒルデがいないことに気づいたのか何か大声で喚く声が聞こえた。
しかし幸いにして誰ともかち合うことなく、私たちは北側の部屋にたどり着けた。
誰かに見られる前に部屋の中に滑り込む。
中は雑然としていて、椅子や机が重ねておいてあり、布を被った彫像らしきものもある。部屋自体の装飾もほとんどないし、おそらく物置だろう。
私は彼女を窓辺に引っ張っていった。
この屋敷の北側は狭い植え込みを挟んで、道に面しており、窓の下には夜露に濡れる石畳がある。
ベルンは誰も入ってこれないよう、ドアの前に張り付いて廊下の様子をうかがっていた。
「それで、どうやって逃げるのかしら?」
「この下に馬車が来るから、そこから飛び降りて」
すぐ横の窓を指さして言うと、彼女はみるみる顔を強張らせた。
「はぁ!?窓からなんて、正気?」
「窓は良い出入り口だよ」
タイタスの真似をしてベルンは言う。おっと今日は、お茶目な気分なのかな。
「らしいよ」
文句なら提案者のタイタスに言ってくれ。
私も最初聞いた時は、鬼畜かと抗議しそうになったものだ。けれどベルンがいくら強くても、どのみち戦えないエルメンヒルデと私を連れて警備を突破するのはかなりの危険が伴う。それなら同じくらい危険でも確実に逃げられるほうがいい。
というのがベルンやタイタスの考えだ。
「無理よ…!だってここは二階でしょ?」
「毛布、いっぱい積んでおいたから…」
「毛布…」
私も確認で毛布の上にダイブしたりしたけど、二階からだとまぁまぁ痛い、だろうなぁ…。
「頑張って」
「もう痛いなら痛いって言ってちょうだい。覚悟するから」
逞しくなったなぁ、エルメンヒルデ。
窓の下を揃って見下ろす。馬車は少し遅れているようだ。
「ベーレについたら海運警備隊が保護してくれるから。あとはヘスティリア行きの船に乗ってしまえば、きっと大丈夫」
けれどヘスティリアで待っている現実もまた、そう易しくはない。
エルメンヒルデは伯爵家の争いから逃れて、公爵家の争いに新たに飛び込まなければならないのだ。
「頑張って」
なんて無責任な言葉なんだろう。
これ以上かける言葉が見つからなくて、俯いた私に唐突に彼女は言った。
「わたくし、ベルンハルト様のことが好きだわ」
どうした。突然。
「えっと、知ってるけど…」
「でもわたくしが恋したのは、あなたのことが好きなベルンハルト様だった。だからあなたも、リジーアさんももっと自信を持ちなさい」
エルメンヒルデの冬の空みたいな瞳が真っ直ぐに私を見ていた。
その目を見ていると、彼女はお世辞や適当な言葉なんかじゃなくて、本心からそう言っているのだとわかってしまう。だって私を励ましてるつもりなんだろうに、やっぱり少し悔しそうなんだもの。
だからこそ、嬉しかった。
「ありがとう……」
不覚にも泣きそうになって、上を向く。
物置だからか装飾のない、梁がむき出しになっている天井を見つめてなんとか涙は引っ込めた。
ふぅ、危ない。また彼女の前で泣いてしまうところだった。
ああ、馬車が見えてきた。
それに廊下もだいぶんうるさい。ベルンが目線で早く行くよう急かす。
「まぁ、ベルンは私の婚約者だから諦めてもらうけど、隣国ならベルンよりいい男がきっといるよ」
「絶対見つけてやるわ。……難しいでしょうけどね」
「あははは。たぶんね」
窓を開き、馬車に向かって手を振る。
冷たい夜風に身が縮むようだ。
「本当に、何から何までありがとうございました」
深々と頭を下げ、エルメンヒルデは窓枠に手をかけた。
間違って落ちないように腰に手をそえ支えてやる。
ちらっと彼女の体越しに見てみたけど、二階といえど結構な高さがある。しかも真っ暗なせいで距離もよくわからない。
これは、けっこう怖いだろうな…。
「大丈夫?」
「なわけないでしょ…!」
そりゃそうだ。
馬車が窓の下でピタリと止まった。着地しやすいにようにかなり大型の馬車を用意したのだが、ここから見ればどれも一緒な気もする。結局飛び降りることには変わりないわけだし。
エルメンヒルデは深呼吸をしたが、体は小刻みに震えていた。
窓枠を握る力が強すぎて、なんかミシミシ言ってるし。
とてもじゃないが飛び降りる準備ができているとは思えない。
最悪突き落とすとか言っていたベルンの言葉を思い出しながら、彼女がちゃんと馬車に飛び降りれることを祈るしかできない。
「エルメンヒルデ!」
それまでずっと黙っていたベルンが、彼女の名を呼んだ。
エルメンヒルデが振り返る。
「良い旅を」
それはこの旅で初めてベルンが彼女に笑いかけた瞬間だった。
「はい」
エルメンヒルデは眦にたまった涙をごまかすように笑い、それからぐっと体に力を入れて、
窓枠を力強く蹴って外へ飛び降りた。
ふわっと髪がドレスが膨らんで、翻って、夜の中に彼女の姿が消える。
ボスンと重い音がして、御者が手綱をピシャリと鳴らした。そして息を吹き返したように馬車は走り出す。
私は夜の街へ疾風のように駆けていく馬車へ窓から身を乗り出して、腕がちぎれんばかりに手を振った。
暗くて良く見えなかったけれど、きっと彼女も振り返してくれたんじゃないかな。毛布に埋もれて身動きできなくてジタバタしていただけかもしれないけれど。
「僕たちも脱出しよう」
別れの余韻を引きずる暇もない。
物置を出て、エルメンヒルデを探す下男や侍女に見つからないよう隠れたり、最悪意識を失ってもらって、私たちはエントランスとつながっている階段から下に降りようとしたのだが、
「いたぞ!」
うわわわわ。三人も…!
