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婚約者が悪役で困ってます  作者: 散茶
婚前旅行記
36/78

ボルマン子爵領2


ひたすら田舎道を走って時間の短縮をはかるという旅の試みは、馬車の揺れに体の節々が酷く痛むことと、途中羊の群れに囲まれて立往生したり、ぬかるみに車輪を取られるくらいの出来事を除けば今のところ上手くいっていた。

途中立ち寄った休憩所で食事をとったが、食事は正直言って酷い味だった。

冷めきっていたし、味付けだって薄くて、まるでなっていない。けれど文句を言える立場でもないと、黙々と食べた。リジーアは少し残して申し訳なさそうにしていたので、やはり彼女も美味しいとは感じていなかったのだろう。

ベルンハルトが豆だけを器用に皿の端によけて、リジーアに怒られたりしていた。豆が苦手らしい。その様子が子供みたいで、笑ってしまうくらいには私も旅に慣れてきていた。


しかし何事もそう上手くいかないもので、ついに旅程の半分、ボルマン領に入った頃だった。

ずっと顔色の優れなかったリジーアは昼食後にほとんど強制的に運転を交代させられ、荷台へ戻ってきていた。

相変わらず動かず騒がず、荷物として過ごす私の向かいで、リジーアはもうずっと座ったままの体勢で毛布にくるまって浅い眠りと覚醒を繰り返している。

「あなた本当に大丈夫?やっぱり横になったほうがいいと思うのだけれど」

低い唸り声とともにむっくりと上げた顔は、暗がりで見てもわかるほどに具合が悪そうだった。

「なんか、気持ち悪いかも?」

「え」

なぜ疑問形なのだ。

リジーアは立てた膝に頭を数度こすりつけ、少し口の端をもごもごとしてから申し訳なさそうに言う。

「先に謝っておくね。ごめん」

「先ってなによ!?」

「吐いたら、ごめん」

「きゃああああ」

「まだ吐いてないから!そんなに遠ざかられると、傷つくんだけど!」

自分で自分の大声が頭に響いたのか、リジーアは再び呻いて膝の間に頭を戻した。

これは本格的にまずそうだ。


それからリジーアは酷い熱を出してしまい、宿を取って彼女を休ませようということになった。

偶然にもボルマン領の中心街が一番近かったので、日が暮れきる前になんとか辿り着くことができた。

ベルンハルトが見つけてきた宿は、正直馬小屋のようだと思わないでもなかったが、通りすがりにみた今にも崩れそうな安宿と比べればまともな方だとわかる。

リジーアは大丈夫と繰り返したが、宿にたどり着くころには取り繕う気力もないのかほとんどしゃべらなくなっていた。

彼女が身振り手振りで言うところには、口を開くと吐くそうだ。

宿泊の手続きをする間、私は彼女の背中をさすって声をかけることくらいしかできず、なんだかとても居心地が悪い。

「ボルマンは嫌だ…ボルマンは嫌だ…」

ベルンハルトが宿の者と交渉している間、リジーアは寒いのかガタガタ震え真っ青になりながらも、ボルマンは嫌だと繰り返していた。

口を開いたら吐くんじゃなかったのか。

子供のころ読んだ童話の、同じ言葉しかしゃべれなくなった王様の話を思い出しながら、何故そこまで嫌がるのだと尋ねてみると、

「ボルマンは嫌だぁ…!」

とリジーアは弱々しくも叫んで、ちょっと泣いた。

「どうしてそんなに嫌がるのよ…」

ボルマン子爵が何をしたっていうのだ。確かに、あまり良い噂は聞いたことはないが。

病人のわりに力のあるリジーアはベルンハルトに任せて、私はひとまず自分の部屋に行くことにした。


宿の中はどこも粗末でみすぼらしかったが、無骨なつくりで防犯面においてだけは安心できそうだった。快適な眠りという点においても、馬車に比べればきっと天国に違いないはずだ。

