港町ベーレへ2
馬車の幌を割り、ぬっと現れた太い毛むくじゃらの腕。
手首の骨が軋む痛みに、自分の腕が掴まれているのだと気が付いた瞬間、私は薄暗い馬車の中から一転、日の光眩い外へ転げ落ちていた。
予想だにしなかった出来事に顔をまともに庇うこともできず、地面と熱烈なキスをかますはめになってしまった。倒れこんだ拍子に口に入った砂が食いしばった歯の間でじゃりじゃりと不快な音を立てている。
砂利や小石が顔や掌に食い込みじくじくと痛んだ。特にあごのあたりがヒリヒリとするから、もしかしたら傷が出来てしまったのかもしれない。
生まれてこのかた地面に突っ伏すなんて初めてのことで、痛みの次に感じたのは酷い屈辱感であった。
「何を…!」
上体を起こして自分をこんな目に合わせた男を睨み付けようとしたが、その必要はなかった。
背後から髪を掴まれ、物でも引っ張り上げるかのような乱暴さで無理矢理立たされたからだ。
ブチブチと髪の毛が抜ける嫌な感覚があり、痛みと湧き上がる恐怖、わけのわからない激情に私の口から悲鳴がほとばしった。
男は随分大柄らしく、肩のあたりまで頭を引っ張り上げられたせいでつま先立ちになってしまう。そのため満足にもがくことすらできない。
「いやぁあああ!離して!!」
「お前、エルメンヒルデだな!」
「わ、わたくしはそんな者じゃ…!」
グッと顔を上に向けさせられ、喉が詰まって一瞬息が止まる。いつの間にかあふれた涙がぼろぼろと頬を伝っていた。
捕まえに来たはずだから、殺されはしない。そうわかっているのに、自分を見下ろしてくる目のあまりの冷たさに全身の血の気が引いていくのを感じた。指先が冷えて、背筋をひんやりとした手でなぞられているような悪寒と恐怖がせり上がり、気がつけば私は癇癪を起こした子供のように泣き喚き、せめてもの抵抗で必死に丸太みたいな腕を引っ搔く。
とにかくこの場から、この男から逃れたくて逃れたくて仕方なかったのだ。
と、突然頬にぬるっとした何か生暖かい感触。それは続けてぽたぽたと上から落ちてくる。
「あ…あ…」
血だ。
よく見ると男の額がぱっくりと割れており、そこから溢れた血が滴り落ちているのだ。
手足ががくがくと震え、髪を掴んだ手がなければ今にも倒れてしまいそうだった。無理に上を向かされて開きっぱなしの口は、舌が抜かれたみたいにまともな言葉すら発せない。
その間にもまた、ポタリと粘度の高い雫が滴ってきて、鼻にあたって頬へ滑り落ちていく。鉄臭さの中にどことなく生臭さが混じった血の匂いに、吐き気がこみ上げ、私は激しい後悔に襲われた。
何の根拠も確証もなく、自分だけは大丈夫、今までのように上手くやれると、そう思い込んでいた。
ようやく自分の恐ろしいまでの無鉄砲さと、無知を身をもって思い知らされた。
大人しくなった私に、男は再びお前がエルメンヒルデだなと聞いてきた。
頷いてたまるものか。
私はハウスクネヒト伯爵家の直系の娘なのだ。このような辱め、到底許してはならない。
そう思うのに、素直にそうだと言えば、彼は自分を離してくれるだろうか。
そんな甘い囁きに心がぐらつく。
一刻も早くこの不快な状況から解放されたい。他人の血など生まれてこの方見たことだってなければ、浴びるなどあるはずもない。
ベルンハルトと共に亡命しようだなんて幼稚な夢だった。どうして、屋敷を飛び出す前に気づけなかったのか。私は、わたくしは…。
血の気が遠のいて、なんだかフラフラする。
首が痛い。引っ張られ続ける頭皮だって。
もうなんでもいいから、解放されたかった。とにかく。早く。
わななく唇が肯定の言葉を形作ろうとした時だった。
「ファイト~!」
間の抜けた掛け声。
反射的に声のする方、男の背後へ目をやると、なにか棒らしき物を振りかぶったリジーアが見えた。
勇ましく仁王立ちし、上体を捻らせた彼女が握りしめる棒の先には何か三角形の平たいプレートのような物がついている。
あれは、何だ。何なんだ。
あれは………シャベル?