思わず二歩くらい下がった私の横をすり抜け、ベルンは階段の一段目に足をかけることなく、飛んだ。
「え」
階段を上ってきた男たちも一瞬意味が分からず彼を見上げる。
その顔の一つ、先頭にいた男、面倒なので男1の顔にベルンは着地した。
いや着地って、あなた、人の顔は!着地するとこじゃ!ない!
「ぶっ」
「ぐわー!」
「うわあああああ」
エントランスとつながる階段はYの字になっていて、左右は狭く、また緩くカーブしている。
顔を踏まれた男1が、ベルンの体重に耐えられるはずもなく後ろ向きに倒れると、意外と狭い階段のうえでよけきれず、男2と男3は将棋倒しに巻き込まれて同様に後ろに向かって転げおちた。
ベルンは彼らを人間ソリみたいにして何段か降りたが、流石にバランスが悪いらしくすぐに降りる。
しかしベルンが降りたからといって、男1、2、3が階段を滑り落ちていくのは止まらない。
アーメン。
相変わらず上は騒がしくて、私はベルンに続いて急いで階段を降りた。
階段下で団子になって呻く彼らをよけ、よけ……足の踏み場が…!
何とか伸びてる人たちを踏まないよう、ほっほっ言いながらつま先立ちで、けんけんぱみたいにして通り抜ける。別にほっほっ言う必要ないんだけど、なんか出ちゃうんだよなぁ。
踊り場に出て、広い階段を駆け下りる。
もうすぐで玄関というときだった。
「貴様らぁ!」
えらく通るいい声が上から響いた。まるで空気の振動が足底から伝わってくるようだ。
振り返ろうとしたベルンがとっさに腕で顔の下半分を隠した。
え、急にどうしたの?
「この私に歯向かってどうなるかわかっているのか!」
恰幅が良く、身なりもいい初老の男性が、私たちが降りてきたのと反対側の階段から踊場へ一歩一歩踏みしめるように降りてくる。
いや、誰だよ。
なんてとぼけたことを思ってすぐに、その人物が誰かわかる。
まさか…!
「ボルマン!?」
「小娘ごときが、私を呼び捨てにするとはいい度胸だな」
げぇー!!!
嘘でしょ!?デブでも、ハゲでもない!恰幅のいいナイスミドルじゃん!?しかもなんか無駄に良い声してるし。
うわ~、よくわからないけど凄いショックだ。
「下がって」
ベルンが私を庇って前に出ようとした。
なるほど、急に顔を隠したのはこいつがボルマンだからか。
黒髪に灰色の目なんてそうそういないから、顔を隠しても無駄な気がするけど、まぁ、言わなくてもいっか…。
「なにを寝ている、早くあいつらを捕まえろ!!」
ボルマンは起き上がろうとしてこけて、なかなか立てない三人組のうちの一人を蹴ったが、彼らはまだ上手く立てないようであった。
それに腹を立てた彼は、持っていた杖でやたらめったらに彼らを叩いた。
そして自分以外は役に立たないと悟ったのか、杖を握り直し階段へ一歩踏み出す。
杖の頭についたワシらしき真鍮の飾りが光を鈍く反射している。
ベルンは正面突破するか、別の出口を探すか考えているのだろう。素早く視線をあちこちに動かしていた。
いつもだったらそのままベルンに任せていただろう。
だけど今だけは。
そう今だけは、私がやらねばならないことがある。
「ボルマン!」
私は彼の手を振り払い、ボルマンを睨み付けながらゆっくりと前に出た。
ボルマンは目の前の無力そうなのに、自分に全く従わず、それどころか睨み付けてくる存在に少なからず動揺したようだった。しかしすぐに私が大した武器になりそうなものを持っていないことを見て、余裕を取り戻す。
まさか私に何かしようとでも?みたいな顔が非常に腹が立つ。
ふっ、バカめ…。
私は逃げられないように一気に階段を駆け上がった。
もちろんボルマンは杖を振りかざすが、そんなことお構いなしに、私もヴァイオリンを振りかぶって、
「悔い改めよ!」
ボルマンの頭にヴァイオリンを叩きつけたやった。
腕がジーンと痺れて、思わず取り落としそうになる。
気分はちょっとしたロックスターだ。
いや、これヴァイオリンなんだけどね。
あといつも言っているけれど、もちろん暴力はよくない。そう、よくない。よくないけど、でも、ボルマンは別ね!理不尽だろうが何だろうが、知らん!反省はしてる!
殴られた衝撃でボルマンの手からすり抜けた杖が肩に当たって、けっこう痛かったが、それよりも私の胸中は達成感に満たされていた。
ヴァイオリンはひょうたん型の部分と、細長いところで折れて、弦だけでかろうじて繋がっている。ぶらんぶらんと揺れて、もはや演奏など夢のまた夢となったヴァイオリンを放り投げ、ガッツポーズをとろうとした私はベルンに回収された。
そして普通に怒られた。
それから頭を抑えてうずくまったボルマンを放置して、屋敷から逃げずに庭を荒らす一部の馬に混乱する警備の隙間を抜け、タイタスと合流した私たちはついにボルマン屋敷を脱出したのだった。




