港町ベーレへ1
それは突然やってきた。
後方から迫りくる乱れた蹄の音。
突然速度を上げ、大きく揺れ始めた馬車。
幌付きの荷馬車に乗っていた私はとっさに幌の入り口から外の様子を見ようとしたが、酷い揺れのせいで崩した姿勢を持ち直すことすらままならない。
「一体何が…!きゃっ!」
唯一の同乗者、リジーアに説明を求めようとして、激しい揺れに舌を噛みそうになる。
傍らでは着替え等が入ったトランクがまるで自ら跳ねているかのように、ガタガタと荷台の床の上で暴れていた。
正体不明の蹄の音はさっきよりも大きく聞こえる。近づいてきているのだ。
「エルメンヒルデさん、大丈夫!?」
「え、ええ…!」
自分自身も滑らないように床を必死に掴みながらもこちらの心配をするリジーアに、大丈夫だと言いたいが上手くしゃべれず簡単な返事しかできない。
間違いなく私たちの乗っている馬車は、現在何者かに追われているらしい。
追手?いや、盗賊という可能性もある。どちらにしろ嬉しくない存在には違いあるまい。
とはいえ車上の身では出来ることもなく、ひたすらに体を強張らせ床にしがみついていると、なぜか激しかった揺れが少しづつ穏やかになり始めた。
しかし、襲撃者たちの気配は一向に消え去ってはいない。だと言うのに馬車は完全に止まってしまった。
どういうことだろうか。逃げなくていいのか。
耳の奥で心臓の音が早鐘のように鳴り響いて、荷台の床についた手が勝手に震えていた。それが恥ずかしくて、両手をお腹のあたりで強く握りこむ。
リジーアは乱れた自らの髪もそのままに、怪我はないかと尋ねてきた。声を出すと震えているのがばれてしまいそうで、頷くだけにとどまる。
そんな私の虚勢に気づくはずも余力もないのだろう、彼女は慌てた様子で荷台の前方の布をそっと割り、御者席にいるベルンハルトに話しかけた。
「どうしたの?」
「行く手を塞がれた」
「数は?」
「前方に二人、後方にも二人」
二人の囁き声は囲まれているというのに至って冷静で、私一人だけ気が動転しているのがまるでおかしいことのように感じられてしまうほどだ。
手の震えが落ち着く間もなく、ベルンハルトのではない男の声が聞こえてきた。
「驚かせてすまない。失礼だが、この馬車は何を積んでいるんだ?」
幌を通してなので、くぐもって少し聞こえづらいが耳をそばだてる。おそらく襲撃者のうちの一人なのだろうが、意外にも野卑なところのない丁寧な言葉使いであった。
「こ、侯爵様のお屋敷に食材を届けに行った帰りなので何も…」
さっきまでの冷静な口ぶりとは打って変わって、弱々しい調子でベルンハルトが返事をする。いつもは堂々としている彼も、こういう演技ができるのかとこんな時だと言うのに一瞬あっけにとられてしまう。
声だけなら、御者席にいるのがベルンハルトではなく、そこらにいる気の弱そうな青年と言われても納得していたことだろう。
「実は我々は人を探しているのだが、馬車の荷台に紛れ込んでいないか確認させてもらえないだろうか」
びくりと勝手に肩が跳ね、心臓がひときわ大きく脈打った。耳の後ろでゴーゴーと大雨でも降っているかのような音がする。
間違いない。
彼らは盗賊などではなく、あの男が私を捕まえるために雇った追手だ。
「エルメンヒルデが外に出ないように。すぐに片づける」
「殺しちゃダメだからね」
「…わかってるよ」
ぼそぼそとした短いやり取りだけで彼らは十分意思疎通ができたようだが、私には何が何だか。
どうするつもりなのか問い詰めたくなる気持ちをぐっと抑え、周囲の音からできる限り情報を拾うことに神経を集中させる。
「どうした?何か都合の悪いことでもあるのか」
すぐさま返事のないことを訝しんでか、男の口ぶりにはどこか責めるような響きがあった。
「いえ…」
ゴトゴトとベルンハルトが御者席から降りる振動が、緊張感に包まれた荷台に響く。
しかし片づけると一言で言っても、ベルンハルトはどうするつもりなのだろうか。
…まさかこのまま自分をあっさり引き渡すつもりなのでは。
そんな考えが過り、冷や汗が吹き出す。そうだ、彼らが私を助ける理由などないではないか。それに、私はおそらく彼に嫌われている。片づけるといって、馬車ごと私を…。
恐ろしくなってリジーアの方へ視線を向けると、彼女は荷物の下から何やら長い棒のようなものを音を立てないように慎重に取り出しているところだった。
「ま、まさか、あなた戦うつもりなの…?」
思わず問いかけると、何を言ってるんだというような顔をする。こっちは何をしているんだと聞きたい。
そういえば、やけに静かだ。
もしかして見逃してもらえるように、交渉でもしているのか?それともやはり私を引き渡す取引でも…。
悪い方悪い方へと思考が流れていく。しかしそれを断ち切るように、疑問はすぐに解消された。
野太い悲鳴と怒鳴り声が幌を通してもはっきり聞こえてきたからである。
「腕がぁあ!」
「このガキがぁッ!」
「ぎゃああああ」
何なの!?外で何が起こっているの?まさか、ベルンハルトが…!?