自分の荷物を置き、リジーアの着替えを手伝うために部屋に入ると、寝台からは鼻をすする音がしていた。ついに鼻にまで来てしまったのだろう。かわいそうに…。

「着替えを持ってきたけど、一人でできそう…」

リジーアの顔を覗き込もうとして、ぎょっとした。

鼻先まで毛布を引っ被って、リジーアは泣いていたのだ。

「ど、どうして泣いてるのよ!」

「ごめんなさい、こんなところで時間を無駄にできないのに」

なぜ泣いているのかわからず、私は恐々と寝台の横に椅子を持ってきて腰かけた。

リジーアは泣き顔を見られるのが恥ずかしいらしく、手の甲で毛布から出ている顔の上半分を隠した。

すんすん鼻を鳴らす様子を見ていると、そういえばこの子は自分よりも三つも年下の女の子だったのだと今更ながらに思い出されて複雑な気持ちになった。

「仕方ないじゃない、あなた病気なのよ」

どう慰めればいいかわからず、自分が子供のころどうして貰ったか必死に考えるも、思い出すのはここの何倍も広くて豪華なのに寒々とした自分の部屋の様子だけだ。

手でも握ればいいのだろうか?

そう思うが勇気が足りない。

「でも、私、馬車の運転くらいしかできないし、体が丈夫なのだけが取り柄なのにこんなところで体調を崩すなんて」

私に至っては馬車の運転もできない、実質お荷物なのだが…。

そういえば昼食を残していたが、あれは気分が悪かったからなのかもしれない。それに馬車を運転するために長時間風にあたっていたのも良くなかったのかも。

着替えと一緒に持ってきたタオルでせめて涙を拭いてあげたいのだが、手のガードが固くて一人変な踊りをしているみたいになってしまう。手をどけてなんて到底言えないし、本当にどうすればいいのだ。

「私には…」

明らかに鼻詰まりの声で、リジーアは消え入りそうな声で誰にともなく続けた。

「特別凄いところなんてなくって、エルメンヒルデみたいにベルンのことが好きな人はきっと他にもたくさんいて、それなのに私、あの人に隠し事を…。言った方がいいって、言わなくちゃって!そう思うのに、ずっと言えなくて」