「いっぱーつ!!」
シャベルの土をすくう部分が男の側頭部を正確に捉えた。
頭蓋骨と金属のぶつかる衝撃が、捕まれている腕を通して私にまで伝わってくるようだ。
切り立った眉の下の目がこれでもかと見開かれ、口からは意外なことに空気の抜けるような咳のようなものが唾とともに吐き出される。
ぐわんとその体が傾ぐ。
髪の毛が引っ張られる感覚がフッと消えて、気が付けば私は男の手から解放されていた。
しかし恐怖に萎えた脚では上手くたつことが出来ずに、へなへなと地べたに座り込んでしまう。
男はよほど頑丈なつくりの体らしく、たたらを踏みながらもなんとか踏ん張った。
とはいえやはり、まともにくらったためか前後不覚といった様子で目を瞬かせている。
そういえばこの男は額に血が出るような真新しい怪我をしている。すでに頭部に一撃くらっているはずなのだ。
なんて頑丈なのだろう。岩でできているのか。私の無知もここまで極まるのか。
それでもよたよたと自分を殴った相手に向きなおろうと、必死で足を動かしている。
その姿に馬鹿な考えから目が覚めて、再び暴力や死に対する恐怖がこみ上げてきて、私は思わず悲鳴を上げかけた。
「もういっちょー!」
と威勢よく叫んで、その言葉通りまたもや全力で振りかぶったシャベルでリジーアは男の頭を吹っ飛ばした。ご丁寧に今度はさっきと反対側だ。往復ビンタならぬ、往復シャベルだ。意味が分からない。
それはもう素晴らしいスイングだった。
もしも相手が大きなくるみ割り人形だったりしたら、頭の部分がすっぽ抜けて綺麗な放射線を描いて飛んで行ったかもしれない。もちろん相手は生身の人間なので、頭だけが吹っ飛んでいくなんていうグロテスクなことは起こらない。起こってたまるか。
おそらく、十中八九、助けてもらった身ではある。であるが、容赦のなさに鬼かと思った。
あんなに人から頼まれたら断れなさそうな、気の弱い見た目をしていて、なかなかどうして…。
いやだって、血を流してよろよろしている生身の人間にここまで躊躇なくシャベルを振るえるのか?振るってしまっていいのか?というかその気の抜ける掛け声は何だ。何なんだ!?
上げかけた悲鳴も、喉の奥へ怯えて帰って行ってしまった。
理解が追い付かない。
恐ろしい。恐ろしすぎる。
二度目の打撃にはさしもの男も耐え切れず、彼はついに昏倒した。
すると見えない拘束を外されたように、がちがちに固まっていた関節から力が抜けて、ドッドッと心臓の脈打つ音が急に聞こえ始めた。空気が堰を切ったみたいになだれ込んできて、少しせき込む。
リジーアと言えば、シャベルを傍らに置いたままうつぶせに倒れた巨体を縛ろうと悪戦苦闘していた。な、なんて逞しいの…。
恐ろしい。恐ろしすぎる。
そういえば、ベルンハルトは?
目の前の光景から現実逃避するように、最初の目的を思い出した私は何の気なしに振り返った。
振り返って後悔した。
芋虫が三匹転がっていた。成人男性くらいの大きさはある。というか、まんま成人男性だった。
揃いもそろって体格のいい成人男性が完膚なきまでに叩きのめされ、ある者は痛みに呻きながら、ある者はピクリともせずに横たわっている。
おそらく彼らを叩きのめした張本人であろうベルンハルトが、ちょうどまだ反抗の意志を見せようとする一人の側頭部を容赦なく蹴り飛ばした。
「ひぃ…」
シャベルで殴った時よりも明らかに凶暴な音がした気がする。
二人とも敵の側頭部に打撃を加えているが、何かそういう決まりでもあるのか。私は武術の授業など取っていなかったので知る由もないが、相手の意識は必ず落とせとでも学園で押しているとでも…。
そんなまさか。
恐ろしい。恐ろしすぎる。
「大丈夫?エルメンヒルデさん」
背中に温かさを感じて振り返ると、リジーアが気づかわしげな表情で背中を撫でてくれていた。
分厚い冬服の上からじんわりと彼女の体温が染み入ってきて、すうっと手足の遠のいていた感覚が帰ってきて、予想外すぎる事態の連続で張りつめていた私の神経の糸はとうとう千切れた。
つまり、もっと端的に、陳腐な言い方をするならば、恥ずかしいことに私は気絶してしまったのだ。
ガッタン。
石をかんで、車輪がひと際大きく跳ねた。
ほんの少し浮き上がった背中が落ちた衝撃に散り散りになっていた意識が急速にかき集められ、私は目を覚ました。
「あ、起きた」
ぼんやりと靄がかかったような視界の中、茶色のカーテンが揺れている。
だというのに背中からは断続的な振動が伝わってきており、ここが室内ではないと告げていた。