いくら彼が強いからって、一人で四人もの相手をするなんていくらなんでも無茶だ。
状況が全くわからないということは予想以上の不安と恐怖をもたらした。確認して少しでも安心したい。思わず外へ出ようと、後方の入り口、カーテンのように垂れさがった布の切れ目へ手を伸ばす。
「外に出てはダメ!」
リジーアの声が追いかけてくるも、恐怖と好奇心には勝てなかった。制止を無視して伸ばした指先が、あともう少しで布に触れるという瞬間。
「え?」
ぬうっと眩しい裂け目から太い腕が生えていた。
そしてその毛むくじゃらの手は、私の手首を万力のような力で掴む。
「ヒィッ!」
手首が折れそうなほどの力で掴まれ、そのまま馬車の外へ引っ張り出される。
薄暗い馬車の中から急に外へ出たせいで、太陽の眩しさに目がくらみ、何がなんだかわからないまま、体勢も何もあったものではない私は地面へと顔から突っ伏した。
「うぐっ」
砂利や小石が顔や掌に食い込みじくじくと痛み、食いしばった歯の間で砂がじゃりじゃりと不快な音を立てた。特にあごのあたりがヒリヒリとするから、もしかしたら傷が出来てしまったのかもしれない。
生まれてこのかた地面に突っ伏すなんて初めてのことで、痛みの次に感じたのは酷い屈辱感であった。
「何を…!」
上体を起こし自分をこんな目に合わせた男を睨み付けようとしたが、その必要はなかった。
背後から髪を掴まれ、物でも引っ張り上げるかのような乱暴さで無理矢理立たされたからだ。
ブチブチと髪の毛が抜ける嫌な感覚があり、痛みと湧き上がる恐怖、わけのわからない激情に私の口から悲鳴がほとばしった。
男は随分大柄らしく、肩のあたりまで頭を引っ張り上げられたせいでつま先立ちになってしまう。そのため満足にもがくことすらできない有様だ。もはや屈辱だの何だの言っている段ではなかった。
「いやぁあああ!離して!!」
「お前、エルメンヒルデだな!」
「わ、わたくしはそんな者じゃ…!」
グッと顔を上に向けさせられ、喉が詰まって一瞬息が止まる。いつの間にかあふれた涙がぼろぼろと頬を伝っていた。
捕まえに来たはずだから、殺されはしない。そうわかっているのに、自分を見下ろしてくる目のあまりの冷たさに全身の血の気が引いていくのを感じた。指先が冷えて、背筋をひんやりとした手でなぞられているような悪寒と恐怖がせり上がり、気がつけば私は癇癪を起こした子供のように泣き喚いていた。
「は、離して!離してぇええええ!!」
せめてもの抵抗で必死に丸太みたいな腕を引っ搔くが、分厚い服の上からではたいした効果もない。
半狂乱になりかける私を見下ろす男の顔から何か生暖かくて、ぬるっとしたものが涙で濡れた頬や胸元へ垂れた。
「あ…あ…」
血だ。
よく見ると男の額がぱっくりと割れており、そこから溢れた血が滴り落ちているのだ。
手足ががくがくと震え、髪を掴んだ手がなければ今にも倒れてしまいそうだった。無理に上を向かされて開きっぱなしの口は、舌が抜かれたみたいにまともな言葉すら発せない。
その間にもまた、ポタリと粘度の高い雫が滴ってきて、鼻にあたって頬へ滑り落ちていく。鉄臭さの中にどことなく生臭さが混じった血の匂いに、吐き気がこみ上げた。
この時になって、ようやく私は気が付いた。
私は本当は、何もわかっていなかったのだということを。
何の根拠も確証もなく、自分だけは大丈夫、今までのように上手くやれると、そう思い込んでいた。
だから、何もわかっていなかったのだ。亡命するということの危険性も、命を脅かされるということの恐ろしさも。何も。
時は遡り。
リートベルフ侯爵の屋敷。応接間で再び対面したリジーアは、なぜか仁王立ちしてこう言った。
「というわけで、エルメンヒルデさんと一緒に港町ベーレを目指します」
何がというわけなのだろうか。
何一つ理解できそうになくて、何度も瞬きをしてしまう。
「リジィ…」
私の向かい側、リジーアの隣に座っていたベルンハルトが、呆れと困惑を煮詰めたような少々情けない声で彼女の愛称を呼んだ。
「どのみち私たちも近いうちにベーレまで行くつもりだったでしょう?」
「それは、冬が終わったらの話だろ?」
「冬が本格的に来る前の話に変わるだけよ」