リジーアは熱のせいで頭が混乱しているのか、話の内容は私に向かってというよりひとり言に近いように思えた。

私がどぎまぎしながら、そんなことないわと合ってるのか合ってないのか微妙な慰めをかけた。

「そうかなぁ」

「そ、そうよ!」

「でもやっぱり卑怯じゃないかな…」

「卑怯じゃないわ」

泣き止む気配が見えて、急いで追い打ちをかける。

しかし逆効果だったようで、リジーアはうううとまた泣き始めてしまう。

わ、私は一体、どうすれば…。


ここは私なんかではなく、ベルンハルトに任せた方がいいのでは?と思い始めた頃、部屋に近づいてくる足音がして、扉がノックされた。

天の助けと急いで扉を開けると、彼はすぐにリジーアが泣いていることに気が付いて先ほどまで私が座っていた椅子に動転した様子で座った。

「どうしたのリジィ?どこがつらいの?」

彼女のみぞおちあたりに手を置き、酷く心配そうな声でベルンハルトは言った。

そうするとリジーアは何度か深呼吸して、手の甲で乱暴に涙をぬぐった。

「大丈夫だよ」

そしてさっきまであんなに取り乱していたのに、なんでもないとほほ笑む。

それはまるで、子供に余計な心配をかけまいとする母親のように私には見えた。





「リジーアさんは?」

「眠ったよ」

二人きりにしたほうがいいだろうと、部屋の外でぼんやりと待つことしばらく。

静かになった部屋から出てきたベルンハルトは、なんだかいつもより小さく見えた。

「リジィが起きる前に買い出しに行こうと思うんだが、あなたも来るか?」

彼は何か思うところがあるのか、少し居心地が悪そうにそう尋ねた。

もちろん断る道理もなく、私自身少し街を見てみたいという気持ちもなかったので、急いで外套をはおり、つばの広い帽子の中にまとめた髪を押し込み、身なりを整える。

ぱっと見は大きな商家の娘といったふうだろうか。私はもっと町娘みたいな服の方が紛れていいのではないかと言ったのだが、それでは逆に目立つのだそうだ。


ベルンハルトの後をついて歩く夕暮れの街はあまり活気がなく、どことなく閉鎖的な雰囲気が漂っていた。

宿から出てすぐの目抜き通りは、ちゃんと石畳も敷かれ馬車がすれ違えるほどの広さがある。だというのに店先には萎れた野菜や流行遅れな洋服が並べられ、覗き込んだ路地では野良犬が乞食と共に眠りこけている。全体的に埃っぽく、色あせていた。

本当にここが中心街なのかと尋ねたいほどに、王都とは何もかもが劣っていた。子爵領の中心街などは、みなこんなものなのだろうか。

それを聞くのは、世間知らずを公言するような気がしてあまり気が進まない。

右手にそびえる尖塔越しに夕日に目を細めて、ベルンハルトはひっそりと口を開いた。

「見苦しいところを見せてしまったと気にしていた」

「そんなことは…」

言わずもがな、リジーアがであろう。

あの後、彼女は彼に涙の理由を話せたのだろうか。

ベルンハルトは無表情に夕日を眺めたままだ。しかしやはりどことなく元気がないように見える。

「あなたに……隠し事があると泣いていました」

鋭い灰色の目が私に向けられる。そこに感情を見出すことはできない。これまでもこれからも。そんなところに、誰にも何にも支配されないところに憧れていた。

「わたくしには詳しい事情はわかりませんわ。でも、お二人でちゃんと話し合った方がいいかと…」

ベルンハルトは私のお節介に何も言わず、ただ小さなため息をついただけだった。それは余計なお世話だという意味にも、自分を不甲斐なく思ったために出たものにも思えた。


彼がリジーアのことを口にしたり見つめる時、私には小さな嫉妬の炎が付きまとう。

けれど今は、それが単にリジーアへ向けられていたものではなかったのではないか。そんなふうに思えるのだ。

リジーアは私の知らない彼の側面をいくつも引き出して、見せてくれた。その度にこの人も人間だったんだと当たり前だけれど、私にとっては新鮮な驚きがあって、そして同時に寂しさもあって、けれどそれ以上にほっと安堵する自分もいる。

こんなふうにたくさんの感情が忙しなく湧いてくるのは、たぶん。

「わたくしは少しだけ、あなたと自分を重ねていたのかもしれませんわ」

ベルンハルトは苦笑して、知っていたよと小さく呟いた。

そう、知ってらしたのね。

胸の奥底でぐるぐると溜まっていた澱のようなものが、すうっと溶けていくのを感じた。


「ベルンハルト様はリジーアさんのどこが好きでらっしゃるの?」

思ったよりもすんなりと言葉は出た。

ベルンハルトは寝たふりをして聞き耳を立てていたことを思い出したのか、渋面をつくる。

彼は少し答えを探すように何もない空を見つめ、言葉を探していたようだったが、唐突にふっと笑った。まるで堪えきれずに思わずこぼしてしまった類の笑いだ。

「リジィはびっくりしたり、凄く呆れたりした時の顔が、ナマズに似ててかわいいんだ」

なんてことだ。予想の斜め上すぎる。

「そ、そうですの…」

私にはナマズは可愛くないし、似てもいないと思いますなんてことを言う勇気はなかった。

さすがベルンハルト様、視点が人と違う。


ふと、もう一人の私が羨ましい、と呟いた。

リジーアが、ではなく、ベルンハルトが、と。


彼なら自分の孤独をわかってくれる気がしていた。私たちは似ているのだと。

けれど全然違った。

彼にはリジーアがいて、私が考えるよりずっと人間臭くて、情けないところだってあって、全てを投げうってでも守りたい存在がいて、それがとても、とても羨ましいと私は思うのだ。

