ボルマン子爵領1
襲撃を受けつつもベルンハルトとリジーアのおかげで無事に逃げおおせ、リートベルフ領から西へ向かって隣のローマン領を一晩かけて通過。そこから少し北上して、馬車はグライスナー領へ入った。
ここから西岸のベーレまでは、あと三つの大小それぞれな領を通過しなければならない。順調にいけばあと三日でベーレへ辿り着けるそうだ。
順調にいけばと言われると、逆に不安になるのはなぜなのだろう。やはり慣れないことが続いていて、少し神経質になっているのかもしれない。
しばらく走ると馬屋についた。
ちょうど切りもいいので宣言通りリジーアが運転を交代すると荷台から出て行った。
よくよく考えて見ると、元公爵だったベルンハルトは現在何の身分も持っておらず、私は伯爵家で、この三人の中で今一番身分が高いのはリジーアだ。
一番身分が高いはずなのに、ごくごく自然に彼女は操縦者席に座っている。
おかしい。どう考えてもおかしい。だいたい馬車の操縦ができる侯爵令嬢だなんて聞いたこともない。何というかもうめちゃくちゃだ。
そんなことを相も変わらず荷台に隠れて考えていると、ゴソゴソと入り口が揺れて代わりにベルンハルトが入ってきた。
変な声を上げそうになったが、なんとか飲み込む。
だって仕方ないじゃない。ベルンハルトと二人っきりなんて、学園にいた時でもなかったのだ。しかも、こんな狭い空間で!
少しつま先を伸ばせば、触れられそうな距離に彼がいる。
そう思うと指先の隅々まで感覚が冴えわたって、なんだか息苦しい気までしてくる。
ありがたいことに幌の中は薄暗いので、私が赤くなっていることが彼にばれることはないだろう。私が恥ずかしがっていることを彼に知られるのは、酷く気まずいことのように思われた。
そうなるとさっきまで人目と冷たい風を防いでくれていた幌が、もうこれ以上なく素晴らしい物に思えてくる。最初は小汚くてちょっと嫌だと思っていたことも忘れて、私は荷台を覆うこの褐色の布に感謝した。
そんな私の心のうちなど知らずか、いや、わざと知らない振りをしてか、彼はこちらに背を向け、さっきまでリジーアがいた毛布の寝床に早々と潜り込んでしまった。
まるで無いもののように扱われ、またもや場違いに浮かれていた自分に気づき、急激に恥ずかしさがこみ上げてきた。その一方で、頭に登りかけていた血はすぅっと下がっていく。
何を考えているのかしら。何も起こるわけがないのに。彼は私なんかに興味はちっともないのだから。
そう自嘲すると、だいぶん平時の気持ちが帰ってきて、謎の緊張にガチガチに固まっていた関節の呪いも解かれたようだった。
そしてどうも解けたのは関節だけではないらしかった。
「あの…」
ベルンハルトは鼻先まで毛布に顔を突っ込んだまま、一度つむった目を薄く開きこちらを見た。
しまった。話しかけたはいいものの、何を話すかは考えていなかった。
どうしてこうも私は考えが足らないのだろうか。ほとほと嫌気がさす。
必死に頭を巡らして、話題を探す。
そうよ。お礼。
まだ、ちゃんとしたお礼を言っていなかった。
「助けていただいて、ありがとうございます」
「気にしなくていい」
会長と部員だった時の口調にすっかり戻ったベルンハルトは、やはり素っ気ない。
素っ気ないことはないのだが、そこに悪感情はなく、ただただ興味がないと言ったふうで、むしろ私は安心した。私のよく知るベルンハルトとは、そういう人だった。
「でも、あなた達には何のメリットもないわ。リジーアさんは親切の理由は善行だと言ったけれど、あなたは…」
思わず言葉に詰まった私に、彼は片方の眉を吊り上げた。言いたいことがあれば言えという顔だ。正直言って、少し怖い。怖いけれど、やっぱり素敵だわなんて考える少女な自分がいる。また鎮まっていた気持ちがざわめきだしていた。
「私の知る限りであなたは、とても理由なく人に親切にするような人ではなかった」
彼の機嫌を損ねてしまいやしないだろうか。
そっとうかがってみるも、彼の表情から相変わらず何も読み取れそうにない。
「間違ってはいない。だから、そうビクビクしなくていい」
まるで思ったことすべてが見透かされているようだ。
そういえば美術鑑賞クラブこと裏生徒会に誘われたときもそうだった。
まるで私の気持ちがわかっているかのように、彼は全て言い当てて私を驚かせて見せたのだ。
思えばあの時から私は彼に特別な思いを抱き始めていたのかもしれない。
「だったら、なぜ」
出来る限り感情が表に出てしまわないように出した声は、いささか押し殺したような調子になってしまった。
そんなに彼女のことが大切なの?