冬が来る前と来た後では相当違うのではないだろうか。
南北に長く寒冷な気候なこの国の冬は長く、最北のヴェーナー領などは一年の半分は雪に覆われているという。それともベーレから、観光産業が発達している南の方へ行くつもりなだとしたら納得できる話である。
「リジィ…」
再び情けない声で自分の婚約者に困り果てた様子のベルンハルトに、内心驚かずにはいられない。
私の知る彼は普段のぼんやりとした感情の見えない姿か、裏生徒会を仕切っているときの近寄りがたい姿のどちらかしかなかったからだ。
だから、彼が誰かを深く愛する姿なんて想像もできなかった。
リジーアとの婚約も世間が噂するように、一時的なものなのだと信じていた。
私にあるのはハウスクネヒト伯爵家という実家の力と隣国の公爵の血筋であること、そして一般的に美しいと言われるこの容姿だけ。それ以外はつまらない女だけれど、きっと彼の婚約者候補になるには十分だ。それにブルンスマイヤー公爵家も王妃派。可能性は高い。
きっとベルンハルトは私を愛さないだろう。
けれど、私は愛されなくても側に居られればそれでいいと思った。
私が彼を愛していて、心の底から献身できるのならば、母のようにほとんど軟禁に近い結婚生活で自分自身をすり減らす生き方より、ずっと幸せなはずだと。
そしてこの国から逃げるとなったとき、頭をよぎったのは家族でも友人でも爵位のことでもなかった。ただ純粋にベルンハルトに会いたかった。そうでなければ、私は何者にもなれないまま、また誰かの良いようされてしまう。
そんな強迫めいた思いが挨拶もなしに押し掛けるという、自分でも驚いてしまうくらい大胆な行動を私に取らせたのだ。
だが実際はどうだった?
予想だにしなかった彼の愛情も優しさも全て、彼女にしか向けられておらず、私がそこに入り込む隙すらなかった。
なんて…なんて惨めなのだろう。
いや、これは当然の報いなのかもしれない。彼らが仲睦まじいという噂を信じず、自分の都合のいい噂に縋って、あわよくばリジーアから彼を奪おうとした浅ましい私への当然の報いなのだ。
目頭に熱が集まって、俯いた視界がわずかに歪む。
もしかしたら一緒に亡命して下さるかもしれないなんて浮かれて、馬鹿みたいだ。私は一体何を考えていたのだろう。
涙をこぼしてたまるかと、若葉色のスカートをきつく握りこむ。
逃げるだけで精いっぱいだったというのに、一番いいドレスだけは持ってきた自分の無駄な努力が今更になっておかしく思えた。
「…わかった。言っておくけど僕はリジィの安全を第一に行動するから」
「はいはい」
自分の世界に入り込んでしまっていたようだ。気づくと二人の間である程度の決着はついたらしい。
力関係はリジーアの方が上らしい。あのベルンハルトが言いなりだなんて…。と何度目かわからない驚きを覚える。
「エルメンヒルデさん。港町ベーレまで私たちもご一緒するということでいいですね?」
まるで仕事の取引でもするかのような調子でリジーアが尋ねてくる。
もちろん、私の答えは決まっている。
「結構です。わたくし一人で大丈夫ですわ」
情けなどいらない。
それに、私をベーレまで送り届けて彼女に何のメリットがある?むしろ彼女からすれば私は自分の婚約者を奪いにきたと思われても仕方ないはず。それとも協力を申し出て、どこかで私を裏切るつもりなのか。そうでないのだとしたら、よっぽどのお人よしか能天気な女だ。
リジーアはさておいて、ベルンハルトは一時期とはいえ部下だった私を見捨てるはずない。そう言いたいが、彼が誰よりも合理的で冷酷な人か知っている私には、到底嘘だとしても言えないし、私は彼のそういうところに惹かれたのだ。
「本当に?」
リジーアは駄々を捏ねる子供を見るような目で私を見た。
「なんですの?」
馬鹿にされたように感じて、少しムッとしてしまう。
「エルメンヒルデさんはどうやってベーレまで行くつもりですか?近くの宿場で護衛を雇うとして、その場しのぎで雇った護衛だけであなたを守り切れますか?リートベルフ領の治安はいい方だけど、護衛の質までは保証できませんし、それに護衛を連れた身なりのいい娘なんてすぐに噂になって、追手に見つかってしまいますよ」
「それは…」