それを自覚した瞬間に胸のわだかまりは消え、目の前が少し明るくなった。

私はようやく自分の気持ちを整理する糸口を見つけたのだ。

なんだかスキップでもしたい気持ちだ。


急に上機嫌になったせいでベルンハルトに不思議がられながらも、晴々とした気持ちで予定通り乾燥させた果物を買い、薬屋に向かっている時だった。

後方から馬の蹄と車輪の回る重い音が聞こえ、帽子のつば越しにうかがい見てみる。

二頭立ての豪奢な馬車が通りの真ん中を走ってきていた。馬車は人通りの多い目抜き通りだということなど関係ないとばかりに、凄まじい勢いで走っている。

見るからに感じの悪い馬車だった。馬の飾り一つを取っても、無駄にキラキラしていて趣味が悪い。

端に寄りながら前方に視線を戻すと、横道から杖をついた老婆が出てきた。

「あっ!」

杖が石畳のくぼみに引っかかり、老婆は道の方へこけた。彼女は目が見えていないのか這いつくばるようにして、杖を探している。

嫌な予感がした。

老婆は馬車が近づいているとわかっているのか、慌てた様子で杖を探しているのだが、パニックになりかけているのか、てんで見当違いな、しかも馬車の軌道上へ手を伸ばしている。

車道を走ってくる馬車はもちろん速度を落とし、止まるかに見えた。

しかし御者は馬車の中の人物と一言二言交わしたのち、なんと馬を止めるどころか、鞭を振るったのだ。

馬が嘶き、馬車は再びもとの速度に戻る。

冗談でしょう!?どうして速度をあげるの?

まだ彼女は立ち上がってすらいないのに!!

通りでこの光景を見ている住民は、老婆を助けるどころか馬車に乗っている人間の目に留まることすら恐れたように物陰にひっそりと身を隠している。

そうこうする間にも馬車は老女にせまり、私はとっさに駆けだした。

「よせ!」

後ろからベルンハルトの制止の声が聞こえたが、それも構わず老婆に駆け寄る。

ズルズルと地面を這う彼女を抱きかかえる腕力は私にはないし、そんな余裕もない。馬車はもう目前に来ているのだ!

馬を威嚇するように両手を広げ、老婆を庇う形で私は馬車の進路に立ちふさがった。

案の定馬は私に驚いて棹立ち、馬車は急停止する。


「貴様、何をしている!早くどかぬか!」

「あなたこそ何を考えているの!それとも、この人が見えなかったとでも?だとしたらあなた、目をお医者様に見てもらうべきね」

「この馬車がどなたを乗せているか、わかっているのか!」

「どうせ貴族でしょう?全く信じられないわ。貴族の務めは陛下から預かった領土と領民の生活を守ることでしょう。その領民の、しかもこのようにか弱い女性の命を軽んじて、何が貴族だというの?そんなこと五歳の子供だって知っているわ。恥を知りなさい!」

静まり返った通りに自分の声が響いて、頭に上っていた血が少しずつ下がっていく。

下がるついでに、大事なことを私は思い出した。

今の私はハウスクネヒト家の人間ではなく、何の力も持たない商家の娘の振りをしているということを。

さぁっと血の気が引いていく。

まずい…。いや、まずいどころではない。


「この、無礼な…!」

「待て」

いきり立つ御者をなだめる声があり、カーテンが開かれた。よく通る、良い声だ。

薄暗い馬車の中にいる人物と視線が交わる。彼は興味深そうに私の全身をつま先から頭のてっぺんまで眺め、興味深そうに目を見開いた。

「開けろ」

御者にドアを開けさせゆっくりと降り立った男は、薄くなった髪を綺麗に撫でつけ、恰幅もいいが、どこか神経質そうな雰囲気を漂わせていた。

「これはこれは…」

蛇のように笑う。

直感でこの男は、自分を知っているのだとわかった。

ゾッと背筋に冷たいものが走って、助けを求めて振り返る。

私はもしかしなくとも、とんでもないことをしてしまったのではないか。


私は何度も人垣の中にベルンハルトの姿を探した。

しかし私が彼の姿を見つけることは、ついぞできなかった。


次回から久々のリジーア視点に戻ります。

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