気を抜くとそんな言葉が飛び出しそうだったからだ。
違う。こんなことが言いたいわけじゃない。
相手にすらされてないくせに、嫉妬だけは一人前だなんて、そんなの無様だし、最低だ。
よしんばそうだとしても、私が無事にここまでこれたのはそのリジーアの情けのおかげなのだ。
それに私はもう、リジーアを嫌ってはいない。むしろ、好感を持っている。彼女は嫉妬のために私が願ったような、我がままでも、見栄っ張りでも、卑劣な人間でもなかった。
自分の中の嫌な部分が抑えても抑えても勝手に出てきて、悪さをしようとする。一体私は、どうしてしまったのか。
「あなたにはまだ自分自身でもしらない価値があるかもしれない。そう考えたことは?」
唐突に投げかけられた質問に、一瞬思考が止まる。
私も知らない私自身の価値…?
「いいえ」
「そう」
尋ねた割には興味がなさそうにつぶやき、彼は目を閉じてしまった。
「あ、あの」
「少し眠る。よかったらリジィの話し相手でもしてやってくれないか。あなたも暇だろうし」
そう言い残して、今度こそ彼は眠ることにしたようだった。
どういうことだったのだろう。
私の価値は、隣国の公爵家から嫁いできた母と、伯爵家本家の当主であった父との間の唯一の娘だということ。それ以外に何かあるとでも…。
どういう意味なのだと聞きたくても、すでに相手は寝ると宣言してしまっている。二度も疲れているであろう相手の睡眠を妨害できるほど、私の神経は図太くなかった。
暇になってしまって、ぼんやりと彼の黒くて丸い後頭部を見ているうちに、私は知らず知らずのうちに恋に落ちた時のことを思い出していた。
ようやく屋敷の狭い世界から出られたが、長年同年代とまともに話した経験がなかったせいで学園生活に全く馴染めないまま、気が付けば私は最高学年になっていた。
もちろん、ずっと一人孤独に過ごしてきたわけではない。伯爵家に組する貴族の子たち。そう、傍から見れば取り巻きと呼ばれる類のものだ。正直言って彼女たちはあまり好きではない。
せっかく屋敷から出られたというのに、私はハウスクネヒト伯爵家の直系の娘であることを求められ続けている。それに取り巻きがいると、伯爵家と関係のない生徒にまで遠巻きにされてしまう。
あの牢獄のような屋敷とは違って、学園にはこんなにも人が溢れかえっているのに、私は今まで以上に孤独だった。
だからだろうか。
自分自身の力を試してみたくはないか?
そう勧誘してきたベルンハルトの言葉と新しい世界に、淡い期待を抱いた。
裏生徒会のメンバーは対等に私に接してくれたと思う。
友人と呼べるほど、彼らと親密だったかと聞かれれば微妙だ。けれど必要以上の干渉を持たず、時には先輩なんてくすぐったい呼び方をされて、頼り頼られ、一緒に一つの仕事をやり遂げる。あの空間が大好きだった。
身分や血以外にも私には価値があると胸を張れる気がした。
だから私は、私を裏生徒会に引き入れてくれたベルンハルトに感謝した。
自分よりも年下なのに飛びぬけた才覚を持つ彼に純粋に憧れたし、尊敬していた。そして気が付けば、それは恋になっていた。
裏生徒会はいい意味でも悪い意味でも私を変えてしまったのだろう。
それまでの私はきっと自分の頭で何かを考えることを放棄していた。それを誰も私に求めなかったし、むしろ嫌がる素振りさえあった。
けれど一度考えるということを知ってしまえば、私が今まで正しいと思ってきたいい子は、誰かの良いようにされるだけの人形なのだということに気が付かないわけがなかったのだ。
だから逃げた。
逃げて、彼に会わなければと思った。
私を見つけてくれた彼を、今度は私が見つけに行こうと思った。
もし。
ただの少女の私が、遠いところで誰にともなく問いかける。
もし私に身分や血以外の、私という人間しか持たない他の価値があったなら、彼は私を好きになってくれただろうか?