「それとも、平民の振りでも?あまり言いたくないですけれど、無理だと思います。辻馬車の乗り方だってわからないでしょうし」
あなただって知らないでしょうに。
そう突っかかってしまいそうになったが、彼女の言うことが的を射ているとわかってしまい口をつぐむ。
昨日はなんとも丸め込みやすそうというか、人の好さそうな女性だと感じていたが、私が思うよりも彼女はずっとしっかりしている。
彼女に言われて初めて、私はここに来るまでどれほど自分が無計画だったのか自覚して唇をかみしめた。
「たぶんエルメンヒルデさんが考えているほど、亡命って簡単なことではないですよ」
「…あなた方と一緒に行けば安全だというわけでもないでしょう」
「そうですね。でもベルンはそこらの腕の立つ護衛よりもずっと強いし、頼りになりますよ」
そんなことはもちろん知っている。
何といったって彼は二年次ですでに、馬術、武術は断トツの成績を誇っており、裏生徒会という実力至上主義ともいえるクラブをまとめ、率いていたのだ。エドウィン王子以外に彼を侮れる人間など存在せず、彼を尊敬する人間は多かった。それと同時に彼は恐れられてもいたのだ。
「ここであなたを追い出して、捕まっただとか、死体が見つかったとかいうことになると後味が悪くてしょうがないわ。それにベーレまでベルンの顔を見れる。エルメンヒルデさんにとって、良いことづくしでしょう?」
そう言って三つも年下だというのに、私なんかよりずっと年上みたいに彼女は笑って見せた。
ちょうど食材を届けに来ていた荷馬車を借りて、入り口も厳重に布で隠し、その中にリジーアと二人隠れながらひとまず隣のローマン領を目指すことになった。
ベーレまでは少し遠回りになるが、致し方のないことだという。
運転は誰がするのかというと、ベルンハルトがするという。もはや崇拝していたと言ってもいい相手に、馬車を引かせるなど申し訳ないことこの上ない。
追手を混乱させるために、私の乗ってきた馬車は空のまま、数刻前王都へ。そしてわざと裏口から私のドレスを着た侍女が数人の供を付けて、宿場町へ馬で向かった。
追手の全員がそちらにいかずとも、分散させることはできるだろう。
荷台のなかは薄暗く、床は固い。乗り心地はほとんど最悪と言ってよかった。
身の置き所がなくて隅に座り込んでいる私とは対照的に、リジーアはゴソゴソと毛布を広げたり荷物を移動させたりして環境の改善に取り組んでいた。秘密基地みたいで楽しいと笑う様子は、どこからどう見ても呑気以外の何物でもない。
何も考えていない能天気な女なのかと思えば、急に大人びたむしろ老成した雰囲気すら醸し出す。なんというか、掴みどころがない。
「どうして、わたくしに優しくしてくれるの?」
早くもお尻が痛くなって、抱えていた膝を崩し、横座りになりながらなんとなしに尋ねてみた。
「優しく、か…」
うーんと唸った声には、どこか自嘲するような響きがあった。
「私は卑怯な人間だから、誰にも嫌われたくないんです。それに誰だって人に優しくされたいと思うでしょう。人に優しくされたいなら、人に優しくしなきゃ」
それから今度はニヤリと口の端を片方だけ器用に持ち上げて見せる。
「まぁ徳を積むみたいなものですよ」
「徳…?」
「あ、徳じゃわからないんだっけ。えーと、善行…?」
「そこはかとなく失礼ね」
「エルメンヒルデさんに言われたくはないかな!そうそう、言い忘れていたけど旅の間は容赦しませんから」
「よ、容赦?」
「あなたが失礼なことを言ってきたら言い返すし、ベルンに変なことしたらドリルを引き千切ります」
引き千切る動作までご丁寧にしてみせてくれるリジーアには悪いが、ドリルとは一体何のことだろう。
私の体にそんな機械的な部位はない。いや、ないはずだ。
「だからエルメンヒルデさんも、遠慮しなくていいですから」
もしかしなくとも、気をつかってくれたのだろうか。
初対面で喧嘩を売った手前、彼女とどう接していいかわからない。優しくされてしまっては、余計に。
ああ、本当に私は何をやっているのだろう。
爪先が無意識に荷台の床を引っ掻く。
そして、それは突然やってきた。
エルメンヒルデが苦手という方もいらっしゃるようですが、もうしばらくお付き合いいただけたら幸いです。