毛布はしっかり被せられていたが、寒さを感じて身震いする。
何度か瞬きするうちに視界も明瞭になり、ようやく私は顔を覗き込んでくるリジーアの髪をカーテンだと勘違いしていたことに気づいた。
「大丈夫?どこか痛いところは?」
「…ないわ」
長く眠っていた時のように、乾燥した喉から出た声は酷くかすれていた。喉がイガイガする。
「気分のほうは」
気分は決して良くはなかったが、悪いというほどでもない。ゆるゆると首を横に振ると、リジーアはほっと胸をなでおろした。
ここはどこだろうか。
確か追手に囲まれて、引きずり出されて、リジーアに助けてもらって、ベルンハルトが頭を蹴り飛ばしていて、そう、それで気絶したのだ。
喉の違和感に空咳を何度かすると、水筒を渡された。ありがたく受け取るもコップがない。
まだ頭はうまく働いておらず、どうしたものかと私はただただ水筒を見つめていた。馬車の揺れを追って、水筒の中身がちゃぷちゃぷと涼し気な音を立てている。
「どうしたの?」
「コップが…」
「ああ。ごめんなさい。コップはないの」
つまり直接口をつけて飲むしかないと?そんなの。
「下品だわ」
「本当にエルメンヒルデさんってお嬢様だね」
一瞬嫌味を言われたのかと思ったが、リジーアの顔には純粋な驚きが見えた。
「あなただってお嬢様でしょう」
「私?私は直接口をつけて水を飲めるお嬢様だから」
まったく説明になっていない。ただの自己申告ではないか。
リートベルフ侯爵の屋敷を出発したときは自分と同じくそわそわと落ち着かない様子だったので、てっきり彼女も長旅は初めてなのかと思っていたが、実は旅慣れしていたりするのかもしれない。
私は大切なお茶会や夜会以外では、屋敷から一歩も出してもらえなかったし、いつも誰かに見張られていた。それが普通だと思っていた。学園に入学するまでの話だ。
「とにかくコップはないから、我慢してください」
ないものは仕方ない。それによく考えてみれば、自分はいま亡命の途中なのだ。贅沢は言えまい。何より、喉が渇いているのは紛れのない事実であった。
水で喉を潤して、大分頭がはっきりしてきた私に彼女はあの後どうなったのか少しづつ教えてくれた。
追手のうちの一人、最初に話しかけてきた男はハウスクネヒト伯爵家の執事見習いだと名乗ったらしい。私には見覚えがなかったので、本当に執事見習いだとしても分家の執事見習いのはずだと言うとああ、やっぱりという返事が返ってきた。
他に聞き出した情報としては、襲ってきた残りの三人は雇われたいわゆる荒くれ者たちで、追手の数は全部で十二人。そのうちの三人はすでに先回りしてベーレへ向かっている。
私の目的地である隣国、ヘスティリア王国は南の豊かな土地に栄える大国である。大国というだけあってそれはもう広い。ここコルネリア王国からヘステリアの中心部に行くまで、陸路を行くならばどんなに急いでも半年はかかる。
一方海路はベーレからヘスティリアへの定期便や、商船、旅船と船の種類も様々で、一度乗ってしまえば何ということはない。と聞いたことがある。
もちろん乗ったことなどない。私の血の半分はあちららしいのだが。
ベーレで待ち伏せしているということは、おそらく相手は貴族のお嬢様に厳しい山越えなどできるはずがないと高をくくっているに違いない。否定できないので、なおのこと悔しい。
それに私がヘスティリアの港町に向かう船に乗ってしまえれば、相手はそれ以上追ってくることはできない。やはりとるとしたら海路になるだろう。
「ベーレまでは必要以上に警戒することはないし、ベルンには何か考えがあるみたい」
「どうして?さっき襲ってきたのが四人で、ベーレに向かったのが三人なら、まだあと四人いるはずでしょう?だいたいさっきの男たちはどうなったの?」
矢継ぎ早に質問を繰り出す私を宥めて、リジーアはこう続けた。
残りの四人は、私の振りをした侍女の追跡に向かったはずなので、この馬車に追いつくのは無理だということ。そして一人は念のためにリートベルフ屋敷を見張っていること。
「どうして追いつくのは無理だなんて言い切れるのよ」
「エルメンヒルデさんって、せっかちって言われません?」
「…ないわよ」
嘘ではない。
私の身の回り、あの広いようで狭い屋敷の中で、私に文句を感じても面と向かって発言する人間がいなかったのだ。ただちょっとうっとおしそうな顔をされたことはあるので、なんとなくそんな気はしていた。気はしていたので、リジーアに言われて少しショックだった。