馬の甲高い嘶きにハッと我に返った。
すると、急に息を吹き返したように周囲の音が戻ってくる。
ベルンハルトは規則正しい寝息を立てていて、抱えていた膝を崩すとキシキシと車軸の軋む小さな音がした。
リジーアが馬屋番とこの先にある分岐点について話す声がする。
「そこを間違えて右に行くとどうなっちゃうんですか?」
「崖だね。断崖」
「ええ~!」
心配だ。
あまりの暇さとお尻の痛みにうんざりして、リジーアに前に行ってもいいかと申し出ると、彼女は二つ返事で了承してくれた。崖が心配だったというのも、少しある。
私の金髪は目立つそうなので、不本意ながら頬かむりをするのが前へ行く条件であった。
動いている馬車の操縦者席に苦労しながら移動すると、直接吹き付ける風の冷たい洗礼を受け、首を亀のように竦めた。日差しは暖かいが、風が強く、リジーアの鼻の頭もすっかり赤くなってしまっている。ますます幌のありがたさが身に染みるようであった。
リジーアは私と同じように頬かむりをして、聞きなれない歌を口ずさみながら馬を操っている。その向こうには薄青い空に薄い雲が刷いたように細長く続いていて、見渡す限りだだっ広い田園地帯が広がっていた。ちらほらと畑の手入れをする人影が、玩具の人形みたいに小さく見えた。黒々とした縞模様の大地に、緑のツタが逞しく広がっている。あれは何を育てているのだろうか。
さらに遠くに連なる山々までを視界に収めて、物珍しさと壮大さに思わずほうと息をついた。
ふと子供のころよく、どこか遠いところへ旅に行く空想をしていたのを思い出した。空想してはそんなこと出来るわけないと諦めていたものだが…。
感慨深さに浸ってみたりする。
ひとしきり私が景色を堪能するのを待って、リジーアが口を開いた。
「エルメンヒルデさんはベルンのどこが好きになったの?」
どこかわくわくした様子で尋ねられ、どう答えるべきかとっさに迷う。つまり聞こえのいい適当なことを言うか、本音を言うか、どちらが彼女の機嫌を損ねないか。
一瞬様々な考えがよぎったが、所詮私と彼女の付き合いは片手で足りるほどなのだ。それに彼女は変に鋭いから、心にもないことを言っても見抜かれてしまいそうな気がする。
悩んだあげく一番シンプルで根本的な答えを口にする。
「わたくしを何とも思っていないところ」
「うわぁ。ドエムだ…」
「どういう意味かしら?」
意味はわからない。だがわからないなりに、良い意味ではないことだけはわかる。
リジーアはあはははと曖昧に笑ってごまかした。彼女は時々耳慣れない言葉を使うが、方言か何かなのか。リートベルフ領はそう王都から離れた辺境の地というわけでもないが。
「それから?」
続きを促され、慎重に答える。下手なことを言って、彼女と険悪になるのは避けたかったのだ。
「それと、普段はぼんやりしているのに、会長としてはその…」
「怖いところ?」
「ええ…ではなくて、頼もしいところよ!」
思わず肯定しそうになって、嚙みつくように言い返す。
「かっこいいよね」
遠慮して言葉を濁した私の努力も知らないで、リジーアは嬉しそうに頷いた。
気を使うだけ無駄だったらしい。本当に何を考えているかわからない人だ。
心の中で白旗を上げ、降参の意を示す。いや別に戦ってなどいないのだから、白旗を上げるだけ損ではないか。
「ええ、そうね。素敵だわ」
開き直って認めると、リジーアは自分が褒められたみたいに誇らしそうな顔をする。どうしてあなたが喜ぶのよ。そう茶化しかけたのだが、彼女の細めた目に一瞬物憂げな影がよぎったような気がして、私は慌てて口をつぐんだ。
そういえば日の下で見るとあまり顔色が良くない。交代の時もベルンハルトに心配されていたようだし。
心配の言葉をかけたほうがよかったかもしれないが、彼女が素直に認めるとは思えず、私はそわそわと落ち着きなく馬の背中を見つめた。結局私にできたのは、彼女にとって明るいはずの話題を出すくらいだった。
「結婚式は、来年?」
出来るだけ明るい声を出そうとしたが、どうにも上手くいかず、少し嫌味っぽい言い方になってしまう。実際私にとっては傷口に塩を塗るような内容なので、少々嫌味ったらしい言い方になっても仕方のないことなのかもしれない。それにその方が私らしい気がした。
だというのに、リジーアは左上の空を見上げたのち一言。
「さぁ?」
さぁって、そんな他人事な。
「呑気なものね」
「そうかな?でも、ちゃんと結婚しようって言われたことないし」
「そんなものじゃないの?だって婚約者でしょう?」
「そうなのかなぁ」
もう一度そうなのかぁと納得したようなしてないような微妙な返事をして、彼女はぼんやりと遠くを見た。
その横顔があまりに無表情なので少し怖くなって、慌てて話題を振る。さっきも同じようなことをしたような。
こんなに人に気を使うのは、産まれてはじめてかもしれないというほどに、私はこの能天気なのか思慮深いのかわからない人間の一挙一動に集中していた。なんというか、リジーアが暗いとこっちまで暗くなってしまう。
「あなたは?」
「え」
「ベルンハルト様の好きなところ」
「ああ。好きなところね。好きなところ」
ひとしきり悩んだあげく、一言。
「…どこだろ?」
「あ、あなたねぇ!」
「いや、どこと言われると意外と難し…」
ガッタン!
荷台から荷物が崩れるような派手な音がして、慌てて振り返った。
荷台は何事もなかったように静まり返っていて、入り口の布が風にひらひらと揺れている。同じく振り返っていたリジーアと目が合った。
わけがわからず二、三度同じようなタイミングで瞬きをしあっているうちに、彼女は突然弾けたように笑いだした。
荷台から布越しに、誰かが重々しいため息をつくのが聞こえて、たまらず私も笑ってしまったのは仕方のないことだろう。