「あの人たちには、何て言うかなぁ、こう、適切な態度と報酬によって協力してもらうことにしたといいますか…」
適切な態度と報酬とはいったい何なのだ。
もしかしなくとも、私を世間知らずと侮って、曖昧な言葉でごまかそうとでも。
そう思うとなんだか不快な気持ちになって、眉間にしわを寄せて詰め寄った。
「もっとわかりやすく言ってちょうだい」
リジーアはどうにも居心地が悪そうに、キョロキョロと意味もなく視線を漂わせる。
やはり、ごまかして…。
「まぁ、なんというか、その…買収?」
「なんですって」
「お金と肉体言語の力で、他の追手の人たちには嘘の進路を教えるよう約束を…」
「じゃあ、あの男たちは、何の咎めも受けないってこと?」
「そうなりますけど…」
私の言うことが理解できないといったふうに、リジーアは小首をかしげた。
「そんなのおかしいわ!悪いことをした人間は裁かれてしかるべきよ!」
それがたとえそれが誰であろうと。私の父のようなろくでもない男など、特に。
そうでなくては、おかしいではないか。
私の中で怒りが沸々と湧き上がってくる。いや、その怒りはもしかしたら惨めに怯えた自分を思い出してのことだったのかもしれないし、私を車外に引き出し乱暴を働いたあの男へ怒りを向け損ねたからなのかもしれなかった。
リジーアは間抜けにも口を半開きにして、目を何度もパチパチと瞬いた。
「な、なんですのその顔は」
「ひ、久々に常識的なことを言う人に会ったなぁって」
「はぁ?」
「いや~!そうだよね!悪いことをしたら裁かれるんだよね!真実はいつも一つってね、じっちゃんも言ってたし!あっははは」
可哀想に。寝ていないせいでリジーアは頭がおかしくなってしまったようだ。
言っている意味はわからないが、真実はいつも一つと言ったのはじっちゃんではない気がする。何故だろう。
未だに目を泳がせながら、ははははと笑い続けるさまは正しく情緒不安定。
私はそれをきっと寝不足のせいなのだと思うことにした。
そうでないなら、私が眠っているうちに何か良くないものでも見たのだろう。
可哀想に…。
とはいえ用心に越したことはない。
あれからベルンハルトは夜通しで馬車を走らせているそうだ。
「お一人でずっと運転するなんて。辛くはないのかしら…」
「大丈夫ですよ。もう少ししたら私と交代しますから」
「それは……大丈夫なの?」
「何が」
言外に運転技術が心配だとにじませると、失礼な!と髪の毛を引っ張られた。
どうして髪を引っ張るのよ!
リジーアとのくだらない争いはすぐに終結し、ふと冷たい風の入ってくる幌の入り口に目をやると、遠くの山の稜線が金色に光っていた。
朝日だ。
どうやら随分と長いこと気を失っていたらしい。最近ずっと神経を張っていたせいだろう。
「あなたは寝なくていいの?」
「うーん…ちょっと寝たけど、なんだか夢見が悪くって。え、もしかして心配してくれてるの!?エルメンヒルデさんが、私を!?」
リジーアは大げさに驚く身振りをして、意地悪そうに笑った。
それはどこか無理をしているようにも見えて、私はますます立つ瀬がなくなってしまう。
彼女はたぶん、優しい人なのだろう。
けれど過ぎる優しさは、私には少し辛い。どう応えればいいのか、わからないからだ。
旅をするうちに、わかるようになれるだろうか。
彼女の優しさに素直にありがとうと言えるように、なれるだろうか。
それにベルンハルトとも、ちゃんと話をしたい。
冷たい態度を返されるのは分かっているし、学園にいた頃にすでに経験済みだから、今さらどうってことはない。悲しいものは悲しいが。
ただ、一世一代の家出を決意させてくれた彼への恋心に、終止符を打ちたい。
どうすれば終わらせられるかも、まだわかっていないけれど。
「わぁ、凄い」
そっと入り口を割って、リジーアは嘆声をもらした。
登り始めた太陽の強烈な光に、夜は空の高いところへ追いやられようとしていた。山々の稜線ではまるで火が燃え盛っているかのようだ。
「凄い…」
本当にそれしか言えなかった。
思えば、こんな早い時間に起きて日の出を見るなんて初めてのことかもしれない。
馬鹿の一つ覚えみたいにリジーアと凄い凄いと繰り返しているうちに、少しだけ気分が軽くなる。
きっと、そう悪いことばかりじゃない。
そんな気になれた。
ふと東の空に、黒い鳥のシルエットが現れた。
それは、こちらへ向かって真っすぐ飛んでくるように見えた。
いままでぼかしてきた国の名前をついに観念して付けました。




